揺れる心、見えぬ刃
太宰府での襲撃失敗から数週間。私は福岡城下に潜伏し、新たな機会を窺っていた。
貝原益軒と菖蒲は、以前にも増して警戒を強めている。屋敷への潜入は困難であり、外出時も常に複数の供回りを連れているようだ。
(…ターゲットの社会的地位と人脈が、強固な防御壁となっている。直接的な物理攻撃だけでは限界があるか)
私は別の角度からのアプローチを模索した。
益軒の研究内容、特に『花譜』に関する情報を集める。その内容を改竄、あるいは世に出る前に破棄できれば、任務目標を達成できる可能性がある。
情報収集のため、私は夜の城下町を徘徊した。
昼間の活気とは違い、夜は静かで、提灯の明かりが道をぼんやりと照らしている。
ふと、一軒の商家から賑やかな声と、美味そうな匂いが漏れてきた。
障子の隙間から覗くと、数人の男たちが大きな土鍋を囲んでいた。鶏肉、野菜、豆腐…湯気を立てる白いスープ。
(…成分分析。鶏ガラベースの出汁、各種野菜、鶏肉。これは…未来における『水炊き』の原型か。興味深い。しかし、今は…)
鍋を囲む男たちの笑顔。楽しげな会話。
その光景は、私のデータベースに記録されている『家族』や『団欒』といった概念とリンクした。
2050年の荒廃した世界では、失われてしまった光景。
(…ノイズだ。感傷的な情報は任務遂行の妨げになる)
私はその場を離れ、思考を切り替える。
別の路地では、子供たちが数人で集まり、何かを分け合って食べていた。粗末な椀に入った汁物のようだが、その表情は明るい。
(…がめ煮? いや、筑前煮か。鶏肉と根菜の煮物。これもこの地方の代表的な料理。栄養バランスは…悪くない)
子供たちの一人が、私の姿に気づいた。
「あ、見たことない姉ちゃんだ!」
他の子供たちも私を見る。
「ねえ、どこから来たの?」
「お腹すいてる? これ、あげる!」
一人の女の子が、自分の椀を差し出してきた。
「…不要です」
私は反射的に答えてしまった。
子供たちは、きょとんとした顔で私を見つめる。
(…また失敗。自然な対応ができない)
「…ありがとう。でも、大丈夫」
シミュレーションに基づき、できるだけ穏やかな声色で言い直す。そして、わずかに微笑んでみせた。
子供たちは、それでも不思議そうな顔をしていたが、「そっか」と言って、また自分たちの遊びに戻っていった。
(…人間の子供。無垢で、脆弱で、そして…予測不能な行動を取る)
彼らの存在は、私のプログラムにない『何か』を刺激する。
それは、排除すべきターゲットである益軒や、戦闘対象である菖蒲とは全く異なる種類のデータだ。
数日後、私は福岡城への潜入を試みた。藩の記録庫に『花譜』に関する資料、あるいは益軒の研究ノートが存在するかもしれないと考えたからだ。
夜陰に紛れ、城壁を乗り越え、警備の目を掻い潜って城内深くへと侵入する。
(…センサー範囲拡大。警備兵の位置、巡回ルートを把握。記録庫は…あちらか)
記録庫と思われる土蔵に近づいた、その時。
背後から、静かだが鋭い声がかかった。
「そこで何をしている」
振り返ると、そこにいたのは菖蒲だった。
月明かりの下、彼女は静かに薙刀を構えていた。なぜ、こんな場所に?
「…あなたも、何かを探しに?」
私は問い返す。彼女の目的もまた、益軒の知識に関連しているのではないかという疑念があった。
「答える必要はありません。あなたは城内に不法侵入した不審者。捕縛します」
菖蒲は躊躇なく斬りかかってきた。
狭い通路での戦闘。
私はレーザーを使わず、格闘術で応戦する。城内で大きな音や光を出すのは得策ではない。
「相変わらず、人間離れした動き…!」
菖蒲は私の攻撃を捌きながら呟く。
「あなたも、普通の人間ではありませんね」
私も言い返す。彼女の強さは、鍛錬だけでは説明がつかない。
激しい打ち合いの中、私は菖蒲の動きにわずかな違和感を覚えた。
(…動きが以前より直線的? まるで、何かにプログラムされているような…)
その瞬間、菖蒲の攻撃パターンが急に変化した。
予測不能な角度からの薙刀の突き。
「!?」
咄嗟に回避するが、頬を浅く切られた。
(…危なかった。これは…!)
「どうしました? 油断しましたか?」
菖蒲は冷たい笑みを浮かべる。その目は、以前とは明らかに違う、無機質な光を宿していた。
私は距離を取り、センサーで菖蒲を再スキャンする。
(生体反応、変化あり。心拍数、体温、微細な筋肉の動き…異常値。これは…バイオ・ターミネーターの兆候?)
人間の身体をベースに、ナノマシンや遺伝子操作によって強化された戦闘兵器。その存在は、私のデータベースにも記録されていた。でもまだ研究段階のはず。まさか、菖蒲が…?
「あなたの正体…見えてきました」
私が言うと、菖蒲は肩をすくめた。
「あら、気づくのが遅いですね、旧式のアンドロイドさん」
その言葉で、私の疑念は確信に変わった。
「私よりもさらに未来から来た、バイオ・ターミネーター。…! あなたの目的は何です? なぜ益軒のそばに?」
「それは、あなたには関係のないこと。ですが、ヒントをあげましょう。あの老人の脳は、未来を変える力を持っている。それはあなたも知っているはず。私は、その力を『正しい方向』に導こうとしているだけですよ」
正しい方向…それは、彼女自身の、あるいは彼女を送り込んだ勢力の利益のためだろう。
彼女は益軒を守っているのではなく、監視し、利用しようとしているのだ。
「邪魔をするなら、あなたもここで排除します」
菖蒲の殺気が、先ほどとは比較にならないほど膨れ上がる。
「望むところです!」
再び、激しい戦闘が開始された。
今度は互いに遠慮はない。
私は小型レーザーを解禁し、菖蒲も薙刀だけでなく、体術や隠し持っていた針のような武器(おそらく毒針)を繰り出してくる。
ドゴォン! ギャリリッ!
レーザーが石畳を抉り、薙刀が火花を散らす。
夜の福岡城に、破壊音が響く。
「これならどうです!」
私は特殊なカプセルを投げつけた。中には、未来で開発された粘着性のゲル。
「!」
菖蒲はそれを薙刀で弾こうとするが、ゲルは弾け飛び、彼女の足元に広がって動きを封じる。
「こんなもの…!」
菖蒲が強引に足を抜こうとするが、ゲルは強力で、簡単には剥がせない。
(…好機!)
私は最大出力のレーザーをチャージする。
だが、その時。
「何事じゃーっ!!」
城の警備兵たちが、松明を持って駆けつけてきた。
「ちっ…!」
菖蒲が舌打ちする。
私も状況を判断する。警備兵に囲まれれば厄介だ。
(…撤退)
私は再び跳躍し、城壁を越えて闇夜へと消えた。
菖蒲も、警備兵たちが来る前に姿を消したようだ。
(菖蒲…バイオ・ターミネーター。私より未来から来た存在。目的は、益軒の脳の悪用。そして、私の排除…)
事態は、当初の想定より遥かに複雑になっていた。
私は単に過去の学者を抹殺すればいいわけではなかったのだ。
未来からの別の介入者、しかも敵対的な存在がいる。
そして、益軒。彼は、二つの未来勢力の争奪の的となっている。
彼を守るべきか? それとも、当初の予定通り排除すべきか?
(…わからない。私のプログラムには、この状況を判断する基準がない)
胸の奥が、また軋む。
エラーなのか? それとも…これが、思考? 感情?
私は、自分の存在意義そのものが揺らぎ始めているのを感じていた。