第二話 泥魔
私の家は濁った泥の海で、そこには怪物が住んで居る。
帰宅するのはいつも気が滅入る。
家中に散乱したあらゆる汚物が、家主の切迫した心情を反映して居る。
以前は役に立ちたくて片付けたりしていたが、最近それをすると母は却ってヒステリーを起こす様になったので止めてしまった。以来、この家は汚らしくなる一方で、いつも湿った臭いがする。
「ただいま」
一応呟いて子供部屋に逃げ込む。清潔な空間に息を吐く。
母は、保護者会からまだ帰って来てはいないらしかった。
「あーもう、母さんの帰りが、なるべく遅くあります様に」
祈るように、声に出して唱える。
机に向かい、私は小説の続きに取り掛かる。
外界を遮断して僕は自作の魔界に没頭する。
大地が裂けて腐ってゆき、肉を溶かす血が湧き出て世界が滅んでゆく。。。
恐らく今日、先日の検査の結果が母に知らされるはずだ。
十月の終わり、日常には終にヒビが入ろうとしている。
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朝。
陸奥国とは言え、十月はまだまだ暖かい方だ。
徹夜して原稿に向かって居たため頭が全く働かないが、珍しく良い気分で自転車を駆る僕が居た。
そんな上機嫌も、学校に近づくにつれ萎えてくる訳だが・・・
珍しく早く登校できた僕は校門を入った所に在る、『掲示板』の前に人だかりが出来ているのに気付く。『貼り紙』を見ているらしかった。
内容が気になり分け入って見てみようかとも思ったが、 発育の良い男子がひしめき合って居るその有様に思わず後退る。
人群れの切れ目から除く貼り紙の文言と群衆の話し声から、この間の検査に関係の有る事だけがかろうじてわかる位だった。
ダメだ。アレはダメだ。男はやはり名波先輩くらい清潔感が無くては・・・
それによく見たら中には好ましくない奴らも混じっている。 気付かれぬ内にさっさと通り過ぎようとした時、『好ましくない奴ら』の筆頭格が何かの拍子に振り返り、僕に気づいて悪意的な笑みを浮かべた。
「おい、君夜、良かったじゃん!」 台東泰時の嫌味ったらしい声に怖気が走る「お前の頭のおかしいの、治して貰えるってよ!」
付き合ってられない。僕は急いで立ち去ろうとした。だが破裂音と台東の漏らす驚きが響き足を止めた。
名波先輩だった。綺麗な顔が怒りで赤らんでいる。台東の頬を張って、怒鳴った。
「ウチの後輩に!」
先輩は頬を抑えて言葉を失っている台東を睨みつけると、踵を返して僕の所にまで来て、僕の腕を取りさっさと場を離れようとした。
「何すか。何で俺が怒られなきゃないんですか!」
台東が負け惜しみを怒鳴ってくるが、気にしない。
「先輩、そいつが好きな人誰か知ってんですか?! そいつが『こんな』なのは先輩の指導不足も有るんじゃないんですかッ!」
先輩が導いてくれるのがただただ夢のようで、なにも耳には届かなかった。
僕のクラスの有る三階まで上がる頃には、二人とも少し息が上がっていた。
「ああ、怖かった」一年一組の出入り口の前で息を整えながら、先輩は恥ずかしそうに笑う。「ごめんね、余計なことしたかな」
「そんな事ないです。・・・嬉しかったです!」
「・・・貼り紙の内容は、読んだの?」
「い、いえ。どういう内容だったんですか?」
先輩が難しい顔をする。 どう言ったらいいのか分からないと言った表情だ。
「先日の衞精検査で・・・ 治療を希望する人たちのリストだよ」
「・・・え?」
先輩が続けようとしたその時、予鈴が鳴り響く。
「あ・・・」
「遅れるよ。お行き」
視線を戻すと、険しい表情を緩め、幾分作り物名てはいたが笑みを浮かべた先輩ががいた。
先輩は手を僕の頭に被せてわしゃわしゃした。
心地よいものが頭皮を痺れさす。
「あまり気にしない様にね、午後にまた会おう」
「ぁ・・・はい」
去ってゆく先輩の背中を見送り、早く放課後にならないかなと、心の底から思う。
余韻に浸る間は無かった。
妙に皆の注目を集めているのを感じる。 何か話題に登る様な事をしただろうか。
教室の入口脇の壁に寄り掛かって、僕を真っ直ぐ見ている影がある事に気付く。
その影は、まるで待ち構えている様に僕に挨拶した。
「よ」
気安そうな雰囲気の、背の高い女子だった。
人を食ったヘラヘラ笑いを浮かべ、敬礼する様に手を持ち上げている。
僕が何と言っていいものか分からず棒の様に突っ立っているのを見兼ねてたのか、彼女はあはは、と意味もなく笑った。
「えーっと」彼女は自分を指差す。 「私わかるかな?」
「ええと、笹谷さん、だっけ?」
「その通り。笹谷禱・・・ 禱でいいよ」
外人の様にオーバーに腕を広げて宣うものだから、ただでさえ僕より高い背が更に大きく見える。
彼女はニヤッと笑い、僕に手を差し伸べた。お前は西洋の騎士か何かか。
「同志!」
「え、えぇ?」
笹谷禱はヘラヘラしながら、僕の右手をとった。思わず握り返す。
「一緒に頑張って行こうね?」
「何を?」
「何をって・・・」
笹谷禱は背後の、開けっ放しになった教室の扉の向こうに覗く白板に親指を向ける。
「あれを」
白板にはポップな丸文字で何かが書いてあった。
怪訝に思い、また妙な胸騒ぎを覚え、僕はその文言を確認するため、笹谷の手を離して・・・ 離れねえし。手を繋いでまま彼女を引きずって教室の扉をくぐる。
問題の白板にはこう在った。
白石君夜&笹谷禱是同性愛者 (白石君夜と笹谷禱は同性愛者)
悪意だ。
此処の所、収まって来たと思ってたのに。
思わず後退る。足がガタガタ震えだす。笹谷が慌ててよろめく僕を支えた。
「だ、大丈夫?」
「い、いまさらっ」無理に絞り出した声は掠れ切っていた。
「こんな、誰でも知ってる事を」
のしのしと白板まで歩いて行って、白板消しでゴシゴシこすって見る。
なんの変化も無かった。
「無駄だよ」
禱さんは白板に書かれた文字を引っ掻いて見せる。
「油性マジックで書かれてる」
僕は教室を見渡す。
台東泰時!
台東の取り巻きの数人が僕を見る目に憎しみが滲む。 禱さんがくつくつ笑うのが聞こえる。
「こんなのまだまだ序の口序の口、これからよろしくね、君夜くん」
手をヒラヒラさせて、彼女は教室から出ていった。
これから授業だと言うのに。
先生とすれ違う。が、ガン無視だ。 先生が振り返ってスタスタ歩き去って行く禱さんに何か言うが、全く気にも留めない。
僕は、言う事を聞かない身体を無理やり着席させる。
何かがじわじわと足元から腐って行くのが見える様な気がした。
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昼休みのチャイムが鳴ると、タイミングを見計らったように影が、僕の机にかかった。
視線を上げると、そこには。
「白石くん、ご飯一緒に食べよう」
同性愛が発覚し一躍有名人に成った笹谷禱さんが居た。
「白石くんは小説書いてるんでしょ? 読んでるよ、部誌。レベル高いよね」
学食で蕎麦を啜りながら禱さんは喋る。
「君の先輩の、ペンネームなんて言ったっけ? 緋奈鳥さんの書いてるやつ。あの、人が虫みたいに死ぬ話、三神がファンだって言ってた。私は君のとか裕祐樹さんが書いてるやつも好きだけどね、でも緋奈鳥さんは一つ頭飛び抜けてるとは思うよ」
「ミカミって?」
「一城三神。うちの二年生で、私の彼女」
なんと答えたら良いモノか分からない。
「大丈夫なの? 僕なんかと一緒にご飯食べてて」
「三神は今日休みだからね。親に殴られて休んでるから。家から出してもらえないんだってさ」
親に殴られて、軟禁状態。
「どう言う事なの」
「そんなの、私と付き合ってるって暴露たからに決まってんじゃん」
「どうして暴露たの?」
笹谷は僕を見る。まじまじと見つめる。ちゅるっと麺を啜りそして訊いた。
「何も知らないの?」
彼女の喉が動き、麺が嚥下される。
「二時間掛けた大掛かりな心理テストみたいなアレ」
禱さんはとっくに空になったパックの牛乳をジュルジュルとしつこくしつこく吸っている。意地汚いのかと思ったがどうも考え事をしている時の癖らしかった。
「来年から陸奥全国の高校・中学全部で実施されるらし」けぷっと小さくゲップして、慌てて口を抑えて、「いよっと、失礼。ねえ、最近この学校にも十矢の『営業』が出入りしてるの。それがどう言う事かわかる?」
十矢介入心理学。
匈弩國を本拠とし世界を股にかけて展開する大企業。
没日郷を代表する会社で、社会科の教科書にも載っている。
精神工学を駆使した商材、治療を廉価に提供する事で知られるあの十矢が、こんな田舎の学校で何を?
「分からないかなあ? 例の検査も十矢が執り行ったんだよ、それも無料でね。おばちゃん、ご馳走様ー」
「無料? 何の為に?」
「学校で私たちみたいな同性愛者や病質者、精神的欠陥を炙り出して親の不安を煽って、自社で治療を受けさせてがっぽり儲ける気なんだよ」
禱さんは僕に辛抱強く説明して聞かせる。
「あいつらは、こないだの検査で分かった『症状』を、親に教えるついでに救いの手も差し伸べる。例えば、こんな風に・・・『残念ながら検査の結果、お子様は同性愛者である事が判明しました、しかしご安心ください。弊社の最新の治療を受けて頂ければ、たった三回の手術で立派な異性愛者にしてご覧にいれます・・・』」
二人して食堂を後にし、禱さんが好い加減吸い付くしたパックを握りつぶすころ、僕らは校門を入った所に有る掲示板の所にたどり着く。
【告知】
『下記に挙げたの生徒には所定の期日に再検査を行います』
列挙された二十三人の名前の中には、僕のものも確かに含まれていた。
僕の名前も、禱さんの名前も、禱さんの彼女だと言う一城三神さんの名前も、そして久郷先輩のものも。
名波先輩の名は、見当たらなかった。
「同志よ!」
禱さんはそう言って僕の首に腕を回す。校舎に彼女のヤケクソ気味の笑い声が響いた。
どうしてか僕もつられて笑う。
僕は知っている。
『治る』様になってから、同性愛への風当たりは却って強くなった事を。
没日郷で【小児性愛】が『撲滅』された事を。
【病質者】への嫌悪と恐怖が未曾有のうねりを見せている事を。
どうしようも無い、避けようも無い恋の終わりの予感がした。
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放課後。
眞田を除く我ら文藝部の面々は、部室の前で立ち往生を余儀なくされて居た。
「開かない」
久郷先輩はイライラと、学生証を所定の溝に繰り返し通して居る。
だがその度に【貴方没有開錠権限 (貴方には開錠権限が有りません)】というエラーメッセージが表示されるだけだ。
貴方没有開錠権限。
貴方没有開錠権限。
貴方没有開錠権限。 貴方没有開錠権限。貴方没有開錠権限。
「無いはず無いだろ!」
そう怒鳴って久郷先輩は握り拳を引き戸に叩きつける。前から思っていたがなんて短気な人なんだ。 しかもちょっとの事で直ぐに本性が曝け出ると言う。やはりこの人では名波先輩にはふさわしく無い。
久郷先輩が名波先輩に目配せする。
「ん」
名波先輩は頷き、自分の学生証を通す。
貴方没有開錠権限。
久郷先輩は舌打ちして、しょうがない、職員室にいって先生を呼んで来ると言って歩いて行った。
名波先輩と取り残される。
「・・・珍しいですね、こんな不具合は」
「うん」
名波先輩は諦め悪く、もう何度かキーを通す事を繰り返す。
よく考えると、いや、考えなくとも・・・ これは、二人っきりだ。
沈黙が気まずくて、何か話さなきゃと思う。
「・・・先輩」
「ん?」
「先輩って、優しいですよね」
「そんな事ないよ」
「あります」
僕は、ありったけの勇気を振り絞る。
「今朝も、僕のために・・・先輩はどうしてこんなに優しいの。怖くないの?」
「怖くはないさ」
先輩は笑う。
先輩を見つめていると目が勝手に潤んで来て、感づかれるのが恥ずかしくて目を逸らす。
そうして時間が何分過ぎただろう。変な奴だと思われている気がして、僕は怖くなって先輩を見る事が出来なかった。
「大丈夫」
先輩が僕の手を取る。僕は息が止まる。
「君には僕が、僕には久郷緋奈鳥がついている。怖いものなしさ。ね?」
「おい」
聞いた声がした。びくりとして先輩から離れようとする。しかし、先輩の手に力がこもり、僕の手を繋ぎ止めた。
「お前ら何男同士で手なんか繋いでんの」
「あは、韓国では普通の事ですよ」
先輩は如才なく流し先生を迎える。
「俺がそう言うの嫌いだって事知ってるだろ」
無意識の為せる技か、自然と先輩の後ろに隠れる様な格好になる。
幽霊顧問の渡良瀬先生。
僕はこの人が嫌いだった。
「んん?」 気難しそうに顔を歪める。
「二人足らんな」
「久郷なら、先生を呼びに職員室へ。眞田は漫研に行ってるんじゃないですかね」
「あちゃー、落ち着きのないやっちゃ」
血生臭い小説や『ホモ小説』は禁止と言いながら、部誌なんて読みもしないから実際に載せても全く気付かない、好い加減な奴。
今日、僕たち四人に集まる様に言ったのもこいつだった。
「いや、却ってこっちのほうがイイか。おい、部長」
「はい」
「文藝部、廃部だから」
僕の手を握る先輩の手から、急に力が抜ける。
「じゃあ、確かに伝えたからな」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!」
先輩が僕の手を振り払う。
「ああ?」
「廃部って、どうしてそんな、いきなり」
「だってほら、まずいだろ」
渡良瀬が僕を見る。その表情を、僕はきっと一生忘れまい。
「【人擬き(ヒトモドキ)】やら【ホモ】が雑誌任されてたら」
血も、凍る。 奴はボリボリと頭を掻き、用は済んだとばかり踵を返し去って行く。
「【それ】と久郷が抜けて、二人新しい部員捕まえて来れれば、また活動してもイイぜ」
僕と先輩は、遠のいて行くその後ろ姿を呆然と見送る。
「は、はっはは」
困惑した薄笑いを浮かべて、先輩が僕に向き直る。
「・・・何、あれ」
誰へともなく呟き、問いかける様に僕を見て、先輩は怯んだ。
僕はもう限界だったのだ。
「ぅ、ぅあっ、あ」
「君夜」
堰き止めようとしたが、ダメだった。
悔しくて切なくて、熱くて苦いものが決壊する様に流れ出す。
溢れてくるものを、もう留めていられない。
「うわ、ああああ、アアアっ」
涙を拭っても後から後から湧き出る様に。
「き、君夜くん、ちょっとお願いだから、落ち着き・・・」
「うあ、あああっあ、あぐっ」
「ああ、もう・・・!」
気付いた時には既に先輩の腕の中に収まっていた。抱きとめられている自分を発見する。
先輩は赤ん坊をあやす様にゆっくり身体を揺らし、手で僕の背中を優しく摩っている。
「ほら、大丈夫だから。全く・・・」
「あ・・・ぁぐぅ・・・ぅ」
「・・・はあ」