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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第5話:世界の敵、観測誤差に堕ちる

 世界が、俺を拒絶し始めた。


 鼓膜を震わせる非常警報の咆哮は、もはや単なる音ではない。それは、この第17区画という精緻な箱庭が、侵入した異物を排除しようと上げる悲鳴だった。

 視界の端で、空間が陽炎のように歪んでいる。アギト・セブンスが「観測」を放棄し、未来を確定させることを止めた代償だ。


「第17区画全域にレベル5警戒態勢を発令。対象、主任技師ルードヴィヒ。……繰り返す。対象は『観測汚染』を引き起こした人道的犯罪者である」


 街の至る所に設置された拡声器から、血の通わない合成音声が流れる。

 工房の地下、湿ったカビの匂いが漂う退避ルートを駆け抜けながら、ルードヴィヒは自らの左腕を強く抱え直した。

 感覚はない。だが、アギトから逆流し続ける「不確定のノイズ」が、神経の奥底で火花を散らしている。


「……主任。いえ、ルードヴィヒ。足元に注意を。三秒後、左側の蒸気パイプが破裂します」


 隣を走るエマが、感情の起伏を削ぎ落とした声で告げた。

 直後、シュアッ! という猛烈な音と共に、熱い白煙が通路を塞いだ。ルードヴィヒは間一髪でその身を沈め、熱波をやり過ごす。


「予知か……? 観測は止まったはずだろう」

「いいえ。未来は見えません。ただ……確率の“匂い”がするだけです。空気がどちらに流れたがっているか、その傾向が、肌に刺さる感覚として分かるようになりました」


 エマの瞳は、以前のような透き通った青ではなく、どこか混濁した、深淵のような色を帯びていた。

 彼女は観測体という「装置」から、不確定な世界そのものに適応し、生存しようとする「生命」へと変質し始めている。


 二人は、一般市民の避難区域に繋がる通気口の影に身を潜めた。

 スリット越しに見える広場は、地獄絵図だった。

「ルードヴィヒ……あの男がアギトを壊したのか!?」

「百年後の滅亡を確定させたって、本当かよ! 中央の発表じゃ、あいつが余計なことをしなければ、俺たちは救われていたって……!」


 昨日まで、ルードヴィヒを「街の救世主」と崇めていたはずの住民たちが、今は憎悪に顔を歪ませ、彼の名を呪っている。

 未来予測課の巧妙な情報操作。

 彼らは「不確定な現在」の恐怖を、すべてルードヴィヒという一個人に転嫁した。


 ルードヴィヒは、喉の奥が焼けつくような苦さを感じた。

「……観測される側、というのは、こういう気分か」


「『世界の敵』とは、道徳的な悪を指す言葉ではありません」

 エマが、ルードヴィヒの震える指先に、そっと自分の手を重ねた。彼女の手は、以前よりもわずかに熱を帯びているように感じられた。

「未来を保証できない存在。計算式を狂わせ、予測の範囲外へ逃げ出す誤差。システムにとって、それは悪意の有無に関わらず、即座に消去されるべきバグでしかないのです」


 自分は、誰かを守りたかった。

 1200人の市民を、隣で笑うこの少女を、確定した死から遠ざけたかった。

 その結果が、世界構造そのものからの「排斥」だというのか。


 その時、ルードヴィヒの脳内に、物理的な衝撃を伴う「問い」が突き刺さった。


 ――なぜ、正解を拒否する?

 ――なぜ、不確定という毒を、回路に流し込んだ?


 アギト・セブンスだ。

 通信は遮断されているはずなのに、ルードヴィヒの脊髄に直接、巨像の思念が流れ込んでくる。

 それは言葉ではなく、何億もの演算が導き出した、純粋な「疑念」の波動。


 (迷える限り、人は選び直せるからだ)


 ルードヴィヒは心の中で、血を吐くように答えた。

 (お前の導く正解は、道筋が決まりきったレールだ。そこには、俺たちの意志も、エマの涙も含まれていない。そんな未来に、何の価値がある?)


 アギトは応答を止めた。

 だが、通信の繋がりは切れない。

 巨像は、ルードヴィヒを排除すべき敵としてではなく、未だかつて入力されたことのない「未知のデータ源」として、その執着を深めているようだった。


「逃げ道はここまでだ、ルードヴィヒ」


 退避路の出口、重厚な隔壁が開いた先には、無数の魔導銃の光が待ち構えていた。

 中央に立つのは、アイザック。

 彼は以前のような軽薄な笑みを消し、冷徹な執行官の顔で、ルードヴィヒを見据えていた。


「未来予測課の結論が出た。君は、世界の安定を揺るがす特異点だ」

 アイザックは一歩踏み出し、最後通牒を突きつける。

「だが、情けをかけよう。……エマの身柄のみを引き渡せ。彼女の内部にある観測ログを抽出すれば、未来の再確定は可能だ。そうすれば、君は殺さず、研究対象として終身収容してやる」


 ルードヴィヒは、隣に立つエマを見た。

 彼女は、かつてのように「最適解」を口にはしなかった。

 ただ、じっとルードヴィヒを見つめ、その判断に自らの命を、存在を、すべて委ねるような目をしていた。

 未来のエマでも、装置としてのエマでもない。

 今、ここにいる一人の「個」としての、エマの眼差し。


「断る」


 ルードヴィヒの声は、地下通路に低く、だが鋼のように硬く響いた。

「エマは誰の装置でもない。未来を確定させるための道具でもない。……こいつは、俺と一緒に迷う、一人の人間だ」


「……愚かな。全軍、排除開始!」


 アイザックの号令と共に、魔導銃が一斉に火を噴いた。

 その瞬間、ルードヴィヒの意識が、背後のアギト・セブンスと爆発的に同調した。


 拒絶ではない。共鳴だ。

 アギトのブラックボックスが局所的に展開され、空間そのものが「定義不能」の状態へと書き換えられる。


 光弾が虚空で静止し、色を失い、霧となって消えていく。

 世界が一瞬だけ、観測という名の「縛り」から解放され、純白の空白に包まれた。


 ……静寂。


 ルードヴィヒが目を開けると、そこは先ほどの地下通路ではなかった。

 埃にまみれた、旧時代の計器が並ぶ、地下深くの隠された観測施設。

 アギト・セブンスの本体からも遠く離れた、歴史の裂け目のような場所。


 遠く、どこからか、アギトの微弱な駆動音……いや、子守唄のような一定のリズムだけが響いている。


「……主任。いえ、ルードヴィヒ」


 エマが、傍らで静かに立ち上がった。

 その瞳には、かつてないほど鮮やかな、生命の光が宿っていた。


「ここから先は、誰にも未来が見えません。アギトにも、中央政府にも、……未来の私にも」


 ルードヴィヒは、動かぬ左腕を自身の胸に当てた。

 痛みはまだある。だが、それはもはや自分を苛むものではなく、今を生きていることを証明する刻印だった。


「なら、ここからが始まりだ。……俺たちの『正解』を、俺たちの手で描いてやる」


 世界の敵は、世界の外側で、初めての「反転計画」を練り始める。

 確定した運命を、自らの誤差で塗りつぶすために。

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