第9章「決断と喪失」
それから一年が過ぎた。
ロンドンの空は相変わらず曇りがちだったが、一郎の暮らしには確かな温もりがあった。エリーは無事に女の子を出産し、母となった彼女の穏やかな笑みは、一郎に安らぎを与えた。
一郎の母 美佐子も、ロンドンでの治療によって症状は寛解。徐々にではあるが体調を取り戻し、静かに、そして自然に、Jonathan教授と心を通わせていった。
やがて二人はささやかな式を挙げた。
「You must walk ahead, Ichiro. We'll always be behind you.」
(お前は前を向いて歩きなさい。一歩後ろに、私たちがいつもいる)
そう言って微笑んだ母の瞳は、どこか少女のように輝いていた。
研究も順調だった。神経変性疾患の分子マーカー研究で、一郎の論文は国際誌に採択され、次世代の神経再生医療への応用が期待されていた。
ある日、Jonathan教授が研究室に静かにやってきた。
「Ichiro, may I speak with you for a moment?」
(イチロー、少し話せるかね)
教授は、手に一通の封筒を持っていた。
「I am stepping down from my post next spring. And I've recommended you as my successor.」
(来春、私は所長を退く。その後任に、お前を推薦した)
一郎は息をのんだ。
「Professor… I don’t know what to say.」
(教授……言葉が見つかりません)
「Then say nothing. Just continue doing what you’ve always done: honest work, for the sake of others.」
(ならば何も言わなくていい。これまで通り、誠実に、人のための仕事を続けなさい)
その夜、一郎はベビーベッドの傍らで眠るエリーと娘を見つめながら、かつての混沌の日々を思い返していた。
静かに頷いた。