達磨さん、ごろん、ごろん、ごろ……ごろんっ!!
夜中に目が覚めた。
おしっこがしたかった。
僕はベッドから抜け出る。
部屋の空気が冷たい。
大晦日、いや、もう1月1日になっているのだろうか。
眠くて時計を確認する気もしない。眠気と闘いながら部屋を出る。あいにくトイレは1階にしかない。僕はペタペタと廊下を歩き、階段を降りる。
ゴトン!
最後の段を降りた時、後ろで大きな音がした。
振り返るとなにか大きく赤い物が2階の廊下にあった。
「……?」
それは暫く不安定にゆらゆらと揺れていたが突然バランスを崩して階段を転がり始めた。
ごろん ごろん ごろん
それは、でかい達磨だった。赤い達磨がごろごろと僕に向かって転がってくる。視界が真っ赤に染まる。
ぐしゃっ!
「うわぁ―――」
目が覚めた。
ベッドの上だった。夢だったようだ。
おしっこがすごくしたかった。
夢見の悪さに気が進まなかったが、やることをやらないわけに行かない。
僕はノロノロとベッドから出た。
ドアから顔を出し、廊下の左右を確認する。さらに上も見る。
当然、達磨なんていない。とりあえず廊下に出て、階段を駆け降りる。
トイレの前に無事到着して、ようやく胸を撫で下ろした。
ドアを開けるとまた、ドアがあった。
「?……」
首をかしげた。
ドアではない。壁だ。
トイレのドアを開けると一面赤い壁が目の前に広がっている。そんなシュールな光景に頭がついてこない。
ぐるん
突然、壁が回転する。忍者屋敷の回転する壁か!
達磨の顔が現れた。
巨大な達磨さんの怒ったような顔。
ぐらり、と達磨が僕に向かって倒れてきた。
「ちょ、ちょっと、待って! 待っ……」
ぐちゃっ!!
「って!」
気づくと上半身起こした状態でベッドの上にいた。
「夢……なのか」
僕は額に滲む冷や汗を拭いながら呻いた。そして、トイレに行きたいと思った。控えめに言って破裂しそうだった。だけど、どうしてもトイレに行く気になれなかった。
「どうしょう……」
ベランダから用を足すことにした。
非常事態なのだから仕方ない。
「ふう」
自宅の庭に雨を降らせた後、弛んだ膀胱に安堵の吐息をつく。
ついでにベランダでタバコを吸う。
空気が冷たい。
白い息を吐き出しながら、空を見上げる。
ちょうど真上に月が浮かんでいた。冴えた夜空に浮かぶ月は綺麗だった。
「うん?」
チーズケーキのような月の表面に小さな黒い点が見えた。
目を凝らして見る。
月の表面のクレーターが作る影ではない。
それは、少しずつ大きくなっているように見えた。いや、間違いなく大きくなっている。
いや、いや、いや。大きくなっているのではない、落ちてきているのだ。
そしてそれは黒くない。
赤い。
なにか赤い物が落ちてくる。
それも僕に向かって、だ!
感覚が恐怖でスローモーションモードに切り替わる。それはゆっくり回転している。
ゆっくり、ゆっくり、回っている。やがて達磨の顔が現れた。きりりと眉を上げ、歯を食い縛った憤怒の表情。
一体全体、僕は達磨になにかしたっけ?
怒らせること、なにかしたっけ?
ドガッ!!!
巨大な達磨が僕を巻き込みながらベランダを突き破った。
ゴン!
ペチャッ
地面と達磨に挟まれて、僕は熟れたトマトのように内臓を庭に撒き散らした。
気づくと汗びっしょりで床に転げ落ちていた。
「…………夢」
吐きそうだった。眠気なんてもうありはしない。
時計へ目を向ける。
3時少し前だった。真夜中だけど、新年だ。
「なんて初夢だよ」
僕は呟く。掠れた声は自分のものとは思えなかった。
しばらくじっとして今の状況をじっくりと考えた。まだ、夢を見ているのかと思ったが今度は本当に目が覚めているようだった。
体を起こし部屋を見回す。部屋の隅、暗がり
死角になりそうなところに達磨がいないか、真剣に調べる。
幸いなことに達磨はいなかったが、結局、それから一睡も出来なかった。
睡眠不足で回らない頭で新春のおめでたい番組を見ていると電話が鳴った。
「ねぇ、今どこよ?」
出たとたん女の不機嫌そうな声が耳を貫いた。
彼女からだった。
「一緒に初詣に行く予定だったでしょう。
なのに待っててもちっとも来ないってどういうことよ?」
そう言えばそんな約束をしていたのをすっかり忘れていた。いや、でもなんというかだるくて行きたくはない、と言うのが本音だった。
「ああ、ごめん。なんか昨日の夜から調子が悪くてさ。今日は止めない?」
「……そう。いいわ。分かった。
私たち、別れましょう」
「う、うぉい!」
続く言葉に、僕は驚いた。
「ちょっと待ってよ。たかが、初詣に行かないだけで別れるとか話が飛躍しすぎだろう」
「初春よ。新春よ。
一年の計は元旦にあるのよ。
恋人がそんな重要な時に一緒に居て、同じお願いをしないなんてどうなの?
あなたは、そんなこと許しちゃう人な訳?
あいにく、私はそんなの許せない人なの。
こんなに価値観が異なるとなると長続きするとは思えない。なら早いうちに別れた方が双方のためだと思うのだけど、どうかしら?」
「いや、どうかしら? と言われても……
ああ、はい、分かりました。今行くよ。だから、ちょっと待っていてくれ」
とりあえず手早く支度を整えると、彼女との待ち合わせ場所へ急いだ。その後、彼女に連れられ1時間電車に揺られて目的の駅に着いた。
降りた先の丁字路。看板が出ていた。
『左 竹天神社』← →『右 招福寺』
「『てんちくじんじゃ』……『しょうふくじ』……?」
「神社の方は竹天と書いて『笑い』って読ませるみたい。『わらいじんじゃ』」
看板の下にあったチラシを取り上げると彼女は言った。手渡されたチラシを流し読みすると確かにそんなような事が書かれている。
「ここなら、お寺でも神社でも好きな方に行けてお徳でしょ。
で、どっちに行く?」
彼女の言葉がまるで頭に入ってこなかった。
その時の僕の目はチラシの写真、巨大な達磨の写真、に貼り付いたまま離れなくなっていたからだ。
チラシには高さ3メートルぐらいありそうな巨大な達磨の写真が写っていた。
招福寺の説明文だ。お寺のシンボルで人気のパワースポットだと書かれていた。
いや、パワースポットのわけあるか!
「じ、神社にしよう。達磨はまずい。達磨は絶対にダメなんだ」
「は?」
怪訝そうに首をかしげる彼女の手を取ると有無を言わせず左を選んだ。
長い階段を登りきると鳥居が見えた。
鳥居の社名などが書かれているところ、扁額と言うらしいが、には社名ではなく天狗の面がついていた。
「天狗の面って珍しいわね」
チラシの説明文を読むと、もともとはこの山で悪さをしていた天狗を奉っていると書かれていた。
「御神体が天狗らしいよ」
「ふ~ん、だからあんな大きな天狗の頭があるのね」
彼女が指さす方向を見るとでかい天狗の顔が本殿の横にでんと鎮座していた。
「すごい迫力だ」
天狗を見上げる。3メートルはありそうだ。突き出た鼻の圧が半端ない。
その時。突然地面が揺れだした。
地震だ。それも大きい!
「うわっ」
バランスを崩して尻餅をつく。
ぐらぐらとたっぷり1分は揺れたろうか。ようやくおさまった。
「大丈夫?」
落ち着いたところで彼女の無事を確認する。
「だ、大丈夫よ」
少し離れたところで彼女もしゃがんでいたが怪我はないようだ。
良かった、と言おうとした時、背後に不穏な気配を感じた。
はっとなって振り返る。
天狗の像がぐらぐらと揺れている。
ごろ……
そして、僕に向かって転がってきた!
「うわぁ!」
潰される。衝撃と続く激痛を覚悟し、目を閉じる。
が、なにも起きない。
一向に訪れない最後の瞬間に恐る恐る目を開いた。
天狗の鼻がつっかい棒になって止まっていた。
「おおう。天狗で助かった」
僕は思わず、呟いた。これが達磨だったら、つまり、お寺の方へ行っていたら死んでいた。
自分の選択の正しさを誉めてやりたかった。
めりっ
嫌な音がした。
なにか割れる音。天狗の鼻の根本にピシピシッと割れ目が走るのが見えた。
ぼきん!
天狗の自慢の鼻がへし折れた。
鼻を失くした天狗再び動き出す。
ごろん
巨大な達磨が怒ったように空を見上げていた。その達磨の端から人の手が覗いている。
風がその手が握っていたチラシを雲一つない新春の青空へ舞い上げる。
チラシにはこう書かれていた。
『昔、この山に天狗が住んでいて、近隣の村に悪さをしていた。ある時、旅の僧が天狗と問答をして、これを打ち破った。
それ以降、山は僧侶が開いた寺と天狗を奉った神社で管理するようになった。
寺と神社の本殿は実は一つの建物の壁一つで隔てられた、全国でも珍しい造りになっている。
本殿の横に置かれた高さ3メートルの像は神社側の半面は天狗、お寺側半面は達磨になっていて……』
2023/01/01 初稿