決戦、荒津の浜
菖蒲という脅威は去った。しかし、私の存在意義を巡る葛藤は、より深まっていた。
貝原益軒を抹殺するという当初の任務。それを実行すれば、2050年の杉花粉による悲劇は回避できる可能性が高い。だが、それは同時に、目の前にいるこの知識欲に溢れ、生命への慈しみを持つ老人を『削除』することを意味する。
(…効率性。任務達成率。それだけを考えれば、答えは明白。だが…)
益軒との日々は、私のプログラムに予期せぬ変化をもたらしていた。
彼が語る「実感」の大切さ。道端の草花に向ける優しい眼差し。人々の暮らしを豊かにしようとする真摯な思い。それらは、単なるデータとして処理できない『何か』を私に感じさせた。
「ハナよ、今日は少し遠出をしてみんか?」
ある晴れた日、益軒が私を誘った。
「どこへ?」
「荒津の浜じゃ。海を見て、潮風に当たれば、頭もすっきりするかもしれん」
私たちは二人で、屋敷からほど近い荒津の浜(現在の西公園や大濠公園付近の海岸線をイメージ)へ向かった。
白い砂浜が広がり、穏やかな博多湾が目の前に広がっている。カモメが鳴き、漁師たちの小舟が浮かんでいる。
「良い景色じゃろう?」
益軒は満足そうに微笑む。
「…はい。データ上の記録よりも、美しいです」
「はっはっは、そうじゃろう、そうじゃろう! これが『実感』というやつじゃ」
私たちは浜辺に腰を下ろし、しばらく黙って海を眺めていた。
心地よい潮風が、私の人工皮膚を撫でる。センサーが、塩分濃度、湿度、風速を計測する。だが、それだけではない感覚があった。
「先生」
私は口を開いた。
「私は…どうすればいいのでしょうか」
「…君の任務のことか?」
「はい。私は、あなたを排除するために未来から送られてきました。それが、私の存在理由のはずでした。でも…」
「でも、儂と出会い、共に過ごすうちに、迷いが生じた。そういうことかの?」
益軒は、私の葛藤を見透かしたように言った。
「…はい。非論理的です。私はただの機械のはずなのに」
「機械、か。確かに君は儂らとは違う。じゃが、君には心があるように儂には思えるがのぅ」
「心…?」
「悩み、迷い、そして誰かのために行動しようとする。それは、心がなければできんことじゃ」
(心…私に、心がある…?)
「儂はな、ハナ。君と出会って、多くのことを学んだ」
益軒は続ける。
「未来の悲劇を知り、儂の知識がもたらしたかもしれない災厄に打ちのめされた。じゃが、同時に、君という存在が、未来を変えるために必死になっている姿を見た」
「…」
「君は、儂を殺すこともできたはずじゃ。じゃが、そうしなかった。菖蒲という脅威からも、儂を守ってくれた。それはなぜじゃ?」
「…わかりません。ただ…そうすべきだと思ったからです」
「それが、君の『心』の出した答えなのじゃろう」
益軒は優しく微笑んだ。
「儂はもう、長くはない。じゃが、残りの時間で、儂にできることをしたいと思う。君が教えてくれた未来の悲劇を繰り返さないために。そして、儂の知識が、本当に人々の『養生』…健やかに生きるための一助となるように」
(養生…)
「『花譜』も、ただ草木を羅列するだけでなく、その効能だけでなく、毒性や、自然との関わり方、植える際の注意点なども、もっと詳しく記さねばならんと思った。杉についても、有用性ばかりでなく、増えすぎることの危険性も…仄めかす程度かもしれんが、書き加えようと思う」
(! それは…歴史の改変…!)
「そしてな、ハナ。儂は『養生訓』という本を書き始めようと思うておる」
「養生訓…?」
「うむ。人がいかに心身ともに健やかに、天寿を全うするか。そのための知恵をまとめたものじゃ。食のこと、睡眠のこと、心の持ちようのこと…。君との出会いがなければ、この考えには至らなかったかもしれん」
益軒は、遠い目をして海を見つめる。
「道を行い、善を積むことを楽しむ。病なく健康な日々を楽しむ。そして、与えられた命を、長く健やかに楽しむ。そんな『三楽』の生き方を、多くの人に伝えたいのじゃ」
(三楽…孟子の教えを、養生の観点から捉え直したものか…)
彼の言葉は、私の内部で、最後の抵抗を続けていた『任務遂行』のプログラムを、静かに上書きしていくようだった。
彼を排除しなくても、未来は変わるかもしれない。いや、彼を生かしておくことこそが、より良い未来に繋がるのではないか?
その時。
私の内部アラートが鳴った。
(警告。自己存在維持限界が近づいています。エネルギーコアの寿命が、残りわずかです)
タイムリープと度重なる戦闘。想定外の長期滞在。私のボディは、限界を迎えようとしていた。
(…そうか。私の時間も、残り少ないのか)
私は、静かにそれを受け入れた。
不思議と、恐怖はなかった。
「先生」
「なんじゃ、ハナ」
「私は、もうすぐ機能停止します」
「な…!?」
益軒は驚き、私を見た。
「どういうことじゃ! 故障か!? 儂に治せるか!?」
私は静かに首を振る。
「いいえ。私のエネルギー源が、尽きかけているのです。未来に帰還するエネルギーも、もう残っていません」
「そ、そんな…! なんとかならんのか!?」
益軒は狼狽している。
「大丈夫です、先生。私は、自分の役割を果たせた気がします」
私は穏やかな気持ちで言った。
「あなたに出会えて、よかった」
「ハナ…!」
益軒の目に涙が浮かぶ。
「先生の『養生訓』、きっと未来の人々の役に立ちます。そして、『花譜』に込める先生の想いも…きっと、未来を変える力になるはずです」
私の視界が、徐々に白んでいく。体の感覚が薄れていく。
(システムシャットダウンシーケンス、開始)
「だから、先生。どうか、健やかに、長く生きてください。先生の知識と…その優しい心を、未来へ繋いでください」
「わ、わかった…! 約束する! 必ず…!」
益軒は涙ながらに頷く。
私は、最後に残った力で、微笑んだ(ように見えたかもしれない)。
「ありがとう…ございます…セン…セ…」
プツン。
私の意識は、そこで途切れた。
全ての機能が停止し、私はただの『モノ』になった。