第4章「ロンドンの曇り空と出会い」
London、Euston stationから少し離れた北部のキャンパス。UCL(University College London )付属の研究機関『Winchester神経・再生医療研究所』。
到着初日、一郎はやや疲れた表情で、指定された教授のprivate officeのドアをノックした。
“Come in.”
重厚な扉の向こうから、低くよく響く声がした。
「Excuse me, I'm Ichiro Hiiragi from Japan. It's an honor to meet you, Professor Burroughs.」
(失礼します、日本から来た柊一郎です。お会いできて光栄です、バロウズ教授)
書類に目を落としたままの男は、ゆっくり顔を上げた。白髪混じりの短髪。痩身で、眼鏡の奥に鋭い青い目を宿していた。
“You're early. Punctual, I see. Typical Japanese.”
(時間に正確だな。いかにも日本人らしい)
“I try to be. I believe punctuality reflects respect.”
(そのように努めています。時間を守ることは敬意の表れだと考えています)
“Well, we'll see if respect translates to results.”
(その敬意が結果につながるかどうか、見ものだな)
ぶっきらぼうなその物言いに、一郎の背筋がわずかに伸びた。
「……I'm looking forward to working with you, sir.」
(ご指導のほど、よろしくお願いします)
“Fine. Talk to Dr. Ellison down the hall. She’ll show you around. Orientation starts at 10 sharp.”
(よろしい。廊下のエリソン博士に案内してもらえ。10時ちょうどにオリエンテーション開始だ)
“Understood.”
(了解しました)
教授はそれ以上、一郎に視線すら寄越さなかった。
(……なんだ、この感じ……)
歓迎の言葉も笑顔もない。木村教授のような熱意もなければ、日本の医局のような連帯感もない。
(ここでやっていけるのか、俺……)
だが、ため息をつく暇もなく、足音が廊下から近づいてきた。
「Are you Dr. Hiiragi?」
振り返ると、明るい金髪を後ろでまとめた若い女性が立っていた。白衣の下にニットとジーンズというカジュアルな服装だが、どこか舞台人のような柔らかな気品がある。
「Yes, I am. You must be Dr. Ellison?」
「Exactly. But everyone calls me Ellie. Come on, I'll show you the lab.」
(そのとおり。でも皆、エリーって呼ぶわ。さあ、ラボを案内するね)
彼女の歩き方はどこかリズミカルだった。まるで踊っているかのように。
「You have a very graceful walk, Ellie. Do you dance?」
「Wow, you noticed? I do ballet. Since I was six.」
(すごい、気づくなんて。バレエやってるの、6歳から)
「I can tell. I used to watch ballet with my mother. She loved it.」
(分かります。母と一緒によく観に行きました。母がバレエをとても好きで)
彼女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「Then you're going to fit in here just fine, Ichiro.」
その名の呼び方に、距離が一気に縮まった気がした。
その晩、研究所近くの寮の小さな部屋で、一郎はメールを開いた。
差出人:木村祐子
件名:元気にしてますか?
《一郎
そっちは寒い? 私は相変わらず。父も元気にしてる。
私の方も、今度発表があって……緊張してるけど、頑張る。
あ、今夜は桜が満開だったよ。やっぱり春が一番好き。
また連絡してね。祐子》
一郎は、しばらくその文面を見つめたあと、短く返事を打った。
《London is grey, but I’m doing fine. Missing the cherry blossoms though. Ichiro》
(ロンドンは灰色だけど、元気にしてる。桜が恋しいな。 一郎)
次に、もうひとつの差出人に目をやる。
差出人:楠政人
件名:おまえ、もう馴染んだか?
《おい、ロンドン貴族。ちゃんと飯食ってるか?
こっちは木村教授が機嫌悪くてな、お前がいた頃が懐かしいくらいだ。
そういえば、祐子さん、なんか最近元気ないぞ。やっぱ寂しいんだろ。
あ、ちなみにお前の机、今は俺の物置になってるからな。帰ってきても知らんぞ。——楠》
それを読んで、一郎は思わず吹き出した。
(政人、相変わらずだな……)
《机、勝手に使うな。ロンドンは飯が不味いって本当だった。あと、そっちで祐子のこと、頼む。——一郎》
彼の周囲には、新しい人々と、変わらぬ人々がいる。
その両方の存在が、一郎の心を複雑に揺さぶっていた。
バレエ、柔らかな笑顔、リズム感のある英語。——そして、なにより自然だった。
(彼女と、もっと話したい……)
そう思ったとき、自分がすでに新しい世界に引き込まれつつあることに、一郎はまだ気づいていなかった。
……ロンドンの街にも、ようやく春が近づいていた。そのころ、エリーは新たな公演の準備に入っていた。
ロイヤル・バレエの本公演。《白鳥の湖》。
彼女が務めるのは、オデットとオディールの二役──プリマの大役だった。
ロンドン西部、Covent GardenにあるRoyal Opera House。
その夜、客席はほとんど満席だった。
ジョナサンが何日も前から手配してくれていたチケットは、前から三列目の中央。
演目は《白鳥の湖》。プリマを務めるのは──Ellison Stewart。
Burroughsではなく母の姓を名乗っていた。
「彼女があの役を務めるのは、これが最後になるだろう」
Jonathanはプログラムを閉じてつぶやいた。
一郎は舞台に目を向けた。
幕が上がる──そしてそこに、彼女がいた。
光のなかに現れた白い衣のエリーは、
日常の彼女とはまるで別人だった。
孤独と誇り、哀しみと希望、それらすべてを
腕の先、つま先、ひとつひとつの呼吸に乗せて舞っていた。
一郎の胸に、冷たいものが差し込む。
──これは、自分が決して踏み入れられない領域だ。
病院の白い壁の中で彼が救おうとしていたものとは、
まったく別の“生”が、いまここにあった。
終幕、カーテンコール。
万雷の拍手の中で、エリーは深く一礼した。
客席の端で、ジョナサンがわずかに微笑んだ。
そしてその手が、ごく自然に一郎の肩を叩いた。
「She’s not only talented, but fearless. She dances with everything she has.」
(彼女はただ才能があるだけじゃない。すべてを懸けて踊っているんだ)