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氷の大公、現る〜社交辞令ゼロ秒、年俸は前世十年分の転職オファー

(退職は片付いた。問題は──次の就職先よね)


大広間の扉を抜けた瞬間、ロザリンドの頭の中で、それが回り出した。


婚約破棄の余韻に浸る暇は、一秒もない。前世の癖だった。


公爵家に戻れば、また別の縁談が降ってくる。同じ(てつ)は踏まない。


──どこか、私の名前で働ける場所はないかしら。


本気でそう考えながら、回廊を歩いていた。我ながらどうかしている。


「ロザリンド・エイベル嬢」


低い、抑えた声だった。


回廊の奥。柱の影から、長身の人影が一歩、踏み出してきた。


黒髪。氷を思わせる薄い青の瞳。装飾を最低限にした漆黒(しっこく)の正装。


──知っている顔だ。


知らないはずがない。社交界で、その顔を見たことのない令嬢はいない。


ロザリンドは扇を持つ手を、ほんの少しだけ強く握り直した。


「……ヴェルナント大公殿下」


「ああ」


「今宵のご招待客リストに、閣下のお名前はなかったかと記憶しておりますが」


頭の片隅で、招待者の帳簿がぱらりとめくれた。建国記念。同盟国。──いいえ、ヴェルナント大公国は中立。同盟関係ではない。


つまり彼は、招かれていない場所に、自分の意思で来ている。


「ご機嫌よう、閣下。今宵はどのようなご用向きで」


社交界の挨拶は反射で出た。けれど内心では、別の計算がもう走り始めている。


──あの「氷の大公」が?


月に十件と噂される縁談を、無表情で蹴り続けてきた男が、なぜ今夜、わたくしの目の前に。


単刀直入(たんとうちょくにゅう)に言う」


ルーカス・ヴェルナントは、社交辞令を一切省いた。


「うちで雇いたい」


「……は?」


ロザリンドの口から、令嬢らしくない声が漏れた。


「ヴェルナント大公国経済顧問。条件は君が決めていい」


廊下の照明の下、男はまっすぐにロザリンドだけを見ていた。


すぐ後ろで、側近らしき寡黙な剣士が、書類の束を静かに差し出している。


──いつから、用意してあったの。


ロザリンドは、扇の角度を少しだけ整えた。動揺を悟られない程度に。


「閣下。失礼ながら、私は今しがた、王太子殿下より婚約破棄を申し渡された身でございますが」


「知っている」


「悪役令嬢として、社交界で評判の悪い女ですが」


「知っている」


「経済の話以外、できることがほとんどない女ですが」


「それでいい」


三回連続、即答だった。


ロザリンドは、わずかに口の端を動かした。


前世の社畜の脳が、即座に判定した。


──これは、()()()()だ。


それも、こちらの足元を見ない、条件をこちらに委ねる類いの。


田中律子が、一度も受けたことのなかった種類の話だった。


「契約書、拝見してもよろしくて?」


「どうぞ」


側近が差し出した羊皮紙を、回廊の燭台(しょくだい)の下で広げる。


前世、田中律子が十年磨いた目だ。契約書の地雷を見つけるのは、三十秒で足りる。


職務内容。経済政策の立案権。執務室の独立。決裁ライン。報酬条項。違約金条項。


──片務的(へんむてき)な縛りはない。退路は塞がれていない。一方的な帰属条項も、ない。


ロザリンドの視線が、ある一行で止まった。


提示された年俸の数字。


(……前世の私の、十年分)


為替換算(かわせかんさん)物価補正(ぶっかほせい)をかけ直してみても、結論は同じだった。


田中律子が十年かけて稼げなかった金額が、一年分の報酬として、いま目の前にある。


──『お前みたいな女は、どこに行っても通用しない』。


あの夜の上司の声が、ふっと耳の奥で蘇って、そして、音もなく崩れて消えた。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


ロザリンドは、ふっと短く笑った。


ほんとうに、ほんの一瞬だけ。


「閣下。ひとつだけ、加えてもよろしいですか」


「言ってみろ」


「契約書には、私の名前で署名する欄を。『公爵令嬢』でも『元婚約者』でもなく、()()()()()()()()()()()()()


ルーカスの薄青の瞳が、わずかに細められた。


「……認める」


側近が、無言で羽根ペンを差し出してくる。


ロザリンドは、回廊の壁際にあった侍従用の小机にその羊皮紙を広げ、迷いのない筆致で、自分の名前を書いた。


ロザリンド・エイベル。


久しぶりに、誰のための姓でもない、自分自身の名前として、書いた気がした。


「──ありがたく、お受けいたしますわ」


今夜、二回目の「ありがたく」だった。


向こうの「ありがたく」は破棄状を受け取る皮肉で、こちらの「ありがたく」は採用通知を受け取る本心だった。


「契約成立だ」


ルーカスは羊皮紙を受け取った。指先が、署名の一字一字をなぞるように、ほんの一瞬だけ止まった。


ロザリンド・エイベル、と。


ロザリンドはそれに気づかず、扇を畳んでいた。


「明日の朝、迎えの馬車を寄越す」


「明日の朝、ですか」


「君が婚約破棄された会場に一晩でも残す気はない」


淡々と告げられたその一言を、ロザリンドは「当事者を現場に置き去りにしない段取り、合理的だわ」と受け取った。


ちょうどそのとき。


大広間のほうから、ようやく事態を把握し始めた貴族たちのざわめきが、波のように(あふ)れてきた。


「あの、氷の大公が……」

「あの女に、声をかけたぞ」

「待って、彼女、今しがた婚約破棄を──」

「廊下で何か、書類に署名を……」


ロザリンドはちらりと振り返って、扇の陰で、誰にも見えない角度で、もう一度だけ、こっそりと指を握りしめた。


二度目のガッツポーズだった。


退職と転職が、同じ晩のうちに片付いてしまった。


こんなに効率のいい一日は、田中律子の二十八年にも、ロザリンドの十八年にも、一度もなかった。


「では閣下、明朝、お迎えをお待ちしておりますわ」


「ああ」


ロザリンドはドレスの裾を翻し、今度こそ、王宮の正門へ向かって歩き出した。


背後で、ルーカスが側近に何かを短く指示している声が、わずかに聞こえた。


「エイベル公爵邸の周りに、今夜から人を配せ」


「は」


「アルバート側が、彼女を引き戻そうとする可能性がある」


「了解いたしました」


ロザリンドの耳には、その声は届いていなかった。


届いていたとしても、「警備手配、合理的ね」で済ませただろう。自分のためだとは、夢にも思わずに。


回廊の角を曲がる銀髪の後ろ姿を、ルーカスは無言で見送った。


しばらく動かなかった。


それから、ようやく、誰にも届かない高さで呟いた。


「明朝、絶対に遅れるな」


側近は、軽く目を見開いた。


七年仕えてきて、主の口から「絶対に」という単語を聞いたのは、初めてだった。


ルーカスにヘッドハントされたいなら、【にこにこ】を!ロザリンドを雇用したい人は【いいね】をお願いします。 ★は新しい就職先へのご祝儀だと思って、そっと一押し。

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