筑前の学者と影
松林を抜けると、そこはもう人の営みの気配が満ちていた。
田畑が広がり、簡素な家々が点在している。道行く人々は、鍬を担いだ農夫や、荷を運ぶ商人。皆、私と同じような着物を着ている。
(データベース照合。服装、言語、建築様式…江戸時代中期の筑前国福岡藩の特徴と一致。擬態は完璧)
私は情報収集のため、人の多い街道筋へと進路を取った。
やがて、道は広くなり、家々の数も増えてくる。どうやら博多の町に入ったようだ。
道の両脇には様々な店が軒を連ね、活気のある声が飛び交っている。
「へい、らっしゃい! 活きのいい魚だよ!」
「見てってよ、お嬢ちゃん! 綺麗な櫛だよ!」
呉服屋、魚屋、八百屋、鍛冶屋…。
見たこともない品々、聞いたこともない言葉の響き。データベースには情報として存在するが、実際に五感で体験するのは初めてだ。
(…ノイズが多い。情報過多。だが、ターゲットの位置特定に必要な情報も含まれている可能性あり。継続してスキャン)
私は人々の会話に耳を澄ませ、視覚センサーで周囲の情報を記録していく。
「益軒先生んとこ、また新しい草が入ったらしいぜ」
「へぇ、あの先生は相変わらずだなぁ。薬になるのかね?」
「さあな。だが、先生のおかげでうちの爺さんの咳も治ったんだ。ありがてぇこった」
(…益軒。ビンゴ。地元民からの呼称を確認。評判は…悪くないようだ。だが、それは任務遂行に関係ない)
さらに情報を集めるため、町の中心部へと歩を進める。
ふと、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。匂いの発生源は道端の小さな焚き火。男たちが何かを焼いていた。
(成分分析…イカ。玄界灘で採れた新鮮なイカを肴に昼間から日本酒を飲んでいる)
親父が私に気づき、声をかけてきた。
「お嬢ちゃんも一杯どうだい? 体があったまるよ!」
「…不要です」
感情を込めずに返答すると、親父はきょとんとした顔をした。周囲の客も、いぶかしげな視線を向けてくる。
(…失敗。不自然な対応だった。より自然な対話をシミュレートする必要あり)
私は軽く頭を下げ、その場を立ち去った。
アンドロイドである私にとって、『自然な振る舞い』は最も難しい課題の一つだ。
しばらく歩くと、比較的大きな武家屋敷が立ち並ぶ一角に出た。その中でもひときわ立派な門構えの屋敷がある。門札には『貝原』の文字。
(ターゲットの所在地、特定完了。これより潜入を開始する)
時刻は昼過ぎ。人通りは少ない。塀は高いが、私の身体能力なら容易に乗り越えられる。
周囲の状況をスキャンし、死角を確認。跳躍。
音もなく塀を飛び越え、屋敷の庭に着地した。
庭は広く、手入れが行き届いている。様々な草木が植えられており、中には見たことのない種類のものも多い。
(…これが、後に『花譜』に記される植物か? 興味深いサンプルだが、今はターゲットの排除が優先)
屋敷の中の気配を探る。センサーが複数の生体反応を感知。その中で、最も情報量の多い反応…おそらくこれが貝原益軒本人。書斎らしき部屋にいる。
音を立てずに縁側を移動し、障子の隙間から内部をうかがう。
部屋の中央には、白髪混じりの初老の男が座っていた。年の頃は六十代だろうか。痩身だが、眼光は鋭い。机に向かい、膨大な書物や植物標本に囲まれて、一心不乱に筆を走らせている。
(ターゲット、貝原益軒。バイタルサイン、正常。排除可能)
私は右腕を構えた。掌の内側が開き、小型レーザーの発射口が露出する。エネルギー充填開始。ターゲットの心臓を正確に狙う。致死レベルの出力を設定。
(…3…2…1…発射)
その瞬間。
シュッ!
鋭い風切り音と共に、何かが私のレーザー射線を遮った。
ガキン! という硬質な音。レーザーは弾かれ、あらぬ方向の壁を焦がした。
「!?」
咄嗟に後方へ跳躍する。
目の前に立っていたのは、一人の女。
藍色の道着に袴姿。腰には鞘に収まった薙刀。年は二十代半ばだろうか。凛とした顔立ち、長い黒髪を一つに束ねている。
(…データベースにない人物。だが、この反応速度…尋常ではない)
女は、薙刀の石突(柄の底の部分)で私のレーザーを弾いたのだ。
信じられない反射神経と動体視力。
「何者です? 先生に何の用ですか」
静かだが、有無を言わせぬ強い声音。その目は、私を射抜くように見据えている。
「…ターゲット排除の邪魔をするな」
私は再びレーザーを構える。
「ターゲット…? あなた、何を言っているのですか」
女は眉をひそめる。
「問答は不要。消えろ」
レーザーを発射。今度は回避させない。連射だ。
しかし、女は薙刀を抜き放つと、まるで舞うようにレーザーの軌跡を見切り、全てを刃で弾き返した。
キィン! カン! キィン!
火花が散る。その動きは、人間の限界を超えている。
(…この女、ただ者ではない。アンドロイド…? いや、生体反応は人間。だが、強化されている?)
「その妖しげな術…やはり、ただの賊ではありませんね」
女――菖蒲は、薙刀を構え直し、低い姿勢を取る。
「益軒先生に害をなす者は、この菖蒲が許しません!」
殺気が、ビリビリと肌を刺す。
書斎から益軒が出てきた。何事かと怪訝な顔をしている。
「菖蒲、騒がしいが、どうした?」
「先生! 危ないですから奥へ!」
菖蒲が叫ぶ。
(…ターゲットが接近。好都合)
私は菖蒲を無視し、益軒に向けてレーザーを放つ。
「させません!」
菖蒲が身を挺して益軒の前に立ち、薙刀でレーザーを受け止める。
ガァンッ!!
強い衝撃。菖蒲の体勢がわずかに崩れる。
その隙を見逃さず、私は距離を詰めた。格闘戦に持ち込む。
「くっ…!」
菖蒲は即座に体勢を立て直し、薙刀を振るう。
鋭い刃が空気を切り裂き、私の首筋を狙う。
私は最小限の動きでそれを回避し、掌底を菖蒲の腹部に叩き込む。
「ぐぅっ…!」
菖蒲が呻き、後退する。
(…手応えあり。だが、タフだ)
「お、おい、菖蒲! 大丈夫か! そなた、一体何者じゃ! なぜ儂を狙う!」
益軒が動揺した声で叫ぶ。
「…あなたは、未来に災厄をもたらす存在。よって、排除する」
私は淡々と告げる。
「未来…? 災厄…? 馬鹿なことを! 儂はただ、世のため人のため、知識を探求しておるだけじゃ!」
益軒は信じられないという顔で反論する。
「その知識が、数百年後の人類を滅ぼすのです」
「なっ…!?」
会話をしている間にも、菖蒲が再び襲いかかってくる。
薙刀の連撃。速く、重い。
私はそれを捌きながら、戦況を分析する。
(この女…菖蒲の妨害が想定以上に厄介だ。一度撤退し、体勢を立て直す)
私は煙幕弾を足元に叩きつけた。
ボンッ!
白い煙が瞬時に周囲を覆う。
「待ちなさい!」
菖蒲の声が聞こえるが、私はセンサーで最適な離脱経路を計算し、跳躍。
屋敷の塀を飛び越え、再び博多の町へと姿を消した。
(…ミッション失敗。要因:予期せぬ妨害者の出現。ターゲット:貝原益軒、生存。護衛者:菖蒲、要注意対象としてマーク。再度の襲撃プランを構築する)
冷徹に分析しながら、私は雑踏に紛れていく。
あの女、菖蒲。彼女は何者なのか? なぜ、あれほどの戦闘能力を持っている?
そして、貝原益軒。彼は本当に、ただの学者なのか?
疑問は尽きない。だが、私の任務は変わらない。
必ず、貝原益軒を排除する。
たとえ、どんな邪魔が入ろうとも。