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舞姫 改 ” 柊一郎の選択”  作者: しゅんたろう as Augai Moritz
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第1章「母と教会と学問と」

本作は、森鷗外『舞姫』(1890)への敬意を込めて着想を得たフィクション作品です。

原作は、格調の高い漢文調で、さすが”巨匠”と思わせる反面、現代に生きる私たちとは、ずいぶん言葉使いが異なり、使用される語彙も非常に難解です。短編とはいえ、原著を読むのは”実は”骨が折れます。私の読んだ文庫本には注釈がありましたが、それでも結構むずかしいと感じました。

本作は現代が舞台で、”純文学”のカテゴリーにいれましが、気負わず、娯楽として多くの方に読んでいただければ有難いです。主人公の内面の葛藤などは、原作に通じるものがあると思いますが、ラストは他のAugai Moritzしゅんたろう作品と同様、Hppy Endに仕立ててあり、安心して読んでいただけると思います(笑)


本『舞姫 改』は原作に描かれた「時代に翻弄される青年の苦悩」と「選択の重み」を、現代という舞台に置き換え、もうひとつの可能性として描きたい──。そんな思いから生まれました。

この小説が、鷗外の作品を知るきっかけ、あるいは再読へのきっかけになれば、筆者として望外の喜びであるばかりでなく、同じ医師である(主人公、そして著者も)鴎外先生も天国できっと褒めてくださっていると確信しています。


しゅんたろう as Augai Moritz

挿絵(By みてみん)


<Prologue>

「彼方より、なお」


ロンドン・ヒースロー空港を離陸しておよそ一時間。機体は静かに巡航高度に達し、うすら寒い薄雲の上を東へと滑ってゆく。


窓の向こうに、イングランド南部の海岸線がうっすらと見えた。テムズ川がやがて北海へと注ぐあたり。あの川のほとりに、今の私のすべてがあった。


白衣を脱ぎ、機内のビジネスクラスのブランケットに身を包んでいても、研究室の明かりや、病室の柔らかな灯が脳裏を離れない。


──守るべき命が、ようやく増えたというのに。


前方モニターの地図が、進行方向の「東京/羽田」を点滅させている。かつて“帰国”と呼ばれたこの航路に、いま特別な意味を持たせるつもりはない。数年前、ある選択をして以来、私はこの国の国籍を離れた。書類一枚の問題ではない。居場所とは、選び取った日々の積層で決まるものだ。


それでも、あの知らせを受けたとき──彼女の名を聞いたとき、私は胸を深く抉られるような感覚に襲われた。


眠れぬまま、ふと目を閉じると、思い出す。夜のテムズの風、雨上がりのケンジントン・ガーデンズ、あの子が初めて立った日の、小さな足音。


そして、かつての“恩”にほほ笑む背中の、その裏にあった冷たい計算。あの論文のタイトルに、なぜ私の名前は最後だったのか──理由は、思い出すまでもない。


自責というより、もう少し静かな苦味。あれは「喪失」ではなく「剥離」だった。無垢だった何かが、皮を剝かれるようにして、地に落ちていった。


しかし──


私は、決して一人ではなかった。

頑なだった母の心をほどき、静かに寄り添ってくれたあの人。

無言で私の手を握り、少女を抱いたあの夜の温もり。

そして、最後まで言葉を濁さなかった友人の誘い。

「どうせなら、会っておけばいい。過去と、未来と、自分自身にな」


機内の照明がやや落とされ、窓の外はもう夜の色をしている。

その中に、ふと見える街の灯がある。スカンジナビアの、どこかの沿岸都市かもしれない。


私の人生は、遠くまで来てしまった。

だが──ほんとうに遠くにあるのは、距離ではなく、言葉にできなかった感情のほうだった。


胸ポケットには、小さくたたんだ手紙がある。差出人は、今はもう名前だけが残る彼女の家族だった。


シートベルトのサインが再び灯る。


私は静かに目を閉じ、娘の寝顔を思い浮かべた。

もうすぐ、朝が来る。


──過去は決して、時間の彼方にだけあるのではない。


私が選んだ未来は、あの瞬間から始まったのだろう。

ひとりの母に育てられ、ひとりの女性を愛し、ひとつの家族を失い、そして得た。

振り返れば、始まりはあの春の午後。白衣の袖をまくりながら、私はまだ何も知らなかった。


今こそ語ろう。あの曇り空の下、ロンドンの石畳へとつながる、小さな診察室からすべては始まったのだ。


<柊一郎 生い立ちと今>


東京・武蔵境の住宅街。その一角にある古いプロテスタント教会の礼拝堂で、五歳の柊一郎は「善きサマリア人」の役を演じていた。


舞台の端に立っていた母・美佐子は、静かに手を合わせていた。前夜に翻訳のバイトを片付け、朝は派遣の清掃仕事を終えたばかりだった。けれど息子の劇には、どんなに疲れていても欠かさず顔を出す。


「ママ、見ててくれた?」

舞台袖に駆け寄る小さな一郎が、はにかんだ笑顔を向ける。


「もちろんよ。とっても立派だったわ」


母の手は冷たかった。けれど、その手が一郎の背を撫でると、胸の奥に小さな灯がともった気がした。


一郎の母・柊美佐子は、東京外国語大学英語学科を卒業したインテリ女性だった。若いころは海外の詩や小説の翻訳を夢見ていたが、妊娠と夫の突然の失踪により、その道を断念した。


以来、美佐子は翻訳の在宅仕事に加え、都内の病院やオフィスビルで清掃のパートもこなしながら一人息子を育ててきた。


「神さまは、あなたの味方よ。一人ぼっちじゃないの」

日曜の礼拝のたびに、美佐子は一郎の耳元でそうささやいた。


その言葉の通り、一郎は一人ではなかった。教会では多くの年長者たちに囲まれ、礼拝のあとにはお菓子と紅茶、そして静かな祈りの時間があった。


やがて一郎は、地方の難関国立大学——北都大学医学部に合格する。


専門は脳神経内科。脳梗塞やパーキンソン病の患者と向き合う日々のなかで、人間の尊厳や運命に対する感覚が研ぎ澄まされていく。


彼のまじめさと誠実な対応は医局内でも評価され、学生時代から講義助手や研究補佐として活躍するほどだった。


「柊先生、また採血の神業で助けてくださいよ」


後輩たちが茶化すと、一郎は穏やかに笑った。


「刺すのは得意だけど、怒られるのは苦手だからな。失敗できないだけだよ」


そんな一郎の存在をいち早く見出したのが、神経内科主任教授の木村達郎だった。全国的にも知られる重鎮で、国際学会の常連。だが厳しいだけでなく、懐も深かった。


ある晩、教授室に呼ばれた一郎は、緊張した面持ちでノックをした。


「失礼します。柊です」


「おお、来たか。一杯どうだ、ウイスキーは飲めるか?」


「……はい、少しなら」


「まあ座れ」


木村は琥珀色の液体をグラスに注ぎ、じろりと一郎を見た。


「君の卒論、良かったよ。臨床データも丁寧だし、英文も洗練されてる。……英語は、どこで?」


「母が翻訳者でして。子どものころから、絵本代わりにShakespeareを読まされてました」


「なるほどな……実はな、イギリスに良い話がある。UCL(University Collage London)の付属研究施設『Winchester(ウィンチェスター)神経・再生医療研究所』。そこのJonathan Burroughs教授が若手を探していてな」


「え……」


「推薦状は、もう出しておいた。行ってこい、柊。あっちで神経再生の臨床研究に加われるぞ。君なら必ず化ける」


一郎は言葉を失った。


夢のような話だった。国際学会常連のJonathan教授の下で働けるなど、医局内の誰もが憧れるポストだった。


「……ありがとうございます、教授。光栄です」


「ところでな。娘の祐子のこと、考えてるか?」


急にトーンが変わる。


「はい……僕から申し上げる立場ではありませんが、交際はまじめに、誠実に向き合っています」


「それでいい。あいつも君といると穏やかでいられる。……まあ、何が言いたいかというと」


木村はグラスを置き、背もたれに身を沈めた。


「私は君に医局を継いでもらいたいと思ってる。うちの祐子と一緒になって、ここで神経内科を担ってほしい。それくらい期待してるんだ」


胸が熱くなるのを、一郎は抑えきれなかった。


教授の厚意。そして父を知らずに育った彼にとって、“父”からのような言葉だった。


「……もったいないお言葉です」


「だがな、柊。人生は選択の連続だ。今の選択が、五年後、十年後の君を決める。そう思って、行ってこい。ロンドンで、何かを掴んでこい」


その夜、アパートに戻った一郎は、母に電話をかけた。


「……おめでとう。一郎。あなたなら、きっとやっていけるわ」


電話口の向こうで、美佐子の声がわずかに震えていた。


「でも、無理はしないで。……あのね、最近ちょっとめまいがするの。年かな、とは思うんだけど……」


「病院には行ったの?」


「ううん、大丈夫。来週あたり、近所のクリニックで診てもらうから」


「……わかった。でも、くれぐれも無理しないで。派遣の仕事、少し減らせないの?」


「それは……少し考えてみる。でも、あなたの旅立ちには笑顔で送り出したいの。大丈夫。神さまがついてるもの」


それを最後に、電話は静かに切れた。


けれどその夜、一郎の胸には奇妙なざらつきが残った。


──母の声が、少し、もつれていたような気がしたのだ。


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