Epilogue「夕暮れ、始まりの光」
ロンドンの午後、ハイドパークの片隅。
一郎は、まだ幼い娘の小さな手を引いていた。金髪と黒髪の混じった子どもの髪が夕日に照らされてきらきらと光る。
<回想>
エリーの出産は、静かな雨の朝だった。
予定日よりわずかに早かったが、母子ともに健康だった。
生まれた赤ん坊を腕に抱いたエリーが、震えるような声で一郎に訊ねた。
「Ichiro... what should we name her?(一郎……この子の名前、どうする?)」
ベビーベッドの向こう、ロンドンの空は灰色に曇っていた。
だが、その瞬間、一条の光が雲間から差し込んできた。
一郎はふと、かつて母が口にしていた聖書の一節を思い出す。
「The light shines in the darkness, and the darkness has not overcome it.」
(闇の中に光が輝いている。そして、闇はそれに打ち勝たなかった) *ヨハネによる福音書 1:5
失われたものの重さを思いながらも、それでも前を向く理由が、今ここにあった。
「Hikari(光)と名づけよう」
そう言った一郎の声は、どこか確信に満ちていた。
エリーは微笑み、赤ん坊の頬にそっと口づけた。
「Then her name is Hikari Grace Shuto(柊の意)」
(それじゃあ、この子の名前は──ヒカリ・グレース・シュートーね)
「Grace(恵み)」は、祖母・美佐子の祈りを引き継いだエリーの思いだった。
誰かを許し、誰かに寄り添い、生きる者すべてに与えられる優しさの名。
その夜、ジョナサンはワインを一本開け、少しだけ頬を紅潮させて言った。
「She will walk in the light you both gave her. そして、きっと──いつか誰かを照らす光になる)
<再び 今>
その視線の先、少し離れたベンチに、エリーが微笑んで座っていた。隣には、穏やかな表情の美佐子と、静かに紅茶を飲むJonathan教授の姿があった。
一郎は胸ポケットから、やや厚めの封筒を取り出した。
それは、1通の推薦状だった。封筒にはJonathanの名。
──彼は、私の弟子であり、家族であり、私の後継者である。
また、その文末にこのようにも記されていた。
「He has chosen, not what was easy,but what was right.」
一郎は微笑み、ながら大事にそれをまたむねぽけっとにしまった。
彼の目の前には、夕日とともに広がる、真新しい研究所の建物──
そして、彼が本当に欲しかった“家族”と“父の言葉”があった。
未来は、ここから始まる。(終)
この物語は、森鷗外の『舞姫』を下敷きにしながら、もしも“彼”が異なる選択をしていたら──という、いわばもうひとつの舞姫の可能性を描いた作品です。
原作で描かれたのは、時代や制度の狭間で引き裂かれる「青年の理性と感情」でした。それに対し、現代に生きる私たちが問われるのは、もっと根源的な「どう生きるか」「誰を大切にするか」ではないでしょうか。
本作の主人公・柊一郎は、父のいない環境で育ち、信仰と知性に育まれながらも、医局という密室的な構造と倫理のはざまで揺れ動きます。
そして、日本とロンドン、過去と未来、愛と責任、そのすべての間で、彼はひとつの“誠実な決断”を選びます。
私自身もまた、現代における「舞姫」を再解釈するなかで、どこまでが自己犠牲で、どこからが希望の選択なのかを、長い時間かけて考え続けました。
エリーのまなざし、祐子の静かな涙、Jonathan教授の沈黙、そして母の微笑み。
読者の皆さまの胸にも、彼らがどこかで生きてくれていたなら、これほど嬉しいことはありません。
最後まで読んでくださったこと、心より感謝申し上げます。
また別の物語で、お会いしましょう。
しゅんたろう as Augai Moritz