第3章「旅立ちの前夜」
「ねえ、一郎」
木村家の客間。淡い照明のもと、祐子は一郎の胸元に顔をうずめた。
「うん」
「ほんとうに……行くのね、ロンドン」
「祐子……」
彼女の体温が、肩越しに伝わってくる。その温もりを、一郎は胸に刻みこむように抱きしめた。
「僕も……迷わなかったわけじゃない。教授に言われて、君と話して、それでも、やっぱり怖くて」
「何が?」
「君を、置いていくこと」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
「祐子。僕がロンドンに行くのは、逃げじゃないんだ。母さんのことも、君のことも、全部置いてくるつもりなんてない」
「わかってる。でも……」
「うん?」
祐子はふと、一郎の手を引いた。指先が自然と絡み合う。まるで何かの儀式のように。
「わたし、お願いがあるの。……一郎と、今夜だけは、一緒にいたいの」
一郎は、答えなかった。ただ頷き、祐子の頬をそっと撫でた。
——その夜、二人ははじめて、同じ布団で夜を過ごした。
触れあう唇、震える肩、交わされる小さなため息。医学生としての理性を脱ぎ捨て、ただ相手の存在を確かめるように、互いを包み込んだ。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
翌朝。
「もう、行く時間ね」
「うん……」
北都空港の国際線ターミナル。出発ロビーには、教授も、祐子も、そして一郎の母・美佐子も揃っていた。
「一郎、くれぐれも身体に気をつけるんだ。ロンドンは日本と違うぞ」
木村教授は、いつになく口数が多かった。
「はい、先生……いや、ありがとうございます。達郎先生」
「“先生”なんて固いな。祐子が嫁に行く前に、そろそろ“お義父さん”と呼べ、とは言わんがな」
「そ、それは……」
祐子がそっと手を伸ばし、一郎の袖を引いた。
「一郎。……元気でね」
「祐子。君も、元気で」
二人は言葉を失い、代わりにその手を強く握った。
「お母さんも、ありがとう」
「神さまが、あなたと共にありますように。祈ってるわよ」
そう言って、美佐子は手を合わせた。あの教会の、あの祈りの姿そのままで。
やがてアナウンスが鳴り、一郎は搭乗口へと歩き出した。振り返ると、三人の姿がそこにあった。美佐子は静かに手を振り、祐子は泣くまいと唇を噛んでいた。
達郎教授だけが、厳しいまなざしで頷いた。
(俺は、今、旅立つ——)
その胸に、淡く痛むような春の余韻を残して。
ロンドンは、まだ遠かった。