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短編小説

悪役令嬢でも溺愛されたい。

作者: おでこ
掲載日:2026/03/17

本作は、全七章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 必要悪という名の正義

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 鏡の中の自分を見つめながら、イザベラはゆっくりと口の端を持ち上げた。


「……ふふ、ふふふ……」


 違いますわ。これでは不気味なだけですわ。


 眉間にしわを寄せ、やり直す。口角を上げすぎず、しかし確かな冷笑を含ませ、眼差しには刃のような鋭さを宿す。燃えるような赤い縦ロールを一本指でゆっくりと払い、顎をほんの少し持ち上げる。


「ふふ。この学園に逆らう愚か者に、容赦はしてよくてよ」


 完璧ですわ。


 満足げにうなずいてから、イザベラはふっと表情を緩めた。一人の時だけ許している、素の顔で。


 悪役令嬢を選んだのは、自分だ。後悔はしていない。ただ一つだけ。この道を選んだ代償として、諦めたものがある。


 誰かに名前を呼ばれて、思わずほころんでしまうような顔。廊下で隣を歩く人がいて、照れくさくて目を逸らしてしまうような顔。そういう、ごく普通の恋愛の顔を、わたくしはもう、できないのだから。


 でも――それでもいい。この学園を守れるなら。


 なぜイザベラが悪役令嬢を志したのか。それには三年前の話が必要になる。


 かつてこの学園に、レジーナという先輩令嬢がいた。高慢で冷酷、誰からも恐れられた存在。彼女は嫌われることを厭わず問題のある者には容赦なく牙を剥き続け、結果として学園の秩序を守り抜いた。嫌われてなお立ち続けた崇高な魂――とイザベラは信じていた。


 (実際のレジーナ先輩はただ意地悪をしたかっただけだった。意地悪をするたびに相手が奮起して良い方向へ向かってしまい、悪役令嬢として散々な結果に終わり続けた。本人としては完全な失敗の連続だったが、イザベラはその顛末を崇高な自己犠牲の物語として読み違えた。誰も訂正しなかった)


 その伝説に心を打たれたイザベラは誓った。自分も悪役令嬢として、必要悪として、この学園の秩序を守ろう、と。


 必要悪だ、とイザベラは思う。誰かが嫌われ役を引き受けなければ守れないものがある。悪役令嬢は最初から嫌われている。だからこそ声を上げられない生徒の代わりに泥をかぶれる。問題のある者に堂々と向かっていける。表立って動けば信用を失う場面でも、最初から信用がなければ何も失わない。


 不器用で、遠回りで、誰にも伝わらない。それでもこれが、イザベラの選んだ正義だった。


 ただ、本音を言えば。


 こんなわたくしでも、いつか誰かに愛される日が来るのかしら。


 縦ロールを整えながら、その考えを頭の隅にそっと押し込んだ。今日もまず、悪役をやり遂げなければならない。


 今日の標的は中庭の石段にいる一年の女子生徒、マリアだ。浮かれた様子で毎日誰かへの手紙を書いている。


 送り先は三年のフォリオ。愛想はいいが、実態は持参金目当てで複数の女子生徒に近づいているという話をイザベラはすでに掴んでいた。さらに廊下に落ちていた紙切れがフォリオと共犯者のやりとりを示すものだとわかった時、計画は固まった。


 中庭へ踏み込み、つかつかとマリアへ歩み寄る。


「あら。その手紙、こちらによこしなさいな」


 マリアが怯えてふるえる。震える指から手紙が抜けた。周囲から小さな悲鳴が上がる。


「またイザベラ様がいびっている……」

「かわいそうに……」


 冷たい視線が刺さる中、イザベラは手元の手紙に、証拠のメモと添え書きを悟られぬよう重ね合わせた。そのまま、マリアの胸元へまとめて突き戻す。


「あなたにはあの殿方は釣り合いませんわよ。身の程をお知りなさいな」


 マリアが反射的に受け取ると、手紙の背後に隠された余計な紙の感触が指先に伝わった。


 〝中身をよく確かめなさい。あなたはもっと大切にされてよくてよ。〟


 くるりと踵を返す。背後でマリアが証拠を確認している気配がした。


 よし、完璧な悪役ですわ。


 ……それで、いいのよ。


 廊下を歩きながら、イザベラは足を止めた。

 向こうの中庭の一角、生徒会副会長のクローディアが、一年の女子生徒を追い詰めているのが見えた。白金の巻き髪に、正義を語る端整な顔。


「あなたのような方が生徒会の備品を使うなんて、分不相応ではなくて?」


 声は甘く、笑顔は完璧だった。取り囲む生徒たちも笑っている。一年の女子生徒は青ざめて俯いていた。助けを求める視線を誰かに向けようとして、しかし誰もそちらを見ていなかった。


 クローディアの笑顔が、どうしても好きになれなかった。


 正義の顔をした悪意というものを、イザベラは知っている。笑顔で誰かを踏む。場の空気を作って、孤立させる。証拠が残らない形で、着実に。


 イザベラは足を踏み出した。


「あら、クローディア様。随分と楽しそうですわね」


 甘い声と、冷たい眼差しで。クローディアが振り返る。一瞬だけ、その目に何かが光った。


「まあ、イザベラ様。どうかなさったの」


「退屈ですから、少しお邪魔しますわよ」


 クローディアの取り巻きが一歩退く。その隙に一年の女子生徒がすっと逃げ去った。クローディアの笑顔が少し固まる。


「……相変わらず、空気の読めない方ね」


「悪役令嬢ですもの。お気になさらないでくださいまし」


 イザベラはそのまま颯爽と歩き去った。背中に刺さる視線は、クローディアのものだとわかっていた。



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第二章 生意気な後輩と、灯った火

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 放課後の東屋。蔦の絡まる白い東屋は、今のイザベラにとって唯一の憩いの場だ。誰も近づかないから。


「先輩、今日の件っすけど」


 砂利を踏む音と共に現れたのは、制服を首元だけ緩め、気だるげに髪をかきあげた女子生徒だった。整った顔立ちに眠そうな目。カノン。一年生にして学園始まって以来の天才と謳われる女子生徒。そして、イザベラの唯一の話し相手だ。


 彼女は断りもなく向かいの椅子に腰かけ、メモを広げた。


「マリアさん、渡したメモに気づいて、今ごろ証拠持って先生のとこ行ってるはずっす」


「まあ。悪役作戦、大成功ですわ」


「いや失敗っすよ。『イザベラ様が守ってくださった』ってうるうるしてたっすよ。悪役として失格っすね」


「なんですって。次回はもっと冷たく突き返すべきでしたわ……今後の課題ですわね」


「課題って言わないでほしいっす」


 カノンがため息をついた。


「……なんで先輩、こんな形で守ろうとするんすか。普通に『その人は悪い人だから気をつけて』って言えばいいじゃないっすか。不器用すぎて見てられないっすよ」


「悪役令嬢の言葉を、誰が信じますの。最初から嫌われているからこそ、この役が成り立つのよ」


「それ、全部自分で作り上げた状況じゃないっすか」


 言い返せなかった。イザベラはカップを静かに置いた。


 それからカノンは、メモをめくり、少し声のトーンを落として話題を変えた。


「……それより先輩、今日クローディア副会長の場に割り込んでたっすよね」


「見ていたの」


「見てたっすよ。あの副会長、ほんといやらしいやり方するっすね。笑顔で囲んで、誰も助けられない空気を作って」


 カノンが珍しく眉を寄せた。


「証拠はないっすけど、最近の揉め事、あの人の周りから起きてる気がするっす。私なりに追ってるんっすけど、巧妙で尻尾が掴めなくて」


「……わたくしも、同じことを思っていますわ」


 二人でしばらく黙った。


 向こうの中庭では仲のよさそうな男女が並んで歩いていた。男子生徒が女子生徒の荷物を持ってあげていて、女子生徒が照れくさそうに笑っている。


 ああ、とイザベラは思う。あんな風に笑える日が、わたくしにも来るのかしら。


「……カノン、一つ聞いてよくて?」


「なんっすか」


「悪役令嬢のわたくしでも、誰かに愛される日は来ると思いますか」


 少しの沈黙があった。カノンが菓子の包みを閉じながら、ぽつりと言った。


「来ると思うっすよ。先輩のことちゃんと見てる人には、ちゃんと見えてると思うっす」


「……根拠はありますの」


「ないっすけど」


 なんですのそれは、とイザベラは思った。でも、なぜか悪い気はしなかった。



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第三章 銀髪の傍観者は、動き始める

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 グランフェール公爵家の朝は静かだ。


「本日は……ご登校でございますか、リュカ様」


 執事のセバスが驚きを隠せない声で言った。三週続けて言われると流石に慣れてきたが、セバス自身はまだ慣れていないらしい。


「単位がある」


 リュカ=グランヴィルは短く答え、玄関へ向かった。銀髪が揺れる。冷たい灰色の瞳には、何も映っていない――ように見える。


 この学園に、リュカはほとんど来なかった。

 公爵家の嫡男という肩書きに群がる連中の、媚びた笑顔と打算まみれの善意が、反吐が出るほど嫌いだったから。


 しかしそれとは別に、ずっと気になっていることがあった。


 生徒会副会長のクローディア。

 あの令嬢が学園内で問題を起こし続けていることを、リュカは公爵家として外部から収集した情報で把握していた。

 金銭トラブル、人間関係の操作、証拠のない嫌がらせ。だが当人は決して手を汚さない。常に誰かを使い、常に笑顔でいる。一人で追っても尻尾が掴めず、リュカは手詰まりのまま関わることを諦めかけていた。


 そのはずだった。


 久しぶりに登校した帰り際、人気の少ない裏庭の石畳で足を止めた。

 大きなオークの木の上で、猫が一匹、震えながら鳴いている。周囲に生徒の姿はない。どうするか考えていると、向こうから足音がした。


 燃えるような赤い縦ロール。悪役令嬢として名を馳せる、嫌われ者。イザベラ嬢。


 しかし彼女は木を見上げた瞬間、ぱっと表情を変えた。


「あらあら、困ったところにいるのね。大丈夫よ、今助けてあげますからね」


 声が、やわらかかった。さっきまでの威圧感がどこにもなかった。


 彼女は袖をまくり上げ「よしっ」と気合の声を上げ、令嬢らしくもなく木に登り始めた。靴が樹皮に当たってばたばたと音を立て、縦ロールがぐちゃぐちゃに乱れながら、それでも登り続けた。猫の元へたどり着くと、震える小さな身体を胸に抱き、ゆっくりと下りてくる。地面に降り立った瞬間、ほっと息をついて、猫の頭をそっと撫でた。


「怖かったわね。もう大丈夫よ」


 誰にも見せない顔で、笑いかけていた。


 リュカは木の陰でその一部始終を見ていた。


 この学園に来てから、一度も見たことがなかった。打算のない顔を。誰かに見せるためでも、評価されるためでもなく、ただ猫に笑いかけているだけの、そういう顔を。


 それから毎日、登校した。翌日は廊下で目撃した。上位の女子生徒に泣かされていた下級の女子生徒のそばへ、イザベラが歩み寄り、ドリンクをわざとらしくぶちまけてその場をかき乱す。全員の視線がイザベラに向いた瞬間、下級の女子生徒が逃げ去っていく。誰も見ていなかった。イザベラがほんのわずかに視線を向けて、その子の無事を確認したことを。


 翌々日は中庭で見た。クローディアに一年の女子生徒が追い詰められている場面へ、イザベラが割り込んでいく光景を。逃げ場を作って、颯爽と去っていく。残った生徒は「またイザベラ様が空気を乱した」と眉をひそめていた。


 リュカは自室の椅子に深く座りながら、天井を見上げた。


 わかってきた。あの女の行動の裏にあるものが。最初から嫌われていれば、傷つけても咎められない。悪役を名乗ることで守れるものがある。打算がない。見返りを求めていない。誰も見ていなくていいと思って、ひとりで動いている。


 ひとりで、ずっと。


 なぜそれが気になるのか、リュカは最初わからなかった。人間不信の自分が、なぜこの女の行動から目が離せないのか。合理的でない。関わる理由がない。そう言い聞かせながら、それでも翌日また登校している自分がいた。


 理由を探した。公爵家として学園の状況を把握するため、と言い訳した。しかし正直に言えば、それは後付けだった。


 ある夜、書類を整理しながらリュカはようやく認めた。


 あの女は、自分と正反対だ。リュカは人間を信じないから関わらない。あの女は人間を信じているから、嫌われる役を引き受ける。どちらも孤独だ。でもその孤独の中身が、まるで違う。


 リュカの孤独は、冷たい。誰も信じないから傷つかない。傷つかないから何も失わない。それで十分だと思っていた。


 しかしあの女の孤独は、温かい。信じているから傷つく。それでも守ることをやめない。誰にも気づかれなくていいと思いながら、それでも明日また動く。


 ……その孤独を、放っておけなかった。


 放っておけない理由が感情だと気づいた時、リュカは少しの間ペンを止めた。自分にそういうものがあったのかと、少し驚いた。



 放課後、

 人気のない渡り廊下でイザベラと鉢合わせた。


 彼女はひとり、外の中庭を眺めていた。向こうでは男女が楽しそうに笑いあっている。その光景を見るイザベラの横顔に、一瞬だけ何か寂しいものが滲んだ。気づいた瞬間に仮面を被り直す。でもリュカは見てしまっていた。


「……一つだけ聞いていいか」


 イザベラが振り返った。


「なんですの」


「君は、何のためにそうしている」


 イザベラが少しだけ間を置いた。それから、どこか投げやりに笑った。


「必要悪ですわよ。自分が嫌われてでも、誰かが本当に傷つかないなら、それでいいのよ」


 言い終えてから、イザベラはハッとしたように目を見開いた。

 まるで、自分でも意図していなかった言葉が、喉の奥から勝手に滑り落ちてしまったかのように。


 リュカは何も言わなかった。ただ、その言葉が胸の奥に刺さって、抜けなかった。


 その夜、リュカはペンを取った。


 イザベラの行動記録と、クローディアの動向を照らし合わせれば、何かが見えてくるはずだ。一人ではできなかったことが、できるかもしれない。


 一方、

 その夜のイザベラも、なかなか眠れなかった。


 あの問いが、頭から離れなかった。


 ――君は、何のためにそうしている。


 誰にも聞かれたことのない問いだった。カノンでさえ、理由を知っていて当然という顔で傍にいてくれる。でもリュカは、わかっていないくせに責めるでもなく、ただ真正面から聞いてきた。


 どうして、あの人はああいう聞き方をするのかしら。


 あの灰色の瞳が、答えを待つように静かだったことを、思い出してしまう。


 ……変ですわ、と思った。悪役令嬢が、誰かの目の色を覚えていることなど。


 それでもイザベラは、しばらく暗い天井を見つめていた。



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第四章 踏みにじられる日々

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 嵐の予兆は、じわじわと忍び寄っていた。


 学園内で盗難が相次いでいた。食堂の備品、図書室の希少本、寮の私物。そのたびに囁かれる名前が、イザベラだった。


「またあの悪役令嬢のせいだわ」

「イザベラ様がいる限り、この学園は荒れ続けるのよ」


 誰も疑わなかった。最初から嫌われていた人間の仕業なら、信じやすい。動けば動くほど疑惑は深まり、誰かを守ろうとするたびに、それ自体が悪事の証拠として解釈された。


 ある朝、廊下を歩くイザベラに向かって、生徒たちが自然に道を空けた。怯えているというより、避けている。まるで見てはいけないものを見るような目で、みなが通り過ぎていく。声をかけてくる者は誰もいない。


 それは今に始まったことではなかった。でも最近は少し、違う空気がある。怯えではなく、嫌悪。単なる恐れではなく、積み重なった不信。


 そして嵐はやってきた。


 中庭に全校生徒が集まった。生徒会副会長のクローディアが涙をためた目でイザベラを指差す。白金の巻き髪に完璧な被害者の顔で、その声が澄み渡る。


「この学園を長年にわたり荒らし続けてきた悪は、この方です! イザベラこそが全ての元凶であると、証言者も証拠も揃っております!」


 どよめきが波のように広がった。加工された手紙、改竄された記録、「イザベラに脅された」という複数の証言。証言者たちの目が、どこかおびえていることに気づいている者は少ない。


「反論はありまして?」


 クローディアが甘く問いかける。反論、できなかった。善行の裏事情は表に出せない。守ってきた生徒を今さら巻き込めない。


「…………」


「沈黙は認めたも同然ですわ!」


 その声が中庭に響いた瞬間、クローディアを囲む生徒たちが拍手した。まばらに始まったそれは、すぐに広がった。


 イザベラは、その中でただ立っていた。


 それからの日々は、静かにひどかった。


 廊下を歩けば人が避ける。それは前からそうだった。でも今は、視線の意味が違う。恐怖ではなく、断罪を見届けた者の目。教室では誰も隣に座らない。


 何かを守ろうとすれば、その前に生徒たちが離れていく。

 一年の女子生徒がクローディアのグループに絡まれているのを見つけた時、声をかけようとして、一歩踏み出した瞬間、その女子生徒が「イザベラ様が来た」と呟いて走って逃げていった。助けようとした相手に、逃げられた。


 廊下の角で、聞きたくない言葉が聞こえてきた。


「最近また備品が消えたの。どうせイザベラ様でしょう」

「本当にどうしてあんな方がまだいられるのかしら」

「風紀委員の方が動いてくれないのかしら。委員にとっても迷惑よね」


 胸が痛んだ。皆を守りたかったのに。今の自分には、できない。


 一番つらかったのは、夕方の東屋に向かう時だった。


 以前は誰も来なかった場所に、最近は人が来るようになった。遠巻きにしながら、でも確かにこちらを見ている。「悪役令嬢がいる」という見物か、あるいは「まだここにいるのか」という確認か。


 イザベラはカップを両手で包みながら、それでも背筋を伸ばしていた。


 そんな日々の中で、ふとした瞬間に思い出すことがあった。


 あの灰色の目が、真正面からこちらを見ていたことを。


 ――君は、何のためにそうしている。


 誰かに聞いてもらえた、という感覚が、まだどこかに残っていた。それを頼りにしている自分に気づいて、イザベラは慌てて頭を振った。


 悪役令嬢が、誰かの言葉を頼りにするなど、らしくありませんわよ。


 ……でも、消えなかった。


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第五章 谷の底で、灯りを見た

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「……先輩、ぼーっとしてるっすよ」


 東屋に夕日が滲む。カノンが向かいに腰かけながら、カップに砂糖を三杯放り込んだ。


「ぼーっとしていませんわよ」


「してたっすよ。五分くらい」


 イザベラはカップを持ったまま、何も言わなかった。縦ロールが肩に垂れている。


「……もう、動けないかもしれませんわ」


 声が、思ったより小さかった。


「近づく前に逃げられてしまうの。何かをしようとすると、その前に避けられる。今日も、助けようとした子に逃げられましたわ」


 カノンが少しだけ目を細めた。


「……知ってるっすよ」


「見ていたの」


「見てたっすよ。あの子、逃げながら泣いてたっす。たぶん先輩に申し訳なかったんだと思うっすけど、止まれなかったんっすよ」


 そうなの、とイザベラは思った。止まれなかった。

 今の学園では、それが普通だ。それが今のわたくしの立場だ。


「わたくしが動くことで、かえって誰かを傷つけているかもしれない。それが一番、怖いですわ」


 カノンが砂糖を溶かしながら、少しだけ黙っていた。


「……先輩」


「なんですの」


「私ね、先輩の行動ずっと記録してるっすよ。日付と内容、全部」


 イザベラが目を止めた。


「マリアさんの件も、廊下でドリンクぶちまけた件も、クローディア副会長に絡まれてた子を逃がした件も。全部書いてあるっす」


「……なぜ」


「いつか必要になると思ったっすから」


 カノンがカップを持ちながら、ぽつりと続けた。


「それとグランヴィル先輩が先週、私のとこに来たっすよ」


「リュカ様が?」


「先輩の行動記録を見せてほしいって。クローディア副会長の件を調べているって言って」


 イザベラはしばらく、その言葉の意味を飲み込もうとした。


「……あの方は、何のために」


「さあ? でも」


 カノンが真っ直ぐイザベラを見た。


「ちゃんと見てる人が、ちゃんと動いてるっすよ。先輩が思ってるより、一人じゃないっす」


 イザベラは返事ができなかった。



 その数日後のことだ。

 マリアが親しい友人に小声で打ち明けた。突き返された手紙の中に入っていたメモ。それで自分が騙されようとしていたことを知った話。


「でも……イザベラ様だしって思われそうで、ずっと言えなかったの」


「……でも、私も気になってたことがあって」


 友人がぽつりと言った。


「廊下でイザベラ様に『身だしなみがなってなくてよ!』って強引に絡まれた時、後ろに知らない人が歩いてきてて。今思うと財布を狙われてたんじゃないかって。守ってもらったのかと思ったんだけど、イザベラ様だしって、自分で打ち消してた」


 そのやりとりは、静かに広がった。友人が別の友人に話し、その子がまた別の子に。それぞれの声は小さく、でも積み重なっていった。


「ずっとイザベラ様のせいだと思ってたけど……」

「本当は守ってくれていたの?」


 そのさざ波を、クローディアは敏感に感じ取った。

 まずい。このまま声が積み重なれば、自分たちが仕組んだ冤罪が崩れかねない。


 ならば先手を打つ。今度こそ、完全に終わらせる。



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第六章 そして晴れた空

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 クローディアが選んだのは、再びの全校集会だった。


「先日の件の後、一部の方がイザベラを擁護するような噂を流しているようです。しかし事実は変わりません。追加の証拠を改めて提示します」


 中庭に全校生徒が集まった。クローディアの声が澄んで響く。


 イザベラは集会の中心に立っていた。


 何か言わなければ。でも口が開かない。守ってきた生徒を巻き込めない。黙っていれば認めたことになる。それでも、動けなかった。


「反論がないのであれば、これ以上この学園に――」


「待て」


 静かな声が、空気を切った。


 人垣が割れた。銀髪が、夕日に光る。


 リュカ=グランヴィルが、分厚い書類の束を手に、無表情のまま中央へ歩み出た。全校生徒がざわめきを止めた。


 イザベラは、息を呑んだ。


 その事実が、胸の奥を強く打った。

 実際にリュカがこちらへ向かってくるのを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


「グランヴィル公爵家嫡男として証言する」


 冷たく、しかし確かな声が中庭に響いた。


「クローディアが主導するグループが、直近二ヶ月の学園内盗難事件のほぼ全件に関与している。手紙の偽造に使われたインクの成分照合、グループの行動記録、複数の目撃証言。証言者の半数がクローディアと利害関係を持つことも確認した。さらにイザベラの行動記録と照らし合わせた結果、彼女が現場にいた事件の全てで、被害者の保護行動が確認されている。全てこの書類に記してある」


 書類が教師たちへ渡される。その量と精度に、教師たちの表情が変わった。


「でたらめ、です。証拠を捏造して――」


「私も証言するっす」


 カノンが人垣から出てきた。眠そうな目が、今日だけはしっかりとクローディアを見据えていた。


「イザベラ先輩の行動を一年間記録してたっす。先輩が守ってきた生徒の数、日付、内容。グランヴィル先輩のデータと全部照らし合わせ済みっす」


「私も言います」


 マリアだった。声は震えていたが、真っ直ぐ前を向いていた。


「イザベラ様が突き返してくれた手紙と一緒に、証拠を渡してくれたんです。私を守ってくださったんです。ずっと言えなくて、ごめんなさい」


「私も」

「私も、あの時助けてもらった」

「守ってくれていたのに、ずっとイザベラ様のせいだと思ってた」


 声が次々と重なった。小さな声が積み重なって、やがて波になった。


「待って……ずっとイザベラ様のせいだと思ってた盗難も、全部クローディア副会長の仕業だったの?」

「断罪されていたのに……ずっと騙されてたの、私たち」


 クローディアの顔が、見る間に蒼白になっていった。用意してきた台本は木っ端みじんに砕かれた。笑顔が剥がれ落ち、初めて本当の顔が露わになる。取り繕おうとして、言葉が出てこない。生徒たちの視線が、イザベラからクローディアへと向き直っていった。


 最終的に証拠は完全に揃い、クローディアたちの関与が確定した。停学処分が言い渡された。イザベラへの冤罪は正式に晴れた。



 翌日、学園長に呼ばれたイザベラは、応接室の扉を恐る恐る開けた。


「イザベラ。今回の件を受けて、学園として君に正式に風紀委員の任命状を渡したいと思っている」


「……え」


「君がこの学園のために動き続けてきたことは今回明らかになった。その正義を、今度は正式な形で発揮してほしい」


 任命状が差し出された。イザベラはしばらく動けなかった。ずっと誰にも届かないと思っていた。必要悪として、嫌われたまま消えていくものだと思っていた。それが今、正式な言葉として目の前にある。


「……いただきますわ」


 声が、少し震えた。


 応接室を出ると、廊下にリュカが立っていた。


「……待っていたのですか」


「ああ」


「なぜ」


「君の顔を見たかった」


 直球だった。イザベラは言葉を失った。


「自分が嫌われてでも誰かが本当に傷つかないならそれでいいと言った人間が、正式に認められた。それが君にどう見えるか、気になった」


 イザベラは少しの間、廊下の石畳を見ていた。任命状を胸に抱いたまま。


「……泣きそうになっています、わたくし」


「わかっている」


「見ないでください……」


「見る」


 意地が悪いですわ、とイザベラは思った。でも口元が緩んでいた。


「……グランヴィル様」


「なんだ」


「一人では何もできないと思っていたの。ずっと」


「僕もそうだった」


 リュカが静かに言った。


「クローディアのことは以前から知っていた。でも一人では証拠を揃えられなかった。君の記録が、カノンのデータが、あの時の声たちがなければ、今回も動けなかった」


 少しの沈黙があった。


「一人ではなかった、ということだ。お互いに」


 イザベラはその言葉を、ゆっくりと胸の中に落とし込んだ。一人ではなかった。ずっとひとりだと思っていた。でも、見ていてくれた人がいた。


「……隣に、いてもいいかしら」


 小さく、でも確かに言えた。


 リュカが珍しく目を丸くした。それから、口元をゆっくりと緩めた。


「ああ。当然だ」


 廊下の角から、盛大なため息が聞こえた。


「本当に不器用っすね、この人たち……」


 カノンがいた。いつからいたのかは、聞かないことにした。



━━━━━━━━━

エピローグ 不器用な二人と、強引な後輩

━━━━━━━━━


 翌日の帰り、廊下でリュカと並んで歩くことになった。


 なんとなくそうなった、というより、リュカが当然のようにイザベラの隣を歩いていたので、気づいたらそうなっていた。廊下ですれ違う生徒たちが二度見していく。風紀委員に正式任命されたイザベラと公爵家嫡男のリュカが並んでいるのだから、当然だ。


「グランヴィル様、そんなに堂々と歩かなくてよくてよ」


「なぜ」


「皆が見ておりますわ」


「見ていれば何だ」


 言い返せない。


 少し間があって、リュカが静かに言った。


「……昨日の話だが」


「なんですの」


「隣にいていいかと言っていた。君が」


「……言いましたわ」


「撤回するか」


「……しません」


 そっか、とリュカが言った。それだけだったが、声が少しだけ低かった。耳が赤い。


 イザベラは前を向いたまま、胸がどきどきしているのを知られないよう、縦ロールをそっと触った。


 後ろから小さな声が聞こえた。


「……二人とも本当に不器用っすね」


 カノンだった。欠伸をしながら少し後ろをついてきていた。


「聞こえておりますわよ、カノン」


「聞こえてていいっすよ、本当のことっすから」


 カノンがため息をついた。そして二人の間に割り込んでくると、イザベラの右手とリュカの左手をそれぞれぐっと掴み、無理やり合わせた。


「ほら」


 一瞬、三人が止まった。


 イザベラの顔が一気に赤くなった。


「な、なんですの急に」


「二人ともいつまでも繋がないから」


「そういうことは自分たちでするものですわよ」


「二人のペースだと卒業までかかるっす」


 リュカは何も言わなかった。でも、掴まれた手を振り払わなかった。それどころかカノンが手を離した後も、静かにイザベラの手を握ったままでいた。


「……グランヴィル様」


「なんだ」


「……手」


「わかっている」


「…………」


 イザベラは言葉を失った。頬が熱い。縦ロールがぴんと張れない。


 でも、不思議と。


 逃げたいとは、思わなかった。


 繋がれた手のひらから、温かさが伝わってくる。悪役令嬢として、ずっとひとりで立っていた。誰かにこんなふうに触れてもらうことなど、考えたこともなかった。


 ――こんなわたくしでも、誰かに愛される日が来るのかしら。


 朝の鏡の前でそっと押し込んだ本音が、今、静かに答えを見つけていた。


 カノンが二人の様子を横目で見ながら、ひとりで歩き出した。肩越しに呟く。


(……この様子じゃ、まだ溺愛まで、ほど遠いっすけどね)


 その声は小さかった。


 夕日が差し込んでいる。並んで歩く二人の影が、石畳の上に長く伸びていた。


 悪役令嬢は、隣に誰かがいることを覚えてしまった。


 それで、よかった。


 今日の笑みは、鏡の前で何度練習してきたものではなく、本物だった。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「悪役令嬢でも溺愛されたい」、いかがでしたか?


面白いと少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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