第6章「論文と権力」
春。
ロンドンでは珍しく、雲の切れ間から青空が覗いていた。研究所の窓辺で、陽光を浴びながら一郎はラップトップに目を凝らしていた。
査読前の論文原稿が、ロンドンの研究室から日本の大学へ共有された数日後、一郎のスマートフォンが鳴った。
発信者:楠政人。
「おい、ちょっとマジで驚いたんだけどさ……お前の研究、学会発表されるって知ってたか?」
「え? そんな話、初耳だけど」
「しかもさ、その論文、筆頭著者が“Kimura T”になってんだよ。お前、協力者って末尾に名前だけだぞ」
一郎の指が止まった。
「嘘だろ……?」
「いや、本当。教授が“うちの研究チーム”として出すって。おまえのデータ丸ごと使ってな」
愕然とした。確かに一郎は、日本にいた頃、木村教授のもとで研究の種を蒔き、ロンドンでその芽を育ててきた。だが今や、その成果が、まるで教授の手柄として世に出されようとしている。
夜、エリーにそのことを話すと、彼女は眉をひそめた。
「That's academic theft. If the data is yours, and the work is yours, then the credit should be yours.」
(それ、盗用じゃない。データがあなたのものなら研究成果もあなたのもの、だから手柄もあなたのものじゃない!)
「In Japan... it's complicated. The system is hierarchical. The professor owns the project, even the people.」
(日本の事情はちょっとややこしいんだ。日本の医局は上下関係が厳しくてね。教授がプロジェクトや人事権さえ持っているんだよ。)
「That's sick. You're not property, Ichiro. You're a scientist.」
(ひどいわね。あなたは者じゃない。研究者よ!)
彼女の怒りに、一郎は言葉を失った。
数日後、Jonathan教授が一郎の論文をプリントして持ってきた。赤ペンで丁寧に添削されたページを、一枚ずつテーブルに並べながら言った。
「You’re almost ready. This is your work, and it deserves your name at the top. I’ll back you when you submit it.」
(良い出来じゃないか。これこそ君の成果だよ。ファーストネームに値する。投稿するときには手伝うよ)
「But... there's a conflict. In Japan, this might be seen as betrayal.」
(それが少々問題がありまして。日本では、これが裏切りととられかねないんです。)
「Loyalty to truth is never betrayal. What they want is obedience, not science.」
(真実に誠実であることは裏切りなんかじゃない。彼らが求めているのは、科学じゃなくて服従だよ。)
一郎はその言葉に深くうなずいた。
翌日、東京からメールが届いた。
差出人:木村祐子
件名:どうして?
《一郎、教授が怒ってた。君が勝手に論文を出そうとしてるって……
父は、君に期待してたって言ってたよ。でも、研究室の名誉のためにも、君は協力すべきじゃないの?
私は……君を信じてる。でも、裏切らないで》
彼女の言葉は、静かに一郎の胸を刺した。
(俺は……本当に裏切っているのか?)
それでも、彼は思い返した。大学の医局で、教授の一存で決まる人事。論文の著者順。研究費の配分。そして若手に押し付けられる業務。
(あの医局は、俺を育ててくれた。でも同時に、俺を“道具”として扱っていたんだ)
一方で、Dr. Jonathanはただ一度も一郎を所有しようとしなかった。ただ、真理の探究のために、平等な関係を求め続けてきた。
母の治療費用の一部を、自費で肩代わりしていたことを、エリーから聞かされたのも、その夜だった。
「He said it was a grant. But I know the grant doesn’t cover everything. He paid the rest.」
(パパは助成金だっていってた。だけどそれじゃまかなえない。残りを払ったんだって....)
「Why didn’t he tell me?」
(なんで先生は言ってくれないんだ?)
「Because he thought you'd refuse.」
(多分あなたが断るとおもったからだと思うわ.....)
ラボの夜は静かだったが、一郎の胸の奥は、確かに何かが変わり始めていた。
(俺は……この場所で、自分の足で立とう)
その決意が、ようやく芽生え始めていた。