第19話:観測者は誰だ
世界が、その機能を停止させようとしていた。
正午。鳴るはずの鐘は沈黙し、代わりに王都全域に「重い静寂」が立ち込めた。
道行く人々の影が、太陽の位置とは無関係に、王都中央の大聖堂へと向かって不自然に長く伸びていく。石畳に刻まれた聖印は光を失い、代わりにどす黒い脂のような液体を噴き出させていた。
「聖女様が、……エルナ様が死んだ」
誰が言い出したわけでもない。だが、その確信は疫病のように瞬く間に広がった。
人々は、空を見上げた。そこにあるのは、青空ではない。
何万もの文字が、解読不能な羅列となって空を埋め尽くす「記録の濁流」。
世界の因果を支えていた『記録聖女』の糸が切れ、均衡は今、完膚なきまでに崩壊しようとしていた。
そしてその異変の中心――地下聖堂の深淵には、名もなき「誤差」が、ただ一人で佇んでいた。
「……緊急招集の結果を報告します」
王宮評議会の円卓。集まった宗教機関の長、貴族連合の重鎮、そして軍の司令官たち。
彼らの顔に浮かんでいるのは、絶望ではない。
それは、どうしようもなく身勝手な「選別」の冷徹さだった。
「記録聖女エルナは、堕ちました。あの『誤差』に魂を焼き切られ、最早世界の観測者としての適格を失っている」
「世界均衡は崩れ、未確定の未来が現在を侵食し始めている。原因は明白。……あの観測不能のバグ、名もなき怪物です」
「消すべきか?」という問いに、一人の老賢者が首を振った。
「無理だ。消そうとすれば、我々そのものが『最初からいなかったこと』にされる。……ならば、選択肢は一つしかない」
老人は、血走った目で地図の中央を指差した。
「奴を消せないのなら、奴に『役割』を与え、逃げ場のない『意味』の中に閉じ込める。……怪物として野に放つのではなく、この世界を繋ぎ止めるための生きた楔――『神』として固定するのだ」
怪物を殺せないのなら、祭壇に載せて縛り付ける。
それが、秩序を愛する者たちが辿り着いた、最も効率的で、最も残酷な解決策だった。
その決定をあざ笑うかのように、王都の外縁で轟音が響いた。
黄金の結界が、紙細工のように無造作に引き裂かれる。
侵入してきたのは、漆黒の馬車に護衛された異質な一団。
その先頭に立つ女が、白銀の法衣を翻して王都の地を踏んだ。
「……腐った匂いがするわね。エルナ。あなたの『愛』という名の記録が、この街を台無しにしたのよ」
彼女は、もう一人の聖女。エルナが「過去」を司るなら、彼女は「定義」を司る観測者。
「怪物は自由にすると世界を滅ぼす。だから、檻が必要なの。……神という名の、最も美しい檻がね」
彼女の瞳には、慈悲などなかった。
あるのは、世界というシステムを維持するためなら、個の尊厳などいくらでも踏みにじるという、純粋な機能美としての正義。
地下聖堂。
エルナは、壁に寄りかかり、力なく座り込んでいた。
かつての黄金の輝きは失われ、髪は白く、瞳は焦点の合わない虚無を映している。
彼女にはもう、世界の情報は見えない。どこで誰が死に、明日何が起きるのか、そのすべてが霧の向こう側だ。
ただ一つ。
目の前にいる「彼」の存在だけが、網膜を焼くほどに鮮明だった。
「……重い、……な」
少年が、掠れた声で呟いた。
彼の中には、今やエルナの情念が巣食っている。
それは愛でも、怒りでもない。
逃げようとしても、消えようとしても、決して自分を離してくれない「存在の重み」。
「……そうね。重いわよ。私が、そうしたんだもの」
エルナは、自嘲気味に笑った。
「私はもう、世界なんて救わない。導かない。……ただ、あなたが壊れるなら、最後まで見届けるわ。あなたがこの世界のすべてを消し去るその瞬間まで、私はあなたを離さない」
『観測者は誰だ』。
世界か。聖女か。それとも、すべてを捨てたこの女か。
その時、地下聖堂の扉が、外圧によって弾け飛んだ。
「見つけたわ、器さん」
侵入した外部聖女が、少年を見て歓喜に頬を染める。
「素晴らしい。……何という純粋な空白。これこそ、新たな世界を支えるに相応しい『神の器』だわ」
「違うわ。それは、私の罪よ」
エルナが遮るが、外部聖女は一顧だにしない。
「エルナ、あなたの『私物化』はもう終わり。この子は世界のものになる。……救世主でも、怪物でもない。ただ、座り続けるだけの偶像になるのよ」
少年は、彼女たちの会話を聞いていた。
自分が「物」として扱われ、どちらの正義に転んでも「自由」などない現実。
自分という存在を、誰かの都合の良い意味で塗り潰そうとする、言葉の暴力。
「七日後」
外部聖女が、冷酷な宣告を下した。
「王都全域を祭壇に変え、神格化の儀式を行う。……拒絶は許さない。これは世界というシステムの総意よ」
エルナは、何も言わなかった。止められる力など、もう彼女にはない。
ただ、少年の耳元で、一言だけ囁いた。
「……逃げてもいいわ。……壊してもいい」
彼女の指先が、少年の頬を掠める。
「でも、あなたが何を選んだか――私は、忘れないわ。永遠にね」
少年の内側で、何かが初めて芽生えた。
それはルードヴィヒの狡知でも、カイルの正義感でもない。
「選びたい」
誰の正解でもない、自分の意志で、この地獄を終わらせたいという、剥き出しの欲求。
少年の視界が、赤く染まっていく。
世界に意味を与えられ、神という檻に閉じ込められるまでの、カウントダウン。
次話、第20話。
『神にされる前に』。
「――ぼくを、決めるな」
神座を蹴り飛ばし、怪物が自らの定義を書き換える。




