第7章「交差する運命」
ロンドンでの時間が静かに流れていくなか、ジョナサン教授と一郎の母・美佐子との距離も自然と縮まっていった。
美佐子は外語大学出身で、翻訳業に従事していたこともあり、英語の読み書きはもちろん、会話もほとんど問題がなかった。ジョナサンが専門的な話をしても、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら、時折うなずき、的確な応答を返していた。
「You’ve raised a remarkable son, Ms. Hiiragi. His work ethic is unmatched.」
(あなたは本当に立派な息子さんを育てられました、美佐子さん。彼の勤勉さは際立っています)
「Thank you, Professor Barrows. But it's not all my doing. I think Ichiro has always had his own light.」
(ありがとうございます、バロウズ先生。でも、それは私だけの力ではありません。一郎はもともと、自分で光を見つけられる子なんです)
そんなやり取りに、一郎は少し照れくさそうに笑った。
ある週末、教授の自宅で開かれたささやかな夕食会。エリーが作ったシェパーズパイと、母の作った筑前煮が並ぶ食卓には、国も文化も越えた温もりが漂っていた。
「Ichiro tells me you used to translate literature. Any particular author you admired?」
(イチローから聞きました。あなたは文学の翻訳をされていたとか。特に好きな作家はいますか?)
「Virginia Woolf. And also Soseki Natsume. Both explore the solitude of the human mind, I think.」
(ヴァージニア・ウルフ、それから夏目漱石も。どちらも人間の孤独に深く分け入っていると思います)
Jonathanは静かにうなずいた。
「Then you must see a lot of Ichiro in them. He carries solitude like a shadow, but also light.」
(きっと、イチローにもその影を見ておられるのでしょうね。彼は孤独を影のように背負っているけれど、それでも光も持っている)
その言葉に、美佐子の目がわずかに潤んだ。
「Yes… That’s always been true. He was never loud, but always kind. Even when his classmates teased him for having no father, he never answered with anger. Just silence.」
(ええ……本当にそうです。声高ではないけれど、いつも優しい子でした。父親がいないことでからかわれても、決して怒らず、黙って受け止めていました)
その夜、帰り道。
「一郎、バロウズ先生って、思っていたよりも……人間味がある方なのね」
「そうだね、隠すのが上手いだけで、きっと彼にも彼なりの痛みがあったんだと思う。」
ある日、一郎がラボから帰ると、母とJonathan先生がリビングで並んで紅茶を飲んでいた。
「Ichiro, your mother was just telling me about the earthquake in Kobe. How she helped coordinate relief translations. That’s impressive.」
(一郎、お母さんが阪神淡路大震災のとき、翻訳ボランティアとして活動されていたって。すごいですね)
「She did more than I ever could. She kept our life together with thread and hope.」
(母は、僕ができること以上のことをしてきたよ。僕たちの生活を、細い糸と希望でつなぎ止めてくれたんだ)
Jonathanは一瞬黙り、それから、深く一礼した。
「Then I’m honored to know her.」
(それなら、私は彼女を知れたことを光栄に思います)
その言葉が、母の心を強く打ったようだった。
その後も、美佐子の治療と検査は続いたが、少しずつ状態は安定し、彼女はロンドンでの生活にも順応していった。
そしてある日、彼女が一郎に告げた。
「ねえ……ロンドンで暮らすこと、考えてもいいかしら?」
「え?」
「思ったより、ここが好きみたいなの。Jonathan先生も……いろいろ助けてくださるし。あなたと一緒にいられるし……」
その口調は、淡々としていたが、どこか少女のような面差しもあった。
一郎はふと、父の記憶のない自分と、ジョナサン教授の静かな誠実さが、母に何かをもたらしているのだと気づいた。
「母さんがそう思うなら、僕は嬉しいよ」
ロンドンの初夏、柔らかい日差しが二人の背を照らしていた。