いざ!
●一六〇三年十一月 信濃国・上田城
信幸は上州・沼田に配備していた兵、兵糧、金銭、宝物など持てる物を数度に分けて、全て上田に運んだ。豊臣家に帰参すると決め、沼田領を放棄し上田を本拠とするのである。上田と沼田、両方を維持するのは無理があったからだ。
この時分の上田は昌幸が保護に力を入れた『上田紬』が盛んに作られ活気があった。やはり昌幸の考案した『真田紐』は堺や大阪などで良く売れ、真田家の財政を潤している。
上田領は九万五千石。沼田領は三万石。沼田を捨てると九万五千石が残る。単純な計算でも減った三万石分は上田近郊で手にせねば財政も厳しくなる。
この時、信幸の家臣達は小身の者が多い。真田家は信幸と父・昌幸、弟・幸村と分かれ、重臣の者は昌幸に従った者が多かった。現在、信幸の家老を務めるのは宮ノ下藤右衛門だ。彼は昌幸の重臣であったが、信幸に才を見て、信幸の臣となった。
「藤右衛門。まずは小諸を獲る。」
「はっ。したが、我が軍は二千ほどしか兵を有しておりませぬぞ。小諸は二千以上はおるでしょう。」
この時代、城攻めには城方の三倍ほどの兵が必要と言われている。実際はそれほど兵を動員できる戦は少ない。定説は故・秀吉の城攻めからのもので、秀吉は多兵で攻め、降伏を促す戦法を好んで用いた。そこから広まった定説だ。
だが、小兵で攻めても固く守られれば落とす事は難しい。宮ノ下藤右衛門の言う事はしごくもっともな疑問である。
「そこは慶次郎殿に援軍を頼む。かの御仁は上杉殿から千ほど兵を連れて来ておる。御仁は戦好き、頼んでみよう。」
そう言って信幸は慶次郎に援軍を申し入れた。慶次郎は二つ返事で引き受けてくれたのである。
小諸は五万石。上田、小諸が繋がれば、両地の間の徳川直轄領も所領に組み込む事が出来る。単純に考えても沼田の分は取り返せる筈である。
信幸の正妻である稲は本多忠勝の娘で、信幸に嫁ぐ際は家康の養女とされた。信幸に才を見、真田家の力量を評価していた本多忠勝と徳川家康の、『徳川に真田を取り込んでおく』策である。嫁いでまだ二ヶ月だ。
稲は実父が信之の事を「良い漢だ」と繰り返し言っていたのもあり、すぐに惚れこんだ。同時に耳に入ってくる秀忠の信幸に対する冷たい態度に怒りさえ抱いていた。それゆえ、信幸が豊臣に帰参を決め離縁を申し渡されても、それを断り信幸に付いていく事を願い出ていた。信幸もそれを認めた。もちろん稲に従って付けられた忠勝の家臣達は送り返される。
本多忠勝、徳川家康は真田信幸が豊臣に帰参した事を知り、大層残念がった。同時に秀忠の信幸に対する態度を改めさせる事ができなかった事を悔やんだのである。
「いざ出陣っ!」
信幸は兵を引き連れ小諸城へ出陣した。上田城に残したのは弟・昌親と召し抱えたばかりの小川好安。従えるのは宮ノ下藤右衛門、木村土佐守綱茂、鈴木忠重。綱茂は藤右衛門の寄騎とし、忠重は信之の側廻りを命じた。
小諸城攻めは敵方の主・仙石秀久の自ら打って出るとういう短絡的な行動であっけなく勝利した。慶次郎にも秀久との一騎打ちの機会を作るなど働いてもらった。
信幸は戦を終え、小諸城に入り一息つく。すぐさま降った将が引き連れられて来る。
「秀久殿。そなたは上田に来ていただく。」
仙石秀久は捕虜とし、上田に引き連れて行かれた。
「信幸様。我らを信之さまの臣にお取りあげくださいませ。」
残った将の一人が声を上げる。それは秀久の息子・秀範である。
「何故?」
「はっ。父・秀久の短絡的な思考を常日頃から諫めて参りました。それに今更解き放たれても行く所がございませぬ。信幸様にお仕えしとうございます。何とぞお願い申しあげまする。」
(ふむ。この者は使えるようだな。秀久殿も才があるし、我も頒図を広げて行くには将が足りぬ。)
そう考えた信幸は仙石秀範と四名の降将を召し抱えた。
「秀範。その方にはこの小諸城の城代を命じる。木村土佐守綱茂、その方は目付せよ。」
「はっ。ありがたく。」と秀範。
「御意。」とは綱茂が。
こうして小諸城下と徳川直轄領の少しを手に入れ十五万石にまで頒図を広げた信幸であった。
小諸城の戦の模様は拙作「秀吉の遺言」第5部『小諸城の戦い』http://ncode.syosetu.com/n7723bg/5/
に描いてあります。そちらも合わせてお読みいただければと思います。