第4話:観測者の罪と、選ばれなかった未来
それは、色彩を失った情報の奔流だった。
ルードヴィヒが再び意識を浮上させた時、最初に感じたのは身体の重みではなく、網膜に焼き付いた「ノイズ」の質量だった。
目を閉じても消えない。
砂嵐の向こう側に広がる、赤く焼けた空と、骸骨のように立ち並ぶ高層ビルの残骸。
百年後の廃墟。
それが幻覚ではないことは、脳が直接、論理的なデータとしてその光景を受理している感覚で理解できた。
「……おはようございます、主任。今回の休眠は、三時間と十二分でした」
エマの声が、遠く、現実の岸辺から届く。
視界が開けると、そこはいつもの地下工房だった。
ルードヴィヒは跳ね起きようとしたが、全身の神経が鋭い拒絶反応を示し、再び椅子に沈み込んだ。
左腕だけでなく、今や全身の血管が、アギトの駆動音に合わせた微細な痙攣を繰り返している。
「三時間……。エマ、さっきの映像は、ログに残っているか」
「いいえ。アギトの外部出力には何も。ですが、あなたの脳内チップには、莫大な未解析データが書き込まれています。……アギトは『予測』を止めたようですね」
「止めた……?」
エマは傍らに立ち、冷えた布でルードヴィヒの額を拭った。その手つきは、恐ろしいほどに迷いがない。
「アギトは今、未来をシミュレートするのではなく、到達可能な未来をすべて『同時に観測』しています。主任、あなたは今、あの巨像の『眼』の一部として、回路に組み込まれました」
その言葉の意味を咀嚼する間もなく、工房の重い扉が、警告音と共に外側から強制開放された。
「動くな。魔導理論庁、未来予測課だ。第17区画・主任技師ルードヴィヒ、及び補助員エマ。両名を重要監視対象として拘束する」
なだれ込んできたのは、アイザックの監査局よりもさらに無機質な、灰色の防護服を纏った一団だった。
彼らは即座に工房のメインサーバーに物理的なロックをかけ、アギト・セブンスへと繋がる全回線を遮断し始めた。
「何をする! 今アギトを切り離せば、第17区画の結界が不安定になるぞ!」
「構わん。不安定な結界よりも、確定した破滅の方が組織にとっては制御しやすい」
一団の奥から現れた調査官は、一枚のホログラム・リストをルードヴィヒの前に展開した。
そこには、歴代のアギト調律師たちの名が並んでいた。
『ハインツ・ウェーバー:重層同期後、三日で焼身自殺』
『クラウス・マイヤー:存在消失。機体内部から衣類のみ発見』
『エレナ・フィッシャー:精神崩壊。未発見の言語で叫び続け、衰弱死』
そしてリストの最下部。そこには、赤く点滅する文字で自分の名前が刻まれていた。
『ルードヴィヒ:観測者(仮登録)。神経汚染率、88パーセント』
「君がアギトと同期して視ているものは、単なる幻視ではない。それは世界の『確定した終わり』だ。……過去の技師たちは皆、それに耐えられなかった。君も間もなく、そのリストに正式に名前を刻むことになる」
「……そうでしょうか」
不意に、エマが口を開いた。
その声のトーンに、ルードヴィヒは全身の毛が逆立つような違和感を覚えた。
いつものエマではない。
抑揚が消え、言葉の末尾が、アギトの演算ログ特有の冷徹な断定を帯びている。
「未来は『恐れるもの』ではありません。収束する、数学的な結果に過ぎません。……予測課の皆さんは、分母が大きすぎることを怖がっているだけでしょう?」
調査官たちがエマに銃口を向ける。だが彼女は、銃口の向きさえも既に「観測済み」であるかのように、一歩も動かずに淡々と続けた。
「アギト・セブンスは、救済の装置ではありません。ですが、破滅の装置でもありません。ただの……鏡です」
「黙れ、異物め。……ルードヴィヒ。上層部の決断を伝える」
調査官はエマを無視し、冷酷に宣告した。
「アギト・セブンスを今この場で、物理的に破壊する。……これを生かしておけば、百年後の文明崩壊は回避不能だ。今ここで、第17区画をマナの海に沈めてでも、その芽を摘む」
究極の選択。
アギトを壊せば、今ここに生きる1200人の市民は、数分後に石像に変わる。
アギトを稼働させ続ければ、百年後、人類そのものが消滅する。
ルードヴィヒの脳内で、再びアギトが映像を投影した。
『アギトを止めた未来』:
瓦礫の街に、子供たちの小さな石像が並んでいる。汚染された霧が、すべてを美しく、物言わぬ静寂で包み込む。
『アギトを止めなかった未来』:
炎に包まれる世界。空が裂け、見たこともない「何か」が降り注ぎ、文明が根こそぎ消えていく。
どちらも地獄だ。
だが、ルードヴィヒはある共通点に気づき、息を呑んだ。
どちらの未来にも、エマの姿がない。
街が滅んでも、世界が滅んでも、彼女はどこにも存在し得ない。
「……エマ。お前、自分が消えると知っていて、なぜそんなに平気なんだ」
「私は、最適解が導き出されるプロセスそのものですから。……結果の一部に自分が含まれていないことは、論理的なエラーではありません」
悲しみも、恐怖もない。
その「正しすぎる」返答に、ルードヴィヒの胸の奥で、ドロりとした熱い感情が沸き上がった。
「ふざけるな」
ルードヴィヒは、麻痺した身体を無理やり引きずり、アギトの操作端末へと手を伸ばした。
「止めろ! 破壊シーケンスを起動させるな!」
調査官の叫びと共に、魔導銃の光弾がルードヴィヒの肩を掠める。
だが、彼は止まらなかった。
彼は、アギトを停止させるのでも、暴走させるのでもない、第三の道を選んだ。
「観測精度を、落とす……?」
調査官の一人が絶句した。
ルードヴィヒは、自らの残った全神経をアギトの基幹コアに叩きつけ、そこに膨大な「ノイズ」を流し込んだ。
それは、彼がこれまでの人生で感じてきた、理不尽な痛み、未練、執着。
論理では割り切れない「人間の迷い」そのものを、数式として回路にねじ込んだ。
「正解なんて決めるな! アギト、お前も迷え! 百年後の破滅も、明日の救済も、すべてを『不確定』の海に叩き落としてやる!」
世界の最適解を否定する。それは、観測者としての最大の罪。
バチッ、と世界が激しく震えた。
アギトの瞳が、安定した青から、混濁した、見たこともない不安定な「紫」へと変色していく。
「……な、何をした! 観測値が消失した! 未来が、未来が見えなくなったぞ!」
調査官たちがパニックに陥り、計器を叩く。
だが、その喧騒の中で、エマだけは違っていた。
彼女は、初めて見るような微かな、本当に微かな笑みを浮かべ、ルードヴィヒの背中に手を置いた。
「……ああ。……やっと、暗くなりましたね。パパ」
それは、安堵の声だった。
アギトの内部で、観測不能領域が発生する。
確定していた未来が、熱い霧に包まれて溶けていく。
「未来予測課、総員に告ぐ! 主任技師ルードヴィヒを『世界の敵』と認定! 排除を開始せよ!」
アイザックの冷徹な声が、通信機から響き渡る。
未来が見えなくなった世界で、最初に壊れるのは、きっと自分たちだ。
ルードヴィヒは紫に燃えるアギトの瞳を見上げ、動かぬ左腕を強く握りしめた。
「来い。……ここからは、俺の正解を、俺自身で作ってやる」




