忍び
信幸の領内は上田城を本拠城にし信幸自身が、戸石城には弟の昌親を城主に据え、小諸城は仙石秀範が城代を務めていて、上手く治まっている。仙石秀久に頼んでいる兵の鍛錬も順調である。
この時、信幸が動員できる兵は六千余りであった。一つの城に全ての兵で籠れば、容易く負ける事はないが、豊臣に帰参して周囲が徳川方に囲まれている。
信幸にも意地があった。己の才を認めようとはしなかった秀忠に、徳川家に対して。
(もっと、力をつけねばな。大阪でも気張っておられるようじゃしな。まあ、父上と幸村が大阪におれば、徳川も苦労するだろうな。十五万石……内高としては千五百ほどの上乗せといったところか。徳川としては儂は目障りなはず。このままでは立ち行かぬか。
各地の情報が知りたいな。だが忍びの主だったものは大阪の父上のところで、儂の所には奥村弥五兵衛達がいるが領内というか手元に居て貰わねばならない。大阪との繋ぎや徳川の動きを探れる者……そういえば……あの者がおったか。大怪我したと言うが塩梅はどうなのだろう)
信幸は弥五兵衛を呼び、角間に居ると言うある男を連れて来るよう命じた。
十日後、弥五兵衛はある男と共に信幸の元へ参じた。
「おお、甚八! 関ヶ原で大怪我したと聞いておったが、塩梅はどうじゃ?」
信幸が話しかけた男、名を姉川甚八と言う。剣技を得意とする忍びである。その力量は上忍の中でも秀でていた。
「信之様、お久しゅうございます。角間の湯で養生したお陰で、すっかり傷は癒えました。ただ……」
甚八は言い淀む。信幸は甚八を急かせることなく、甚八が言葉を紡ぐのを待った。やがて甚八は言葉を続ける。
「ただ、肩に受けた傷は癒えましたが、筋をやられたようで、左手の動きが悪くなり申した」
甚八は怪我の後遺症で左手に痺れが残ってしまっていた。甚八は昌幸に従っていた忍びである。昌幸の元を離れ、上田に近い角間の湯で養生を続けていた。
角間の地は人里から少々は離れた真田忍びの里である。
甚八は信幸が徳川を離れたと聞き、すぐにでも参じようと思っていたのであるが、体の状態から足手まといとなることや同情されるのを嫌って躊躇っていたのであった。
「そうか。苦労をかけたの。少々不自由であろうが、そなたの力を貸してくれ」
信幸には甚八に心情が分かっていた。秀忠の冷たい仕打ちを受け続けたせいで、人の心の機微を読みとれるようになっていたのである。信幸の父・昌幸は感性を大事にして思考を組み立てる。一方の信幸は状況を冷静に判断する能力に長けていて、そこから物事を考える。一見すると冷静沈着であり、人情に流されない冷たい印象を持たれていたが、実際は人情に厚い漢である。
「ほ、本当でございますか? ご迷惑をおかけするやもしれませぬぞ!?」
「ははは、これ! 儂の目は節穴ではないぞ。そなたの力は分かっておる。傷が癒えても儂の所へ来なかったのは、不自由となった体を補う術……を身に付けていたのであろう。そなたであれば、その術はすでに形となった。違うか?」
信幸の読み通りであった。不自由となった左手の分は右手を鍛え上げて補う形ができたところであった。
「お見通しでしたか。ならば信幸様、この甚八の命、お預り下され」
甚八は平伏し信幸の臣、忍びとなったのである。姉川甚八、奥村弥五兵衛、そして信幸、三人とも嬉しそうであった。
甚八は奥村弥五兵衛率いる信幸護衛の忍軍とは役割の違う外向きなもう一つの忍軍を束ねる事になった。甚八は甲賀五十三家の一家を継ぐ三雲賢春などを引き入れ、二十名ほど数を揃えて活動する。
奥村弥五兵衛率いる忍軍は「奥村組」、姉川甚八率いる忍軍は「甚八組」と呼ばれるようになる。
真田忍びは他家の抱える忍びとは違い下忍でも武士の身分を与えられている。働きに応じて報償を受けるのではなく、微禄だが禄が宛がわれていた。ちなみに弥五兵衛、甚八共に三百石扶持であった。
この甚八組、三月後に活躍することになる。