第2章「祐子との春」
北都大学医学部——日本海に面した地方都市にあるその大学は、明治期に設立された旧官立の伝統校である。臨床重視の方針で知られ、特に神経内科と感染症内科は全国でも高い評価を得ていた。
脳神経内科の医局に所属する柊一郎は、研究にも臨床にも手を抜かない人物として知られていた。教会育ちの礼儀正しさと、努力家という評判が先行し、どこか“近寄りがたい優等生”という印象を与えていた。
だが、彼女だけは違った。
木村祐子——神経内科主任教授・木村達郎の一人娘であり、同じく医学部に在籍する同級生だった。彼女は成績も優秀で、しかも穏やかで気品のある雰囲気を持ち合わせていた。まさに“医師の娘”として誰もが納得するような存在だったが、本人はその肩書に甘えることなく、静かに実力を積み上げてきた。
「柊くん。今日、研究棟のセミナー、空いてる?」
ある春の日の昼休み、彼女が控えめに声をかけてきた。彼女から話しかけてくるのは珍しいことだった。
「空いてるけど…木村さんも来るの?」
「ええ。教授回診の予習を少し。ねえ、一緒に行ってもいい?」
研究棟の小さなセミナー室。二人並んで座り、モニターに映されたMRI画像を見ながら、彼女がふと声を落とす。
「……私、あなたのように一途になれるか、わからないの」
「何の話?」
「何でもない。たぶん、嫉妬してるのよ。あなたのお母様に」
「えっ?」
「前に話してたでしょ? 柊くんが、お母さんのことを“人生で一番尊敬してる人”って。……素敵だなと思って」
「木村さん……」
彼女は照れたように視線をそらし、それ以上は何も言わなかった。そのあと、手元のノートを見ながら、ふとつぶやくように言った。
「……私、あなたといると、ちゃんとした人間になれる気がするの」
それが彼女の告白だったのかは、わからない。ただ一郎の中に、あたたかなものが広がっていったのは確かだった。
やがて、自然な流れで交際が始まった。二人の関係は穏やかで、誰に知られるともなく、医局内では“よきカップル”と呼ばれるようになる。
木村教授もまた、微笑ましく見守っていた——少なくとも、一郎はそう信じていた。
ある晩、教授に呼ばれた帰り道、祐子がぽつりと言った。
「父はね、あなたのことを“逸材”って言ってたわ」
「木村さんのおかげだよ。教授の推薦がなければ、僕はロンドンに行けなかった」
「……ううん。きっと、もっと早く気づいてた。父が私に“あの子は将来、国際的な仕事をするかもしれない”って言ったのは、柊くんが3年のときよ」
「そんな前から……」
「ええ。だからね、私、ちょっと焦ったの。……置いて行かれるんじゃないかって」
夜の校舎の裏手。自販機の灯に照らされた祐子の横顔は、どこか不安げで、それでもまっすぐだった。
「祐子さん……僕は、君を置いて行ったりしないよ」
そう言いながら、一郎は自分の言葉に確信が持てなかった。
それでも彼女は、やさしく笑った。
「……うん。信じる」
その夜の風はまだ冷たかったが、二人の心は、確かに春の中にいた。