その話、聞く前に終わっています
私はミレイア・グラースフォード、あまり好かれない人間だ。
地方伯爵家の長女で、王太子カイ・ローディアスの婚約者だった――昨日までは、そう呼ばれていた立場の人間だ。
だった、と過去形で言い切れるようになったのは、私自身がそこから降りたからにほかならない。誰かに追い出されたわけでも、押し切られたわけでもない。私が、もう要らないと判断した。それだけの話だ。
朝から、屋敷の空気がやけに静かだった。使用人たちが気を遣っているのは分かっている。今日は王宮で、私と王子の婚約について“何か”が起きる日だと、皆が知っているからだ。
けれど、いつも通りの時間に起きて、いつも通りの紅茶を飲んでいた。少しだけ湯の温度が低かったのは、寝不足のせいだ。昨夜、考え事をしていたからだと思う。もっとも、その考え事も、すでに結論は出ている。
テーブルの上には、王宮から届いた招待状が置かれていた。白い封筒に、やけに整った文字。
内容は簡潔だ。
本日、貴族関係者立ち会いのもと、王太子カイ・ローディアス殿下による正式な婚約破棄の宣言が行われる。関係者として、出席を求める――そんな具合。
「……ずいぶん丁寧ね」
思わず声が出た。誰に向けたわけでもない。言葉が喉の奥に溜まるのが嫌で、そのまま外に出ただけだ。
正式。宣言。出席を求める。
並んだ言葉を目で追うたび、胸の奥に引っかかるものが増えていく。
この手紙を受け取る前に、もう終わらせている。
それなのに、今さら呼び出される意味が分からない。
そもそも、この婚約は、私と彼の意思だけで結ばれたものではない。
地方伯爵家の長女である私と、王太子である彼。立場としては釣り合いが取れており、王宮内でも異論が出にくい組み合わせだった。
話は、いつの間にか進んでいた。家同士の確認が終わり、形式が整い、気づいた時には「そういうもの」として周囲に共有されていた。
当事者同士で、将来について腰を据えて話した記憶はほとんどない。必要な手続きと説明が先にあり、言葉は後回しにされた。
それが、この関係の始まりだった。
封筒の端を指で叩きながら、椅子にもたれた。頭の中に浮かぶのは、これまでのやり取りだ。
王子は、いつもタイミングが悪かった。
話があると言われて待たされた事は一度や二度ではない。公務が忙しい、場が整っていない、今は適切ではない。そう言われるたび、引き下がった。王族相手なのだから、配慮は必要だと思っていたからだ。
けれど、その配慮が、いつの間にか当然の扱いに変わっていった。
私は待つ側。
彼は決める側。
そういう形が、いつの間にか出来上がっていた。
それが我慢ならなかった。
私が欲しかったのは、舞台でも演出でもない。向き合って話す事、それだけだった。
それが叶わないまま時間だけが過ぎ、周囲では勝手な噂が増えていく。
王子が別の女性と親しいらしい、婚約は形だけらしい、破棄は時間の問題だ――そんな話を、私のいない場所で好き勝手にされる状況に、いい加減、耐えられなくなった。
だから、先に動いた。
誰かに相談されたわけではない。背中を押されたわけでもない。
このまま待ち続ければ、“破棄される令嬢”として、誰かの物語の脇役になる。それがはっきり見えたからだ。
なら、その役を引き受ける気はなかった。
父に話した時、驚かれはしたが、止められはしなかった。
母は少しだけ笑って、「あんたらしいわね」と言った。
その反応を見て、間違っていないと確信した。
整理すべきものは、すでに整理した。
関係を終わらせるために必要な手順も、全部済ませた。
だからこそ、今さら“宣言の場”など必要ない。
椅子から立ち上がり、窓の外を見た。王都の空は晴れている。今日、王宮に集まる貴族たちは、この天気を見て、さぞかし舞台映えがするとでも思うのだろう。
主役が来ない舞台になるとも知らずに。
招待状を手に取り、ため息をついた。
腹が立たないわけではない。
ただ、それ以上に、呆れている。
「その話、聞く前に終わっているのよ」
小さく呟いて、封筒をテーブルに戻した。
王宮へ行かない。
行かないと決めたからだ。
◇
王宮では準備が進んでいるのだろう。
けれど、それは私の知った事ではない。
自分の一日を、自分の判断で使う。
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
◇
私が屋敷で普段通りの朝を過ごしている間、王宮がどんな騒ぎになっているかなんて、正直どうでもよかった。
どうでもいい、と思えるようになった事自体が、少し前までの私からすれば信じられない変化だ。
ほんの数か月前までは、王宮からの使いが来るたびに胸がざわついていた。
今日は呼ばれるのか、それともまた延期なのか。
話すと言われたまま、何も進まない時間が、私の中に溜まり続けていた。
最初は、疑問だけだった。
婚約者なのだから、もっと頻繁に顔を合わせるものだと思っていたし、将来の話も当然するものだと考えていた。
けれど、実際は違った。
会うのは公の場がほとんどで、二人きりになる事は滅多にない。私から話題を振っても、「いずれ」「機会を見て」と言葉を濁される事が増えていった。
それでも、無理に踏み込まなかった。
王子には王子の立場がある。周囲の目もある。
そう思えば、多少の距離は仕方がないと、自分に言い聞かせる事が出来たからだ。
だが、その考えが揺らいだ出来事があった。
ある夜会で、偶然、王子が別の令嬢と親しげに話している場面を見た。
笑顔で、身振りも交えながら、楽しそうに。
それ自体が問題だったわけではない。社交の場なのだから、誰と話そうと自由だ。
ただ、その様子が、私と話す時よりもずっと自然に見えた。
その瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
ああ、この人は、私とはこういうふうに話す気がないのだと、はっきり分かってしまったからだ。
その夜会の後で、王子に声をかけた。
今度こそ、曖昧なままにしたくなかった。
向き合って話す必要があると感じたからだ。
けれど、返ってきたのは、やはり先延ばしの言葉だった。
今は忙しい。場を改めたい。人目がある。
それらを並べられた時、私の中で何かが切れた。
ああ、この人にとって私は、都合のいい位置に置かれているだけなのだと理解した。
大切にされていない、という単純な話ではない。
私と向き合う事自体が、後回しにされる対象になっている。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
その場で言い返す事も出来た。
感情のままに詰め寄る事も出来た。
けれど、そうしなかったのは、そこで言葉をぶつけても、結局は同じ結論に戻ると分かっていたからだ。
王子の用意する流れの中で、役を演じる気はなかった。
婚約破棄という結末に向かうにしても、それが誰かの見せ場になる形だけは受け入れられなかった。
だから、静かに距離を取った。
連絡の頻度を減らし、こちらから話を切り出す事もやめた。
その反応を見る事で、私の中で確信を得るつもりだった。
結果は、分かりやすかった。
何も変わらなかった。
困る様子も、焦る様子もない。
その事実が、私の背中を強く押した。
このまま待っていても、話題として消費されるだけだ。
なら、先に終わらせる。
そう決めた時、妙に気持ちが軽くなったのを覚えている。
家族に話す前に、一晩かけて考えた。
感情に任せた衝動ではないか。
後悔しないか。
自分に何度も問いかけた。
けれど、答えは変わらなかった。
これ以上待つ事を選ばない。
それだけは、はっきりしていた。
翌日、父に話した。
驚かれはしたが、頭ごなしに否定されなかった事で、私の決意は揺るがなかった。
母は私の顔を見て、「もう決めてる顔ね」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、ようやく、ここまで溜め込んでいたものを吐き出せた気がした。
誰かに振り回される形で終わるつもりはない。
それだけが、私を動かし続けていた。
だからこそ、王宮からの招待状を見た時、怒りより先に呆れが湧いたのだ。
まだ、話すつもりだったのか。
まだ、私をその舞台に立たせる気だったのか。
その考えを振り払うように首を振った。
もう、そこにはいない。
そう決めたのだから。
◇
昼前、屋敷の廊下を歩きながら、改めて実感していた。
自分の足で進むと決めた瞬間から、景色は少しずつ変わって見える。
王宮で何が起きていようと、それはもう、私の物語ではない。
そう思える事が、何よりの証だった。
◇
私が動いたのは、感情が落ち着いた翌朝だった。
勢いで何かを決めると、後で必ず自分に腹が立つ。だから、一晩きちんと眠ってからにした。眠れたという事実そのものが、もう答えだったとも言える。
朝食の席で、父と母に改めて向き合った。
前日に大まかな話はしていたが、この日は細かい部分まで口に出した。どこまで終わらせるつもりなのか、誰に伝えるのか、どんな形で関係を閉じるのか。
曖昧なまま進めると、結局また相手の都合に巻き込まれる。それが嫌だった。
父は腕を組んでしばらく黙っていた。
反対される可能性も考えていたが、そうはならなかった。
「お前がそこまで考えているなら、家として止める理由はない」
その一言で、肩の力が抜けた。私一人の問題ではないと分かっていたからこそ、家の立場をはっきりさせる必要があった。
母は紅茶を飲みながら、妙に落ち着いた声で言った。
「向こうの筋書きに乗る気がないなら、先に全部片付けた方がいいわね」
その言葉に、大きくうなずいた。
私がやろうとしているのは、揉め事ではない。これ以上、引き延ばされない形を作る事だ。
そこからの動きは早かった。
必要な連絡先を洗い出し、誰を経由すれば話が止まらないかを確認する。王宮の窓口は複数あるが、遠回りをすると時間だけが過ぎる。
最短で済む道を選んだ。余計な配慮を挟まないためだ。
途中で、何度か「本当にそこまでやるのか」と聞かれた。
そのたびに、同じ答えを返した。
中途半端に終わらせると、必ず後から呼び戻される。
なら、最初から呼び戻されない形にする。
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
それは、これまで溜め込んできたものが、すでに限界を超えていたからだ。
ここで引き返したら、また待つ側に戻る。それだけは避けたかった。
王宮側の反応は、予想通りだった。
最初は戸惑い、次に確認、最後に形式的な了承。
誰も、私個人の気持ちについては深く触れなかった。それが、かえって私の判断を裏付けていた。
すべてが整った時、ようやく大きく息を吐いた。
終わった、という実感は、達成感よりも解放感に近い。
長い間、肩に乗っていた重たいものを下ろしたような感覚だった。
だからこそ、その数日後に王宮から届いた招待状を見た時、言葉を失った。
まだ、やるつもりだったのか。
私がいない舞台を、わざわざ用意するつもりなのか。
封を切った瞬間、胸の奥で何かが逆立った。
怒りだけではない。軽んじられた感覚が、はっきりと形になった。
その場で返事を書かなかった。
出席しないと伝える必要すら感じなかった。
すでに終わっている話に、改めて反応する意味がない。
それでも、一瞬だけ迷いが浮かんだ。
このまま何も言わずにいれば、好き勝手に語られるだろう。
冷たいだの、礼を欠いているだの、そういう言葉が並ぶのは目に見えている。
けれど、それを恐れて動けば、結局また同じ場所に戻る。
その可能性を自分で断ち切った。
だから、行かない。
それだけで十分だった。
◇
その日の午後、庭を歩いた。
冬に向かう空気の中で、草の匂いがはっきりと感じられる。
足元を確かめながら進むこの感覚が、今の私には心地よかった。
もう、誰かの用意した舞台には立たない。
その確信が、静かに、しかし確実に根を張っていた。
◇
王宮では、私のいないまま時間だけが進んでいたらしい。
その事を知ったのは、翌日の昼過ぎだった。屋敷に出入りしている顔見知りの令嬢が、どうにも言いにくそうな顔で訪ねてきたからだ。
「……昨日の件、聞いた?」
前置きだけで、何の話かは分かった。
椅子に腰を下ろし、紅茶を勧めながら首を傾げた。知らないふりをする気はなかったが、向こうがどこまで話すつもりなのかを見たかった。
「主役が来ないまま、始まってしまったそうよ」
「主役?」
思わず聞き返した声に、自分でも苛立ちが混じったのが分かる。
誰かの舞台に立つ役を引き受けた覚えはない。
令嬢は苦笑いを浮かべた。
「殿下が用意した場だから……そういう扱いだったみたい」
その言い方に、胸の奥がざらついた。
やはり、私の存在は最初から“演目”の一部だったのだと、改めて突きつけられた気がした。
話を聞く限り、会場には予定通り貴族たちが集まり、王子も定刻通り姿を現したらしい。
皆が私の到着を待ち、扉のほうに何度も視線が向けられた。
それでも現れず、代わりに提出済みの書面が読み上げられた。
すでに関係は解消されている。
形式上も、今さら宣言する必要はない。
その事実が、会場の空気を一気に冷やしたそうだ。
「殿下、言葉を用意していたみたいよ」
令嬢のその一言で、思わず鼻で笑った。
用意していた言葉。
それはきっと、立派で、整っていて、聞く側が納得するような内容だったのだろう。
けれど、聞き手がいなければ意味がない。
紅茶を一口飲み、カップを置いた。
胸の内に湧いてくるのは、勝ち誇った気分でも、復讐めいた満足でもない。
ただ、やはりそうだったのか、という妙な納得だけだ。
王子は、その場で取り繕おうとしたらしい。
予定が変更になっただけだ、後日改めて説明すると。
そう言って場を収めようとしたが、集まった貴族たちは困惑を隠せなかったと聞いた。
その様子を想像して、軽く肩をすくめた。
私がいない時点で、その場はもう破綻している。
誰のせいでもない。最初から、噛み合っていなかっただけだ。
「いろいろ言われてるわ」
令嬢は、申し訳なさそうにそう続けた。
冷たい、無礼だ、王族を立てる気がない。
予想していた通りの言葉が並んだ。
「別にいいわ」
即答だった。
それを気にして動く気は、最初からなかった。
私が黙って席を外したのは、逃げたからではない。
そこに立つ意味がなかったからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
令嬢はしばらく私の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「あなた、本当に変わったわね」
「そうかしら」
私は肩をすくめた。
変わったのではない。ようやく、自分の位置を自分で決めただけだ。
訪問が終わり、屋敷に静けさが戻った後、一人で庭に出た。
前日と同じ場所、同じ小道。
それでも、景色は少し違って見える。
王宮で何が起きようと、もう私の進む道とは重ならない。
その事実が、はっきりと形になったのが、昨日という一日だった。
誰かの物語の都合で立たされる場所から、完全に降りた。
その感覚が、足元からじわじわと伝わってくる。
◇
その夜、王宮からの使者が来た。
非公式に、話がしたいという伝言だけを残して。
それを聞いて、思わず笑った。
今さら、何を話すつもりなのだろう。
聞く前に終わっている話しか、残っていないというのに。
◇
王宮からの伝言を聞いた直後、しばらく黙っていた。
非公式に話がしたい。
その言葉の並びが、どうにも滑稽に思えたからだ。
公式の場で語るつもりだった事を、今さら場所を変えて口にする。
それが、どれほど自分本位な発想か、本人は気づいていないのだろう。
だから、すぐに返事をしなかった。私は、返事を急ぐ必要がない立場にいる。
その日の夕方、王都へ出る用事があった。
買い物でも、気晴らしでもない。
噂というものは、こちらが動かなくても勝手に流れ込んでくる。なら、自分の目で確かめておいた方が早い。そう考えたからだ。
馬車の中で、深く座席にもたれた。
窓の外を流れる街並みは、いつもと変わらない。
変わったのは、私の立ち位置だけだ。
王都に着くと、案の定、視線が集まった。
好奇心、憐れみ、批判、評価。
それらが混ざり合った空気は、慣れないと息苦しい。
けれど、顔を背けなかった。ここで逃げれば、結局また同じ扱いを受ける。それが分かっていたからだ。
耳に入ってくる話は、極端だった。
王子の顔を潰した、礼を失した、いや筋を通した、見事だった。
どちらも、私の知らないところで勝手に作られた言葉だ。
歩きながら、胸の内で整理していた。
好かれようとする必要はない。
誤解を解こうと奔走する気もない。
ここまで来て、それをやれば、また周囲の都合に引き戻される。
それでも、何も感じないわけではなかった。
自分の選択が、こんなにも話題として消費される現実には、正直、腹が立つ。
けれど、その怒りを誰かにぶつけても、状況は変わらない。だから、歩みを止めなかった。
屋敷へ戻ると、父が応接室にいた。
私の顔を見るなり、苦笑を浮かべる。
「いろいろ聞こえてくるだろう」
「ええ。思った以上に、賑やかね」
そう答えた自分の声が、意外と安定しているのに気づいた。
父はそれ以上、踏み込まなかった。
私が何を選んだのか、もう十分に理解しているからだ。
余計な慰めも、励ましもない。その距離感が、今はありがたい。
夜になり、再び使者が訪れた。
今度は、場所と時間を指定してきた。
王宮近くの離宮。明日の午後。
少しだけ考えた。
無視する事も出来る。
このまま何も答えずにいれば、向こうは勝手に困るだろう。
けれど、放っておけば、また別の形で語られる。
それが、私の知らない言葉で塗り固められるのは、正直気分が悪い。
だから、行く事にした。
話を聞くためではない。
終わった事を、終わったままにするためだ。
◇
翌日、指定された離宮へ向かった。
派手な場所ではないが、王族が使うには十分すぎるほど整っている。
その空間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥で小さく笑いが漏れた。
ここまで用意して、何を語るつもりなのだろう。
椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
もう、主導権はこちらにある。
それを、相手に分からせるための時間になるだろうと思いながら。
◇
離宮の応接室は、静かすぎるほど静かだった。
壁に掛けられた装飾も、窓から差し込む光も、すべてが整いすぎていて、かえって落ち着かない。ここが話し合いの場として用意された事自体が、もう答えのような気がした。
先に到着した私は、背もたれに身を預けず、浅く腰掛けた。
長居するつもりはない。
それを態度で示すためだ。
しばらくして、扉が開いた。
カイ・ローディアス王太子が、いつもと変わらない姿で現れる。
少しだけ整えすぎた服装と、わずかに硬い表情。
それを見た瞬間、胸の奥で確信した。
この人は、まだ自分が説明する側だと思っている。
「来てくれて感謝する」
形式ばった挨拶が、空気に落ちる。
軽く首を傾げただけで、返事を急がなかった。
ここでこちらが合わせると、また流れを渡す事になる。
「昨日の件だが――」
「その前に」
私は遮った。
言葉を奪う事に、躊躇はなかった。そうしなければ、また長い前置きが始まると分かっていたからだ。
王子は、わずかに眉をひそめた。
それでも黙ったのは、私が話すつもりだと察したからだろう。
「私、あなたの話を聞きに来たわけじゃないの」
声は自然と強くなった。抑える気はなかった。
「終わった事を、終わったままにするために来たの」
一瞬、沈黙が落ちた。
王子は、こちらを見つめたまま言葉を探しているようだった。
「誤解がある」
「王太子妃として求められる役割について、君と認識が一致していなかった」
そう前置きして、彼は続けた。
「今後は、対外行事への常時同行や、王宮内外に向けた立場表明も増える。王太子妃には、私と同じ立場で判断し、発言する事が求められる」
それは、私が一度も説明を受けた覚えのない話だった。
「だが、その前提について、君の意思確認が出来ていなかった」
まるで、順序を飛ばした事実確認のような口調だった。
その時、はっきり理解した。
この人は、話し合う前に役割を決め、合わなければ外すつもりだったのだ。
その言葉を聞いた瞬間、ようやく理解した。
この人は、選び直す前提で、説明だけを整えようとしていたのだ。
ようやく出てきた言葉が、それだった。
思わず息を吐いた。
誤解。便利な言葉だ。相手の受け取り方の問題にすり替えられる。
「誤解じゃないわ」
即座に返した。
「待たされ続ける立場が嫌だった。それだけよ」
王子は、そこで初めて視線を逸らした。
想定外の返答だったのだろう。
彼の中では、私は怒っているか、泣いているか、そのどちらかであるはずだった。
「正式な場で説明するつもりだった」
「ええ、知ってるわ」
私は頷いた。
「だから、その前に終わらせたの」
言葉を重ねるほど、相手の表情が固まっていく。
彼は、自分の用意した流れが崩れた事を、ようやく理解し始めていた。
「君は、あの場に来るべきだった」
その言い方に、胸の奥で何かが弾けた。
「行く義務はないわ」
声が自然と大きくなる。
「私は、誰かの見せ場を完成させるための存在じゃない」
王子は、何か言い返そうと口を開いたが、言葉が続かなかった。
その沈黙が、すべてを物語っている。
椅子から立ち上がった。
もう十分だ。
これ以上ここにいても、何も生まれない。
「その話、聞く前に終わっているの」
そう告げた時、不思議と声は落ち着いていた。
感情が消えたわけではない。
言うべき事を、全部言い切ったからだ。
王子は、何も言わなかった。
引き止める事も、謝る事もなかった。
それが、最後の答えだ。
◇
離宮を出た瞬間、外の空気がひどく新鮮に感じられた。
胸いっぱいに息を吸い込む。
ようやく本当に終わったのだと実感した。
これから先、何を言われるかは分からない。
けれど、誰かの言葉に人生を預ける気はない。
あのとき、私が何を間違えたのかを、今でも正確には言えない。言葉が足りなかったのか、態度が冷たすぎたのか、それとも相手の立場を考えなかっただけなのか。どれも違う気がして、どれも当たっているような気もする。最後まで、自分が選ばれた理由ばかりを気にして、選ばれ続けるために何が必要だったのかを考えなかった。
年を重ねるほど、呼ばれる名前は減っていった。祝いの席に私の席は用意されず、訪ねてくる人もいない。過去の話をすると、相手は困った顔をするだけだった。あの王宮で交わされた言葉も、私が下した決断も、今となっては誰の人生にも残っていない。
自分が正しいと思った通りに生きた。だからこそ、こうして独りでいるのだろう。
それが罰だったのかどうかは分からない。ただ、振り返る声すらなく、語り合う相手もいない人生は、静かで、長く、ひどく寒かった。
私は――好かれない人間だったのだと思う。
そしてその事実だけは、最後まで変わらなかった。
ただ、そう選択しただけ。
後悔は無い。
後になって聞いた話では、彼は別の婚約者を迎え、予定通り王位を継いだらしい。式は滞りなく行われ、国は安定し、誰も不満を口にしなかった。ただ、彼の周囲にいた人々は、次第に長く留まらなくなったという。相談役は入れ替わり、王妃の席は常に整えられているのに、そこにいる人物の名だけが、いつも曖昧だった。
それが彼の選んだ在り方だったのだろう。
誠意を示さないままでも、立場は守れる。
けれど、心まで従わせることは、最後まで出来なかった――それだけの話だ。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




