第8章「ジョナサン教授と楠政人」
エリーの妊娠が判明したその日から、一郎の心は揺れていた。
「Ichiro... I missed my period.」
(イチロー……生理が来ないの)
「Are you sure?」
(一郎は問い返した)
「Yes. I took a test. It's positive.」
(ええ、検査薬で陽性だったわ)
戸惑いと責任の重さ、そして何よりも、祐子の存在が胸を締めつけた。
それは突然の知らせだった。
ロンドンの雨が止んだ午後、一郎のスマートフォンが震えた。表示されたのは、楠政人の名。
「……一郎。祐子さんが、亡くなった。入水だった。遺書が見つかって……お前宛に手紙も残ってる」
一郎は、椅子に座ることさえできなかった。全身の力が抜けていく。崩れ落ちそうな心を、ただ手すりにすがって保った。
届いた手紙には、こう綴られていた。
──あなたが遠くに行っても、私は信じていた。
──でも、心だけは返してほしかった。
かつての笑顔、互いに誓い合った未来、何もかもが一瞬で崩れ去った。
楠からの次の言葉は、更なる衝撃だった。
「……あの論文、木村教授の名前が1st. Autherになってた。しかも、一郎の名前は、謝辞にしか記載されてなかった」
「……そんな、馬鹿な……!」
一郎は震える手で日本の医学誌のサイトを開いた。確かに、自分が一年以上かけて取り組んだ研究論文には、指導すらしていない木村教授の名が堂々と筆頭著者として載っていた。
「使われていたんだ、最初から……」
父のように慕っていた医局の長が、ただの「利用者」に過ぎなかったと気づいた瞬間、何かが内側で音を立てて崩れた。
「本当なんだな...........まだ信じたかったのに。」
「……こんな……」
理不尽さと怒り、そして深い失望。一郎は静かにモニターを閉じた。
そして、Jonathn教授言葉がいつか言ってくれた言葉が、心によみがえる。
「In science, honesty is not a virtue, it is a duty.(科学において誠実さは美徳ではない、義務だ)」
喪失の中で、一郎は何かを得ようとしていた。
ロンドンの研究所に戻っても、一郎の心は虚ろだった。エリーの妊娠は順調で、母も少しずつ回復していた。それでも、一郎の瞳には常に霧がかかっていた。
その様子を見かねたジョナサン教授が、ある日声をかけた。
「Ichiro, come with me. Just a walk.」
(一郎、少し散歩に付き合ってくれ)
二人はテムズ川沿いを静かに歩いた。沈黙の後、教授は口を開いた。
「You’ve lost much. But not everything. You still have your work, your family, your honor.」
(多くを失ったな。しかしすべてではない。君には仕事があり、家族があり、誇りがある)
「I don’t know if I deserve any of it…」
(それが自分にふさわしいのか、分からないんです)
Jonathanは立ち止まり、一郎の目をまっすぐに見た。
「That’s not for you to decide. But every day you choose to stand up, to do the work, you earn it again.」(それを決めるのは君ではない。ただ、毎日立ち上がり、誠実に仕事をすることで、君はそれに再び値するようになる)
その夜、一郎はエリーの膨らんだお腹に手を当てながら、初めて声をあげて泣いた。
日本で失ったもの。愛した人の命。理想の恩師像。信じた正義。
そのすべてが音を立てて崩れ去った中でも、残っていたものがあった。支えてくれる家族と、無垢な命の重み、そして——
Prof. Jonathanの変わらぬ、誠実なまなざし。
その背中に導かれるようにして、一郎は再び立ち上がった。
それから1週間後。後悔と罪悪感、自責の念に押し潰されそうになるなか、楠政人が突如ロンドンに現れた。
「おい、一郎。日本は春で桜満開やで、こっちはずっと曇りやな」
「……政人?」
「祐子のこと...........あれだ、ほら.......来んのが遅すぎたかもしれんけど、顔を見に来た」
二人はテムズ川沿いを歩いた。風が冷たく、重たい沈黙が流れる。
「俺が、彼女を壊した」
「それは、違う。一郎、お前は誰の所有物でもないし、誰かの“期待”にだけ応えるために生きとるわけでもない」
「でも……」
「エリーが妊娠したんやろ? それもお前の人生や。人が死んだら、その分まで背負って生きなあかん。せやけどな、背負ったまま潰れる必要はない」
政人は立ち止まり、一郎の目を見て言った。
「お前が誰を選んだかやない。どう生きるかや」
「……政人……」
「祐子の死を悼むなとは言わん。けどな、それでお前の人生が止まったら、祐子の人生まで否定することになる」
「......................................................」
「................................................]
二人無言のまま、しばらくテムズ川沿いを歩く。ロンドン塔近くに見えた小さなTubeの駅で別れた。
「じゃあな」
「ああ.......」
一郎は静かに政人の背中を見送った。