第10話
わたしの帰宅に際し、母は妙に明るい猫なで声で「おかえり」を言って席を立つ。
おかずを温め直すためだ。
テニススクールからの帰宅であると、これが「もう少しでご飯だから」という台詞になる。
わたしは自室で鞄をおろし、室内着に着替えた。
「よし」と声を出して自分に言い聞かせ、扉を開けて両親の待つ食卓へと向かう。
席に着いたわたしは唾を飲み、自分が顔面蒼白になっていくのを感じた。
それでも「いただきます」と言い、箸で大皿から自分の小皿へと中華料理を移す。
中華を食べるときにわたしがいつも思い出したのは、以前、テレビで放映していた「中国皇帝の食事」という特集だった。
それによると、昔の中国では、たった一人の皇帝のため大テーブル一杯に食事が並べられたそうだ。
皇帝が気の済むまで食べ、余りは使用人などの食事になっていたらしい。
そこから考えると、わたしのこの家での立場は皇帝兼使用人といったところだろう。
いま、目の前に並ぶこの量の食事を自分一人で食べつくさなければならない。
ご飯も二回以上のお代わりが義務だ。
「多すぎる」などと言おうものなら、母はまるで自殺未遂を図った人に話しかけるような、悲哀と煩悶の表情で、「なにかあったの?」とか「もっと食べれるでしょ?」とか「痩せてるのに」と圧力をかけてくる。
この執拗に諫言する面倒な側近の前では、あらゆる説得が無力と化してしまう。
小学生のカロリー摂取量目安を示すという方法から晩御飯を少なくすると健康に良いという説の紹介まで試したが、なにもかも無意味だった。
一度だけ、母を全く無視してご飯を残し、部屋に帰ってみると、母は怒り狂って泣き喚き、わたしを呼び出して「裏切った」だの「教育に失敗した」だのと叫んでいた。
それはわたしにとって時間の無駄どころか、最も不快な時間の過ごし方であり、母の不機嫌の持続時間を考えれば、ご飯を敢えて残すという方法はなおさら採れない選択肢になってしまった。
しかし、大食い選手権のようにただ黙々と食べればよいだけならばまだましだったようにわたしは思う。
食卓において、わたしにはもう一つの役割が課せられていた。
それは、良質な話題の提供である。
母も父も、「テニスは楽しい?」とわたしによく訊いてきた。
そんなとき、借金取りが債務者を苛めるときのような笑顔の前で、わたしは健全で快活で素直な少年を演じなければならなかった。
もてはやされる中で清廉な威厳と面子を保つのは皇帝の仕事であり、相手の心中を読んで機嫌をとるのは使用人の仕事である。
そう考えると、わたしは双方を兼務していたと言えるだろう。
練習の様子やコーチによる助言の一つ一つ、テニススクールで交わされる友人との爽やかな会話、試合に勝利した快感と敗北したときに感じる悔しさ、そこから生まれる努力への熱情と上達への渇望。
わたしはそれらを饒舌に語った。




