花咲く話の種を探して、私は今日も言の葉を「はなつ」
この国では、人の口から発せられる“意味ある音”を、植物になぞらえる。
言“葉”。話の“種”。話の“接ぎ穂”。話に“花が咲く”。
昔の人たちは、何を想って、この名付けをしたのだろう。
人の口から放たれた“言”が、視えざる葉になって空に繁り、他の人のそれと重なり合って、花を咲かせる――そんな空想でも、視ていたのだろうか。
私も時折、そんな妄想に浸る。
私の唇から零れた葉っぱが、蔓を伸ばし、さらなる葉を繁らせ、花束のように、たくさんの花を咲かせる――そんな幻を、夢見る。
実を言うと、おしゃべりは少し苦手だ。
自分の言葉に、自信が持てない。
私には、皆を笑わせるような面白い話はできない。気の利いた話題は出せない。
いつも、皆の輪の中で、誰かに話を振られるのを待っている。
話が振られない時は、ただ、その場にいるだけ。
皆が話に花を咲かせるのを、そばで黙って聞いているだけ。
いてもいなくても変わらない存在。
空気のようだと、自分でも思っていた。
おしゃべりって、不思議だ。
雑談、駄弁り、無駄話……。
雑だとか、駄だとか――まるで、くだらなくて、取るに足りないもののようなイメージが、おしゃべりにはつきまとう。
だけど、無駄なものでも、駄目なものでもない。
雑然と、とりとめがないのは、よくあることかも知れないけれど……それでも、日常の中で、絶対に欠かせないものだ。
会話があるから、居場所が生まれる。
ほんの少しの会話でも……話の輪に入れたなら、そこにいても良いと思える。
……あまりにも不可欠なもの過ぎて、時々キツく感じることもある。
話の種には、盛り上がるものもあれば、盛り上がらないものもある。
言の葉がどこまでも続いて、話に花咲くものもあれば、ほんの一つ二つの言の葉で途切れてしまうものもある。
話の種には、他人に喜ばれるものもあれば、喜ばれないものもある。
相手にとって不愉快な話題、不都合な話題は、沈黙を生み、その場を気まずい空気に包む。
私は、話の種を探すのが下手だ。
いつも、何を喋ったら良いのか、分からない。
やっと見つけられた話の種も、タイミングを逃してしまったり、「その話題で良いのか」自信が持てなかったりして、なかなか口に出せない。言の葉として、芽吹かせられない。
私以外の言の葉が、どんどん繁り広がる中で、何とか必死についていくだけだった。
コミュニケーション能力のあまりの無さに、将来に不安を覚えるほどだった。
口下手は、それほど珍しい悩みではないらしい。
ニュースアプリを見ていれば、会話術や雑談力についての記事は、定期的に流れてくる。
ハウツー本もたくさん出ているようで、図書館でも何冊か見つけた。
話すのが苦手なら“聞き上手”になれば良い――そんなアドバイスも見かけた。
聞き役なら、向いていないこともないと、その時はほんのり希望を抱いたりもした。
相手の話を否定しない、自分のことばかり話さない等、教えられる前から自然とできていたことも、たくさんある。
だけどすぐに、それだけでは“足りない”ことに気づく。
聞くだけなら、今までもできていた。
聞き上手と言っても、自分からは一言も発しないのでは、結局これまでと同じことだ。
会話の中心とまでは行かなくても、私はもっと、皆と近くなりたい。
話の輪の端で必死に相槌を打つだけでなく、私も皆の中で、話の花を咲かせたいのだ。
花の咲きやすい話の種は“皆が興味のあること”。
逆に言の葉ひとつ生えづらいのは“皆が興味のないこと”“よく知らない話題”――。
それくらいは、私にも分かっている。
だけどそもそも、そこからして難しい。
私が興味を持っていることでも、皆が興味を持つわけではない。
逆に、皆が興味を持っていることについて、私は全然知らないこともある。
本当はほとんど知らなくて、興味も無い話題に、無理矢理混ざろうとするのは、リスクが高い。
うわべだけの知識で口を出しても、深く突っ込まれれば、もう何も喋れなくなる。
にわか知識はボロが出る。
皆が興味あるだろうと思って、頑張ってひねり出した話題が、実は全然そうでもなくて、微妙な空気を生んでしまったことは、一度や二度ではない。
頑張って会話を生もうとしても、上手く会話になってくれるとは限らない。
失敗するたび、余計に自信がなくなる。
喋ることが、億劫になる。
おしゃべりって、こんなに苦労してまでする価値があるのだろうか――そんな風に思ったことも、一度や二度ではない。
普段の他愛ない会話は、悩みの相談や大事な連絡とは、まるで違う。
驚くほどに中身が薄かったり、内容が無かったりすることも、よくある。
楽しいことや、嫌なこと。面白いことや、綺麗なもの。しんどいことや、面倒くさいこと。暑さや寒さや、その時々の状況を、ただ確認し合って、共感し合って……それで、おしまい。
植物と同じで、どんなに花開いても、やがては散って消えてしまう。
きっと数日後には、喋った本人たちでさえ、話の内容を忘れている――そんな、一時だけの、刹那的なもの。
だけど、中身が無いからくだらないとか、忘れてしまうから意味が無いとか……きっと、そういうものではないのだ。
ひとつひとつの言の葉は忘れてしまっても、そこで話に花が咲いたという事実は、何となく覚えている。
脳裏に刻まれるのは、きっと話の中身より、そこに咲いた話の花の、花束のように楽しげな“印象”の方だ。
一緒にいて、話をして、楽しかった――そんな他愛ない記憶が、積み重なって“思い出”を作る。
はっきりした形さえ失くして、曖昧でぼやけた“イメージ”しか残らなくても……きっとそれが、その人を思い出す時の記憶の基礎だ。
体育祭だとか、修学旅行だとか、特別なインパクトのある行事だけが思い出ではない。
だからこそ、私は会話が上手くなりたいのだ。
皆の記憶の中の“私”が、“楽しい友人”として、ちゃんと残っていられるように。
どんな人間だったのかも思い出せない――それでは、やはり寂しいから。
元から苦も無く話ができる人には、こんな切実な想いは分からないのだろうな、と思う。
残酷な話だが、会話の上手い下手は、確実にある。
会話の輪の中で観察していれば、分かる。
言葉に詰まる様子も無く、呼吸をするようにぽんぽん言葉が出て来る人もいれば、何か言いかけて、結局やめてしまう人もいる。
タイミングが悪く、会話の出だしが、ちょくちょく他の誰かとバッティングしてしまう人もいる。
私と同じで、せっかく出した話題が、全く広がっていかない人もいる。
口下手は、それほど珍しい悩みではないらしい。
よくよく見渡せば、身近な所にも、ちらほらいるのに気づく。
私自身もそうだから、口数が少ないからと言って、その人に悪い印象を持ったりはしない。
むしろ、そういう人が他にもいてくれると、安心する。
だけど、口下手同士が二人きりになってしまうと、会話が生まれなくて、少し気まずい。
タイプが似ている分、きっと相手も困っているだろうと、簡単に想像ができてしまう。だから、余計に居たたまれない。
そんな時に、思う。
やはり、聞くだけでは駄目だ。受け身なばかりでは駄目だ……と。
天気の話は、話の種として万能だと、前に何かで読んだことがある。
確かに「いい天気だね」「雨が降りそうだね」くらいの一言は、私にも言えそうだ。
誰かを傷つける心配も無ければ、不快にさせる恐れも無い。
だが、上手く接ぎ穂を見つけられなければ、二言三言で会話が終了してしまう。
次の授業のことや、目についた文房具など――その場その場にあるものを、話の種にしていくという手段もある。
だけど、頭の回転が良くないと、上手く言葉に変えられないし、同じモノをそう何度も話の種にはできない。
同じことの繰り返しばかりの日常では、すぐに種切れを起こしてしまう。
長い間、話の種を探して悩んでばかりだった。
それは、今もあまり変わらない。
だが、ある時、ふと気がついた。
話の種は、周りの言の葉から落ちて来ることもあるのだ、と。
偶然拾った話の種を、後に、時間差で使うこともできるのだ、と。
たとえば、ある子が「今度の日曜、いとこの家に遊びに行く」と言う。
そうしたら、その次の週、その話題を出して「どうだった?」と訊けば良いのだ。
その子のいとこの話に絡めるように、自分のいとこの話を出せば良いのだ。
初めは、ほんの無意識だった。
せっかく拾った話の種だから、使ってみようという程度の……。
だが、それは私にしては珍しく、驚くほどに言の葉が広がっていった。
喜ぶよりも、不思議に思いながら、相手の表情を見て、気づいた。
聞くだけではなく、“訊く”と良いのだ、と。
質問すれば、答えが返ってくる。言の葉が繋がる。
そして、良い質問なら、相手は喜んで答えてくれる。どんどん話を広げてくれる。
何となく、光明が見えた気がした。
だけど、それで全てが解決したわけではない。
質問なら、何でも良いというわけにはいかない。
話の種と一緒で、相手の気に障る質問は、会話どころか人間関係を駄目にしかねない。
訊くためには、聞く必要がある。
相手が何を話したがっているか、何に興味を持っているのか、注意深く聞けば良い。
話の種は、相手の言の葉の中に潜んでいる。
耳を澄ませて、それを拾い集め、いつか使えるよう、心の隅にしまっておく。
そうして話の種を集めながら、ふと気づく。
この作業は、そのまま、相手を知ることに繋がっている。
話の種を集めているつもりで、気づけば、その人の情報を集めている。
話をしたいと思えば思うほど、知らず知らずのうちに、相手のことを知っていく。
もしかしたら、逆に、相手を知りたいと思うことこそが、会話のコツなのかも知れない。
相手の言の葉を聞いて、訊いて、話の穂を接いでいく。
相手の好まない言の葉は、上手く繋がってくれない。
話の途中で、全く違う言の葉を急に挿し込んでも、上手く枝葉が絡まない。
今、この場に広がる言の葉を見極めて、似通った言の葉を選んでいく。
自分の言の葉一種類だけでは、大きな束には育たない。
周りの言の葉と繋いで、絡めて、大きくして……そうして、気づけば花が咲く。
たぶん、これまでの私は「何か話さなければ」「会話を続けなければ」と、そればかりに必死で、会話を楽しめていなかった。
会話を通して、皆を知ろうと思っていなかった。
こんなに余裕の無い心で、言の葉を、会話の花を、上手く育てられるわけなどない。
古の歌人は言っていた。
人の“心”を種として生まれた万の言の葉が、和歌になるのだ、と。
私は和歌など詠んだことはない。
けれど、人の心を種として言の葉が生まれる――そのフレーズは、現代の私にも通じそうだと思って、何気なく胸に刻んでいた。
話の種をどれだけ集めても、結局最後は、私の心次第。
唇を開く勇気が出せるか否か、だ。
慎重で、不安がりで、迷ってばかりのこの心を、そう簡単には変えられない。
だけど、変わっていけないわけでもない。
これまでにも、少しずつ、少しずつ……学んで、気づいて、聞いて、訊いて……変わって来られたのだから。
私の心を種として、言の葉が芽吹く。
この唇から放たれ、枝葉を伸ばし、他の人の言の葉と絡まり合う。
大きく育ったそれに、やがて花が咲く。
たとえ、一時だけの、すぐに散ってしまう花だとしても、私はその花が欲しい。
私の心の種から、花が育ってくれたら、嬉しい。
だから、私は言の葉を放つ。言葉を話す。やがて、花つけるための言の葉を。
手探りで、迷いながらでも。
今日もまた、他愛なく、とりとめがなく、特に意味を持たない言葉から始める。
ありふれていても、芸が無くても、まずは、次の言の葉へと繋がる、最初の一葉を。
「おはよう。今日、――――だね」
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