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僕の純文学作品集

お隣との境界に生えた雑草 誰がむしるか問題

作者: Q輔

「おはよう、あなた。ねえ、悪いのだけれど、お庭の草むしりをしてくれないかしら。気付かないうちに、あちらこちらに生えちゃっているのよ」


「おはよう。了解だよ。朝ごはんを食べたら、さっそく始めるね」


 ある冬の休日。僕は、妻に頼まれて自宅の庭で草むしりをしていた。朝からジャージ姿で庭土の上にしゃがみ込み、花壇や通路に生えた雑草を、一人無心でむしり続ける。僕は、こういう地味な単純作業が嫌いではない。仕事も工場のライン作業だし、趣味はジグソーパズルだし、もともとこのたぐいの作業は性に合っているのだろう。ふと気が付くともう昼時だった。


 ただし、自宅の草むしりをしていて悩ましいことがひとつだけある。それは、うちの敷地とお隣の木村さんの敷地の境界に生えた雑草をむしることである。うちが境界沿いに積んだコンクリートブロックとお隣のそれとの間には5センチほどの隙間があって、その隙間の中心あたりが隣地境界にあたる。そこに生えた雑草を抜くのがとても困難なのだ。


 狭い隙間に手を突っ込んで、指先を慎重に動かしながら、雑草をひとつひとつ丁寧にむしっていく。手がブロックに擦れて痛い。まったく難儀だな~もう。


 うちとお隣は、ほぼ同時期にこの分譲住宅を購入した。しかし、どちらの敷地に生えたとも言えないこれらの雑草は、ずっとうちが抜き続けている。木村さんが抜いてくれたことは、一度だってないのだ。どういう了見? 少しは気を遣えよ、ったく。

 

「こんにちは~。お疲れ様で~す」


 やりきれない気持ちで作業を続けていると、お隣に住む木村さんのご主人が、ひょろりとお庭に出て来た。


「木村さん、こんにちは。また無断で草をむしらせてもらっています。この右手、厳密に言えば不法侵入と言えなくもない。いつもうちばかりご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありません」


「なにをおっしゃる水臭い。お隣どうしじゃないですか。私は一向にかまいませんよ。さあ、どうぞ続けて下さい」


 う~む、あからさまな嫌味のつもりで言ったのだけれど……。


「せっかくのお休みに草むしりとは精が出ますね。まったく頭が下がります。そうそう、精が出ると言えば、子作りのほうはどうですか?」


「……いや~、なかなかどうして。こればかりは授かりものなので……」


 うちは子なし夫婦だ。妻と結婚をして5年になるが、神様がなかなか授けて下さらない。木村さんは、事あるごとにうちに子供がいないという話題に触れてくる。僕も妻もいい歳なので、心配をしてくれているのかもしれないが、とてもデリケートな問題なのだ、正直そっとしておいてほしい。


 木村さんは、恐らく僕と同世代で、茶色い長髪を後ろで束ね、丸い黒ぶち眼鏡をかけた、痩せ型の背高のっぽだ。以前どんなお仕事をしているのですかと何気に質問をしたら、何かを外国から輸入したり、何かを企画立案したり、誰かに誰かを紹介したりして日々の生計を立てていると自慢気に話していた。で、結局いったい何屋さんなのだろう。


 洋風ガーデンの木製ベンチに腰掛けると、木村さんは、ジッポで煙草に火をつけ、ポワっと煙を吐いた。吐いた煙のかたまりは、僕の顔面を撫で、やがて大気に散る。雑木のような庭木が、北風に揺れている。


 僕は、木村さんに、大変な恩がある。


 三年ほど前、町内の朝の公園掃除を終えた後、木村さんは、公園のベンチに座って煙草を吸っている僕のところへ近寄って来て――


「私は今、禁煙外来に通いながら、煙草をやめているのです」


――と、聞いてもいないのに、禁煙外来について長々と話し始めた。


 当時の僕は、重度のヘビースモーカーで、いよいよ肺にシクシクと痛みを感じ始めた時期で、ちょうど喫煙の不毛さに嫌気が差し始めていたころでもあって、木村さんの長話を聞いているうちに、ふと、自分も禁煙外来の診察を受けてみようかなと思い立ち、その後、実際に通院し、その結果、見事に煙草をやめることに成功をしたのだった。……あれから三年。僕を禁煙に導いた恩人は、今も美味しそうに煙をくゆらしているのであるがしかし。


 木村さんは、おしゃべりが大好きだ。そう言えば、先日の町内会の公園掃除の後も僕のところへ近寄って来て――


「私は、その昔、大変ヤンチャをしていたのです」


――と、聞いてもいないのに、自分の過去の武勇伝を長々と話し始め、頼んでもいないのに、ご丁寧にスマートフォンに取り込んだ当時のアナログ写真の画像を見せてきた。


 そこには、オレンジ色のリーゼントで、特攻服を着て、改造したバイクに跨った、若き日の木村さんがいた。サーカスの熊が乗るような、珍奇なフォルムのバイクの後部には、日の丸の旗と、星条旗と、ナチスの旗、その他万国の旗が、並んではためいていた。


 ヤンチャをするのは結構だが、もう少し思想とか歴史を勉強してからヤンチャをすることは出来なかったのだろうか。これではまるで秋の大運動会だ。僕は、つい鼻で笑った。しかし、考え方によっては、日の丸と、星条旗と、ナチスの旗を、一緒になびかせてしまうピースフルな感性が木村さんの良い所なのだと言えなくもない。うむ、きっとそうだ。そういうことにしておこう。


 木村さんが、煙草を半分ほど吸い終えた頃、トレイにたくさんの肉や野菜をのせた奥様が、慌ただしくお庭に現われた。木村さんの奥様は、メデューサという、ギリシャ神話に登場する頭髪が無数の毒蛇の怪物のようなヘアースタイルをしている。


「おほほ。せっかくのお休みに草むしりとは精が出ますね。そうそう、精が出ると言えば、お子さんは出来ましたか?」


「……いや~、なかなかどうして。こればかりは授かりものなので……」


 揃ってデリカシーというものが見事に欠落している木村夫妻は共働きで、奥様は誰かを占ったり、誰かをカウンセリングしたり、それに伴うアクセサリーや食料品を販売する仕事をされているとのこと。


 最後に、奥様の背後から、中学生の娘さんが物静かにお庭に出てきた。彼女は今、いじめが原因で不登校らしい。娘さんは境界に生えた草を難儀しながらむしり続ける僕をしばらく黙って観察していたが、おもむろにある一点を指差し――


「……おじさん。そこ……」


「え?」


「そこ、草、取り残し。作業が雑」


 きいいいいい。


 三人で少し早めのランチといったところか、これ見よがしに楽しそうに雑談をしながら、ガーデンバーベキューの準備を始めた。嘘でしょう、するかね、この寒空の下。


「妻が、知人からとても良いお肉を頂きましてね。せっかくなので、炭火でと思いまして」


……うんうん、だから、聞いてないってば。ある意味で威圧的とも感じられる木村家の家族団らんを横目に、僕は、境界に生えた雑草をむしり続けるのだった。



――――



一年後。ある冬の休日。


 リビングの電動シャッターがゆっくりと巻き上がると、庭一面に薄っすらと粉雪が積もっていた。天から放たれた光の矢が、雪に跳ね返って乱反射をする。そのうちの数本が寝ぼけまなこに向かって飛んでくるので、さっと右手で払い除ける。窓を開ける。真冬の寒気が皮膚をぎゅっと掴む。大きく口を開けて、光を深く吸い込むような、吐き出すような、そんなあくびをひとつ。


 昨年、僕たち夫婦に大事件が起きた。もう無理かもしれないと半ばあきらめていた赤ちゃんを授かったのだ。今月はじめに無事出産。元気な男の子だ。


 この連休は、赤ちゃんの初顔見せを兼ねて僕の実家に泊まりに行く。早朝からその準備に追われていた妻は、どうやらやっとひと段落したようで、ユニットバスでシャワーを浴びている。テーブルの上に、産後の妻のために僕がプレゼントしたゆったりめのワンピースが準備してある。お乳をたらふく飲んだ息子が、両手をバンザイしたまま、ベビーベッドで眠っている。


 ♪♪♪。インターホンが鳴った。誰だろう、こんな朝っぱらに。


 機能門柱のカメラで敷地の前面道路を見る。木村さん夫婦だ。玄関扉を開けると、門柱の前に二人が立っている。


「これはこれは、木村さん、おはようございます。今朝は何か?」


「あの~、この頃、お宅の家から動物の鳴き声が聞こえます。ペットでも飼われたのですか?」


 ご主人が、聞き耳を立てる仕草をしながら言った。


「ああ、その声はペットではありません。それはうちの子供の泣き声です。うちの子供をペット呼ばわりするのはやめて下さい」


「ほら~、やっぱり。それっぽかったし。だと思った。ふ~ん、赤ちゃん、出来たんだあ」


 メデューサという、ギリシャ神話に出てくる頭髪が無数の毒蛇の怪物のようなヘアースタイルをしている奥様が、そのうちの一匹の蛇をあやすように、枝毛をもじもじ触りながら、呟いた。


「赤ん坊の泣き声など、これからも何かとご迷惑をお掛けするとは思いますが、よろしくお願いします。では、今朝は忙しいので、これにて失礼致します」


 僕は、扉を閉めかける。


「いや、ちょっと、あの、違うのです。実は、今朝は、最後のご挨拶に伺ったのです」


 ご主人が、慌てて僕を呼び止める。


「最後の挨拶?」


「私たち、明日、あの家を売り払って、出て行くのです」


「はあ?」


「私たち、離婚することになりました」


「ええ! おおお、驚いたな。お見受けする限り、とても仲が良さそうでしたので」


「いや、まあ、もともとこの結婚は、お互いのビジネスを円滑に運営するために、やむを得ずというか、要するにビジネス婚でしたから。ほら、私たちの世代って、三十を越えて未婚だと、眉をひそめられ、四十を超えて未婚だと、人格に問題があるのではないか、と疑われた世代じゃないですか」


 あなたの偏見だらけの世代観に、僕を巻き込まないで頂きたい。


「成功者イコール既婚。既婚イコール家庭円満。家庭円満イコール成功者。って感じだったじゃないですか」


 何を言っているのか、さっぱり分らない。そして、相変わらず、聞いてもいないのに、よく喋る男だ。


「ほらあ、アタシなんか、占いとか、カウンセリングとかしているじゃない? 人を幸せに導く立場の者が、未婚だなんて、アタシ、論理破綻してしまうじゃない? だから、しぶしぶ結婚したんだけどさ」


 ご主人の横で枝毛をいじっていた奥様が、話に割り込んできた。


「でも、もう、夫婦なんてそんな旧態依然とした制度に縛られる時代じゃなくない? 潮時って感じ? バツイチは、すっかり市民権を得ているみたいだし」


「あの~、差し出がましい質問ですが、中学生のお子様は、どうなさるのですか?」


「問題はそこなのですよ。私も、こいつも、子供を引き取る気は無く、現在揉めているのです。まあ、最終的には、施設にぶち込むしかないのかなと」


「ほらあ、アタシたちの世代って、子供の一人や二人いないと、世間体が悪かったから。子無し夫婦って、差別されたから。あの子を産んだ理由なんて、ただそれだけよ」

 

 へえ、メデューサ、子供がいない夫婦を、そんな風に思っていたのね。


「お言葉ですが、お二人共、自分の家族をそうやってこき下ろすのは、どうかと思いますよ。ビジネス婚とはいえ、心の底から嫌いな相手とは、結婚なんてしないでしょう? 大前提として、好きだから結婚した、好きな相手の子供だからお腹を痛めて産んだ、そうでしょう? そりゃあ、離婚を決断するに至るまでの時期は、お辛かったと思います。お察しします。でも、だからと言って、これまでの、家族との幸せだった時間や、楽しかった思い出、それらすべてを、離婚と同時に全否定するのは、絶対に良くないですよ」


 この時、僕の話を聞き終えたご主人の目つきが、豹変した。その目は、いつだったか、彼のスマートフォンの画像で見た、特攻服を着て、改造したバイクに跨った、若き日のご主人の目だった。


「ああん、こら、てめえ、さっからガタガタうるせんだよ。てめえってやつは、本当におめでたい野郎だな。あのよ~、金があって、家があって、安定した生活があれば、家族はハッピーだと思っているのか。あん? 本気でそう思っているのか。この閑静な住宅街に建つ一軒家の、暖かな灯りに満ちたその家の中で、毎日毎晩、地獄のような時間を過ごしている家族がどれだけいるのか、てめえには、これっぽっちも想像が出来ないか」


「馬鹿! クズ! カス! 子供のいないあんたらの隣で、子供のいる幸せな家庭を見せつけてやる、それだけが、アタシたちの唯一の楽しみだったのにさ。いつもいけすかない、あんたの女房、一人前にガキなんか産みやがって。もうここで、家族ごっこする楽しみが無くなったじゃないのさ。ちくしょう! くそったれ!」


 木村さんのご夫婦は、出会ったころから、二人揃って情緒不安定なところがあった。だから、とてもお似合いの夫婦だと思っていたのに、離婚をするなんて、実に残念だ。


「……あちゃ~、またやってしまった~。誠に申しわけありません、少々取り乱しました」


 徐々に落ち着きを取り戻し始めた元暴走族が深々と頭を下げ、横で不貞腐れているメデューサにも謝罪を促す。


「はいはい、ど~もスミマセン。大変お世話になりました。さよ~なら」


 メデューサは、しぶしぶ頭を下げた。ワサワサと鎌首をもたげた毒蛇たちが、僕を一斉に威嚇している、一瞬そんな気がした。


 そして、去り際に、元暴走族は、うちの門柱を、僕の見ている前で、突然思い切り蹴飛ばし、こちらを見てヘラヘラと笑った。「何故そのようなことをするのですか?」と尋ねても、ヘラヘラと笑っているばかり。はいはい、了解です、そういうことね。僕は、最後の最後に、いろいろな意味で、木村さんを心底理解した気がした。


「ねえ、どうしたの? 誰かいらしたの?」


 室内に戻ると、シャワーを浴び終わった妻が、リビングのカーテンを閉めてワンピースを着ているところだった。


「カンダタが二人、挨拶に来たよ」


「カンダタ? 芥川龍之介の?」


御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいました――自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちて――」


「はあ? どういうこと?」


 僕は、小説『蜘蛛の糸』の一節をぶつぶつと呟きながら、妻のワンピースの背中のチャックを上げてやる。僕たちの話し声に目を覚ました息子が、新生児特有の、聞くと胸が切なくなるような、心を鷲掴みにされているような、やや低音で弱くうめくような声で泣いている。



――――



 後日談。木村さんが売却をした住宅の玄関先には、すみやかに売り物件の看板が設置され、半年後には買い手が決まった。購入者は、僕たちよりひと回りも年下の若い夫婦で、加藤さんと言った。


 ある冬の休日。久しぶりに草むしりでもするかと庭に出ると、加藤さんのご主人が、境界に生えた雑草に、液状の除草剤を豪快に噴霧していた。おいおい、勢いが強すぎてうちの花壇の植栽に容赦なく降りかかっているじゃないの。て言うか、除草剤を撒くなら撒くで、うちにひと言あってもいいのに。はてさて、この新しいお隣さんと、うちは上手くやって行けるのだろうか。


 鼻歌を歌いながら除草剤を噴霧し、僕と目が合っても悪びれる様子もなく、それどころかこちらが挨拶をしても返事もしない。そんな加藤さんを見ていたら、なんだかもう怒りを通り越して笑えてきた。もしかすると、以前お隣に住んでいた木村さんの目には、僕はこんなふうに映っていたのかもしれない。ふと、そう思ったのだ。いや、僕はここまで常識のない人間ではないと思うけれど、でもその常識の物差しはあくまで僕の主観であって、他人の物差しで測れば、僕が非常識な人間でないとは何とも言い切れないのであって。うふふふ。


 よくよく考えれば、ご近所付き合いに限らず、社会生活をしていると「この人物と分かり合うことは、未来永劫不可能だ」と思える相手が少なくない。でも、その現実を、お互いが十分理解し合っていれば、どんな相手とでも、共存の糸口は見出せるのではないだろうか。


 絶対に分かり合えないことを、分かり合う。


 ひょっとしたら、これはご近所付き合いに限らず、家庭、学校、職場、SNS、はたまた他国とのお付き合いに至るまで、全ての人間関係に通じる、共存の糸口ではないかと考えたりもするけど。

 


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[良い点]  近隣の住民に変わった人がいる、または気が合わない人がいるというのは住んでみないとわからないし、実際そうだったりすると大変ですね。とても考えさせられるお話でした。 [気になる点]  しかし…
[良い点] お隣との境にあるのは、お互いに見えない馬鹿の壁かもしれませんね。 見せびらかすために子を作るとは、なかなかのヤンキーっぷり。 [気になる点] 子どもの頃「風鈴の音がうるさい」と書かれた紙…
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