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『魔導回路の調律師 ――戦後復興を支える、誇り高き「裏方」の記録――』  作者: くま3


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第18話:誤差を生きる怪物

 世界が、音を立てて砕け散る音がした。


「……カイル?」


 エルナの声は、自分でも驚くほど、ひび割れて、惨めに震えていた。

 地下聖堂の冷たい石畳の上。目の前でうずくまる少年は、彼女が命よりも大切に、その魂の全記録を愛し抜いてきた「カイル」の成れ果てだ。


 彼女は、ただ触れたかった。

 その細い肩を抱きしめて、「お帰りなさい」と言いたかった。

 自分の未来視が死んだことも、彼が自分を犠牲にしたことも、そんな「正解」はどうでもよかった。ただ、彼の温度を、もう一度だけ確かめたかった。


 だが。


「――寄るな、汚らわしい」


 少年の唇から漏れたのは、カイルの慈愛に満ちた声ではない。


 それは、路傍の石ころや、踏み潰した虫を見るような――純粋で、無垢な「嫌悪」だった。


 エルナの心臓が、一瞬、拍動を止めた。

 指先が、氷点下の闇に突き落とされたように凍りつく。


 少年の瞳に宿っているのは、エルナに対する「他人」という距離感ですらない。

「自分の聖域を汚す不快な異物」を見る、底知れない冷徹。


「ぼくを知っているような顔で笑うな。……きみのその目は、ぼくを『だれか別の化け物』として型に嵌めようとしている。……反吐が出る」


 少年が立ち上がり、エルナを見下ろした。


「……カイル……? 嘘よ。嘘、嘘、嘘……!!」


 エルナは、なりふり構わず這い寄った。

 聖女の法衣が石に擦れて破れ、膝から血が流れても、彼女には届かない。


「思い出して! 私たちの約束を! あなたが私を守って、私があなたを記録して……二人で、この歪な世界を生き抜こうって、そう言ったじゃない!!」


 彼女は少年の脚に縋り付いた。

 だが、その瞬間に起きたのは、彼女の魂を根こそぎ破壊する絶望だった。


 少年は、慈悲のかけらもなく、エルナのその白い手を「蹴り飛ばした」のだ。


「――痛いッ!!」


 石壁に叩きつけられた衝撃。

 だが、エルナを本当の意味で粉砕したのは、少年の瞳に宿った「面倒なものを排除した」という冷淡な満足感だった。


 (……ああ。……いないんだ)


 エルナの中で、何かが、決定的に死んだ。


 目の前にいるのは、カイルではない。

 カイルの記憶を「ノイズ」として拒絶し、カイルの愛を「汚れ」として蔑む、名前も持たない、怪物。


 彼女が信じてきた「記録」という正義。

 彼女が捧げてきた「愛」という祈り。

 そのすべてが、当の本人によって、ゴミのように否定された。


 エルナの表情から、一切の感情が消えた。


「……そう」


 短く、平坦な声だった。


「じゃあ、あなたはもう、私の敵ね」


 その一言が、地下聖堂の空気を凍結させた。


 エルナは、ゆっくりと立ち上がった。

 乱れた髪の間から覗くその瞳は、もはや聖女の輝きを失っていた。


 濁った、ドス黒い「情念」の炎。


 彼女は一歩、少年に歩み寄る。

 少年が放つ「存在の消失」という漆黒の波動。それがエルナの肌を焼き、腕を透過させ、彼女の肉体を削り取っていく。


 少年は、初めて困惑した。

 自分の虚無に触れれば、この女の存在は根こそぎ消えるはずだ。それなのに、彼女は痛みに顔を歪めながら、不気味なほど穏やかな微笑を浮かべて近づいてくる。


「……痛い? 怖い? ……うふふ、……いいわ。……その痛みだけが、今、私とあなたを繋ぐ唯一の『事実』よ」


 彼女は、崩壊していく自らの両腕で、無理やり少年の体を抱きしめた。


「――やめろッ!! 離せ! 消えるぞ、きみ自身の存在がッ!!」


 少年の瞳が、恐怖に激しく揺れる。

 自分の「無」という空白を、この女の「重すぎる絶望」が、無理やり埋め尽くそうとしていた。


 『――やめろ。……その女を殺す気か、小僧』


 脳裏に響く、ルードヴィヒの警告。

 だが、少年はもう、エルナを突き放すことができなかった。


「……いいのよ。消えても。……私が消えることで、あなたの記憶の底に、消せない『傷跡』として刻まれるなら……それは、どんな記録よりも、甘美な勝利だわ」


 エルナは、少年の耳元で囁いた。


「記録聖女――権能、全崩壊」


 説明など不要だった。


 黄金の光が、地下聖堂を埋め尽くす。

 それは、エルナという一人の女の、全人生を針に変えて、少年の魂に突き刺す不可逆の儀式。


「――あ、あああああああああああああああああああああッ!!」


 少年の絶叫が響く。

 彼の胸元に、生まれて初めて「消えない刻印」が焼き付けられていく。


「……忘れるなんて、許さない。……私を嫌いなまま、私を拒絶したまま、……死ぬまで私を『意識』し続けなさい、怪物さん」


 光が収まったとき、そこには、力なく倒れた少年と。

 その上に覆い被さるようにして、真っ白な髪へと変貌し、両腕を失いかけたエルナがいた。


 彼女の胸元には、砕け散った聖典の欠片が突き刺さっている。


 だが、彼女の顔には、かつてないほどの、狂気に満ちた「充足感」が浮かんでいた。


「……これで、……あなたは私のもの。……世界からも、カイルという過去からも、……誰からも、自由にはさせない」


 聖女は、死んだ。


 ここにいるのは、愛する男を地獄まで引きずり込むと決めた、世界で一番美しく、一番浅ましい、一人の女だ。


 次話、第19話。

 『観測者は誰だ』。


 王都を包囲する外部勢力。

「――聖女が堕ちた。……今こそ、あの怪物を我々の『神』として迎える時だ」


 壊れた女と、壊された怪物。

 二人の逃避行が、世界の滅亡を加速させる。

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