第十五話 奇跡の芽吹きと、醸造の唄 第1部『黄金の芽吹きと、ドワーフの師弟』
その夜、ギムレットさんは一睡もしていなかった。
僕が、鳥のさえずりと共に目を覚ますと、工房の外から、規則正しく土を掘り返す音が聞こえてくる。慌てて外へ飛び出すと、そこにいたのは、夜明け前の薄明りの中、鍬を振るうギムレットさんの姿だった。
昨日までの、全てを諦めきった老人の面影はどこにもない。その背中は、まるで若い頃に戻ったかのように力強く、その瞳は、一点の曇りもなく、目の前の大地だけを見つめている。
彼が耕しているのは、工房の裏手にある、水車小屋に隣接した小さな畑だった。長い間放置され、固く痩せていたはずのその土地は、彼の丁寧な手仕事によって、ふかふかとした畝へと生まれ変わっていく。
「ここは、わしの聖域じゃ。わしのエールの魂となる、黄金の大麦と香りのホップだけが、育つことを許された場所……」
彼は、僕に気づくと、荒い息をつきながら、誇らしげにそう言った。
「ギムレットさん、僕の仲間たちに、手伝わせてもらえませんか?」
僕は、コハクとハグレを指さして、提案した。
ギムレットさんは、一瞬、眉間に深い皺を刻む。
「……わしの聖域に、龍の魔法なんぞ……。酒造りは、土と水、そしてドワーフの手仕事で決まるんじゃ。小手先の奇跡は、本物の味を濁らせるだけじゃ」
だが、彼は、僕の手の中にある、黄金の種に視線を落とすと、ぐっと言葉を呑んだ。一刻も早く、この種が育つところを見たい。その職人としての純粋な探究心が、彼の頑固な哲学に打ち勝ったようだった。
「……好きにせい」
コハクが、ギムレットさんが耕したばかりの聖域に、そっと【豊穣の息吹】を吹きかける。すると、ただの土だった大地が、まるで呼吸を始めたかのように、生命力に満ちた、黒々とした土壌へと変わっていった。
ギムレットさんが、その土を恐る恐る手ですくい、その匂いを嗅ぐ。その顔が、驚愕に見開かれた。
続いてハグレが、種を植えた場所に、まるで細い絹糸を紡ぐかのように、繊細にコントロールされた【水の導き】の力を注いでいく。一滴一滴が、的確に、種の必要とする場所へと染み込んでいく、神業のような水分調整。
ギムレットさんは、もはや何も言わなかった。ただ、二匹の龍がもたらした「理屈を超えた力」……そのあまりにも純粋で、完璧な生命力の奔流を前に、一人の職人として、深い畏敬の念を抱いているようだった。
黄金の大麦と香りのホップは、龍たちの力と、この土地の魔力を得て、驚異的な速さで成長を始めた。
その成長を待つ間、ギムレットさんの情熱は、埃をかぶった醸造設備の再生へと向かった。彼は、まるで長年の友の体を清めるかのように、銅製の樽を磨き、パイプの詰まりを掃除していく。その姿は、生き生きとしていた。
僕が、その手伝いをしながら、前世の知識を元に、ふと尋ねた。
「ビ……エール造りでは、発酵の温度管理が、味の決め手になると聞いたことがあります。この工房では、どうやって?」
その僕の言葉に、ギムレットさんの動きが、ぴたりと止まった。
「……小僧。お前さん、なぜそんなことを知っておる」
彼の目が、初めて僕を「ただの小僧」ではない、何者かと見る目に変わった。
そこから、僕たちの間に、師弟のような関係が芽生えた。
彼は、僕の質問が的確であることに驚き、やがて、堰を切ったように、麦芽の作り方、麦汁の煮込み時間、そしてドワーフに代々伝わる秘伝のレシピまで、喜々として語り始めたのだ。
そして、種を蒔いてから、五日後。
聖域には、太陽の光を浴びて、黄金色に輝く、見事な大麦の穂が、風にそよいでいた。ホップの蔓には、清々しい香りを放つ、美しい緑色の毬花が、たわわに実っている。
ギムレットさんは、その収穫の時を迎えた一本を、震える手で、愛おしそうに刈り取った。そして、その穂を掌の上で揉み、現れた完璧な黄金色の粒を、じっと見つめている。
「……始めるか」
数十年の時を超えて、伝説の職人が、再び立ち上がることを決意した瞬間だった。




