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舞姫 改 ” 柊一郎の選択”  作者: しゅんたろう as Augai Moritz
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第5章「二つの愛、二つの父」



ロンドンでの生活は、一郎にとって決して甘いものではなかった。


朝から晩までラボでの作業に追われ、英語でのディスカッションにも神経をすり減らす日々。

Jonathan Burroughs教授の指導は徹底的に厳しく、褒め言葉どころか肯定すら滅多にない。


「You call this data? Run it again. Twice. With proper controls.」

(これをデータと呼ぶのか? もう一度だ。いや、二度やり直せ。ちゃんとした対照群を入れてな)


だが、一郎は耐えた。日本で木村教授に評価されるために努力した日々を思い出しながら、自分にできる最善を尽くしてきた。


ある日、夜遅くにラボでPCRの結果を待ちながら、エリーが紙コップに紅茶を注いで一郎の隣に座った。


「You look like hell. Been sleeping at all?」

(物凄く疲れてるみたいだけど、ちゃんと寝てる?)

「I could ask you the same. But no, not really.」

(君におんなじことを聞いてもいいけど、いいや、いやそうじゃない)

「Barrows always does this to newcomers. You’re not the first.」

(彼は新人にはいつもこうするのよ。あなたが初めてじゃないわ。)

「But he’s right. I have a lot to learn.」

(でも彼が正しい。僕はもっと学ばなきゃなんない。)

「You always take things so seriously. That’s kind of beautiful, though.」

(あなたはいつも、真面目すぎる。けど、私は、とても素晴らしいと思うわ)

ふと視線が重なり、しばらく沈黙が落ちた。


「You know… I think my mother would have liked you, Ellie.」

(えーっと、きっと母はエリーのこと気に入ると思う。)

「I hope I’ll get to meet her someday.」

(いつか母にあって欲しいんだけどなあ)

一郎は微笑んだ。だがその笑みはすぐに消える。


(母に……会ってもらえるだろうか)


その頃、日本の母から届くメールは次第に回数が減り、文面も簡潔なものになっていった。


──「ちょっとめまいがして。大したことはないけれど」


──「最近、疲れやすくて、念のため検査を受けてみるわ」


一郎は嫌な予感を覚え、何度も日本へ電話をかけようとしたが、母はいつも「大丈夫よ」と微笑むような口調で電話を切った。


それでも、ある夜、楠政人から届いたLINEが決定打となった。


《一郎、すぐに連絡してやってくれ。おばさん、やっぱりちょっと様子がおかしい。痩せたし、動きも鈍い。病院の検査で、脳の異常が出てるって》


衝撃だった。ラボの静寂が、急に遠く感じた。


そして母からのメール。


──「今度、ロンドンで詳しい検査を受けてみようと思うの。Burroughs 教授の知り合いがいるって、聞いたから」


一郎はバロウズ教授に相談した。彼は思いのほか真剣に話を聞き、数日後には、ロンドン市内の大学病院の神経内科と、研究所の連携で母の受け入れが決まった。


そして、母はロンドンへとやって来た。


出迎えた日の夕方、寮の裏庭に咲いたラベンダーの香りの中で、一郎は母と並んでベンチに座っていた。


「ロンドンの空、少し青いわね」


「日本より、冷たいかもしれない。でも……母さんには似合ってるよ」


母は笑ってうなずいた。だが、彼女の手はわずかに震えていた。


検査の結果は、脳血管障害に伴う初期の認知機能低下と、軽度の運動障害。


「治療を続ければ、進行を遅らせることはできるかもしれません」

そう語る英国人医師の隣で、Jonathan教授は無言でうなずいた。


その後も彼は、事あるごとに母に付き添い、面談にも同席し、さらには母の語学サポートまで手配してくれた。


ある日、母がふと口にした。


「Jonathan先生って、不器用だけど、優しいわね。お父さんに……少し似てるかもしれない」


その言葉に、一郎の胸の奥がかすかに震えた。


「君の母君は、とても強い人だ。君に似てる」

Jonathanはそう一言だけ言って、背を向けた。


そしてその夜、エリーと夕食を共にした帰り道、彼女がふとつぶやいた。


「You know, I think you're lucky. You have two people who want you to succeed. Two fathers, in a way.」

(そう、わたしあなたとてもついてると思うの。あなたの成功を祈ってるひとが二人もいるんだもの。ある意味、二人のお父さんがいるようなものじゃない。)


「Two fathers... maybe. But only one who sees me for who I really am.」

(二人の父か、そうかもね。僕をを本当の僕として見てくれる唯一の人だからね

「And which one is that?」

(をれはどっち?)

「I'm still figuring that out.」

(僕もまだわかんないんだ)

ロンドンの夜は静かだった。だが一郎の心の中では、二つの愛と、二つの父の存在がせめぎ合っていた。


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