母の看取り 娘 聡美
「あの母親は、きっと娘のいない時に亡くなるでしょうね…」
黒咲愛来の口から言い放たれた言葉には、どこか悲しみを帯びている。愛来は神宮寺病院療養病棟の看護師だ。きれいな黒髪のロングストレート。仕事の時は髪をまとめているが、今は勤務中ではないため髪を下ろしている。愛来は誰にも目線を合わせず話をしたため、独り言のようにも思えたが、同じく看護師の姫宮鈴乃が応えた。
「どうしてそう思うの?」
やや黄色味がかったツインテールの長い髪を触っていた愛くるしい顔立ちの鈴乃に目線をやり、愛来が答える。
「娘が母親べったりだからね。ほっと気が抜けた、娘のいないときに息が続かなくなるんじゃないかと思ってさ」
「うんうん。ママかわいそうだよねー」
ぐすん。鈴乃が出ていない涙を拭く真似をする。
「私は、最期に娘は間に合うと思うよ」
「わぁ、和夢ちゃん、どうしてどうして?」
鈴乃が神宮寺和夢をまじまじ見ながら問い返す。神宮和夢は、愛来と鈴乃が働く神宮寺病院の院長の娘だ。幼さが残る医学部3年の女子大生。小首をかしげている鈴乃ににっこり微笑み返してから、和夢はテーブルに片肘をつき、頬に手を当て微笑みながら愛来に視線を向けて言った。
「だって、母親ってそういうものでしょ?娘が心配でしょうがないのよ」
「…そうね」
椅子に座った愛来は、背も背もたれに体を預け、小さくため息を吐いた。
母の看取り 娘 聡美
(はやく病院に行かなきゃ! 今日は残業で遅くなっちゃった。)
仕事が終わったら母の入院している病院にお見舞いに行く。私の最近の日課だった。いつもは定時に終わって、18時には病院に着いているのに、もう19時を過ぎている。
あまりのタイミングの悪さに、泣きたくなってくる。
(お母さん、待っていてね!)
太陽が出ている時間は暖かかったが、空が暗くなるにつれて空気は冷たくなっていき、体温を奪われるようだ。死んでいくっていうのは、こんなかんじなんだろうか…。身体がぶるっと震えた。寒いからか、怖いからか。
お母さん…お母さん…
母は昔からよく笑う人だった。私は母の笑顔が大好きだ。小学生のとき運動会で転んで泣いたときも、中学の部活で試合に負けて泣いた時も、高校で赤点を取ったときも、就職活動で何度も内定取れずに失敗した時も、いつもいつも笑顔で励ましてくれた。
お母さんが病気でもう長くないって聞いた時は、信じられなかった…。私はお母さんにどんな姿であっても生きていてほしい。だって、姿があるってことは、生きているってことでしょ? でも、お母さんは延命治療を断った。お母さんは死ぬまで笑っていたいと言った。だから笑顔でいられないような治療を死ぬまで続けるのはいやだって。私もお母さんには笑顔でいて欲しいと思った。食事が食べられなくなって、点滴を始めたけど、寝てばかりになった。もう3ヶ月もお母さんの笑顔どころか、目を開けているところもほとんど見ていない。お母さんは最初点滴を嫌がった。こうなるから嫌だったのかな。でも、私はまだ一緒に居たかったんだよ…
まだまだ先だと思いたかったけど、時間は無慈悲に過ぎて行った。この日がいつか来ることはわかっていた。父から電話が来たのは30分前。病院から母の危篤を知らせる電話が来たと伝えられた。
(早く行かなきゃ… )
「わっ!」
過ぎし日を思い返していたら、足元が疎かになり階段で手をついて転んでしまった。
「痛たたた…っ」
「大丈夫ですか?」
通りすがりの女性に声をかけられた。
「だっ、大丈夫ですっ!」
情けないやら恥ずかしいやらで耳が真っ赤になったのがわかった。
「聡美はそそっかしいから、気をつけてくるのよ」
ふとお母さんに、そう言われた気がした。
とぼとぼと歩きながら、半月前のことを思い返した。医者から話があると、家族全員が呼び出されたのだ。お母さんの具合が悪くなってそろそろ危ないという話だった。
『あとどれくらい生きられますか?』
父は医者に聞いていた。
『半月からひと月の間とは思いますけど、そういう予想って医者がいろんな経験とかデータに基づいて予想しても3割くらいしか当たらないものです。できたら長いほうに外れてほしいけれど、短いほうに外れる可能性もあります。わかる時にはお話しします。』
医者はそう答えた。病気は治せないって言うし、あとどれくらいかわからないって言うし、医者のくせに役に立たない。不満しかなかった…
病院が近づくにつれて、心臓がバクバクと早鐘を打つようになってきた。
(昨日はずっとお母さんのそばにいた。なんともなかったのにな… )
そう思ってから、だいぶ前に医者から言われた言葉を思い出した。
『こういう言い方をするとなんですが、お母さんはバランスよく衰えているので、とても穏やかな表情をされていますし、苦痛を感じていないように思います。このまま老衰のように亡くなっていく場合は何の予兆も変化もなく、スーッと息が続かなくなることがあります。そういう場合は最善の道をたどったから予想がつかなかったんだと思ってください』
どうせ死ぬなら、お母さんが苦しまないように、眠るように…それがいいと思った。
病棟に行くと、看護師さんが話かけてきた。お母さんはどうなったの?何か言われたが、耳に入ってこない…看護師さんに話しかけられながら一緒に病室に行くと、お父さんと弟の聡志がお母さんのそばにいた。
聡志はベッド脇の椅子に座って、お母さんの手を握っている。聡志もお父さんも泣いていた。お母さんの顔は…生気が抜けたように真っ青だった。
(えっ、もう息、止まっているの? 私のこと待っていてくれなかったの? どうして…)
置いていかれた…。自分だけのけものにされたような疎外感を感じ、胸の奥がチリチリと痛む。
「ねえちゃん、かあさんあったかいよ」
涙に濡れた頬を手の甲で拭きながら、聡志が座っていた椅子から立ち上がった。
聡志が空けてくれた椅子に腰掛け、お母さんの手を握る。
指先は冷たくなり始めていたけれど、まだぬくもりを感じた。
(ほんとだ、あったかい… お母さん、私来たよ。)
お母さんは、安らかな寝顔をしていた。じんわりの胸の奥が温まっていく気がした。息はすでに止まっていたけれど、間に合ったと思った。
お母さんはずっと前から体調が悪かったそうだ。でも病院には行かなかった。もっと早く病院に行っていれば、助かったのだろうか。私はどうして気付いてあげられなかったのだろうか。
(あのときああしておけば…)
自分は飛び抜けて後ろ向きなのだと思ったことはなかったが、悪いことばかり思い返して、涙が溢れてきた。
聡志が背後から声をかけてきた。
「思っていたより、かあさんの手、小さくてびっくりしたよ。俺たちが大きくなったんだよな。この手で、俺たちを育ててくれたんだよな…」
その声はとても優しくて頼もしくも感じた。
(ほんと、昔は泣き虫で私のあとを追いかけてきていたのにね。)
あっという間に背も抜かれ、今では見上げるほどだ。
聡志が私の肩に手を当て、もう一つの手をお母さんの手を握っている私の手にかぶせて言った。
「かあさん、いままでありがとう」
そうだ!後悔なんて後でもできる!これが最後だから、私もお母さんにちゃんと伝えなきゃ!!じゃなきゃきっと後で後悔する。
「おかあさん、私たちを産んでくれて、育ててくれて、ありがとう!今まで生きてきてくれて、本当にありがとう!」
パリピで前向きな弟に普段はうんざりすることが多かったが、今日ばかりは救われた。
しばらくして「そろそろ…いいか?」とお父さんが躊躇いがちに聞いてきた。
『お別れはもう済んだか?』と聞かれた気がした。もっとお母さんに触れていたかったから、言葉にはしたくなくて、無言で肯いた。
「午後8時58分… お疲れ様でした。」
医者がやってきて、お母さんを診察し、そう言った。
終わったんだ…悲しいのに、なんだかホッとしている自分もいる。
看護師さんがお母さんに私と弟がお母さんの誕生日に選んで買ってあげた薄い紫色のパジャマを着せてくれた。
お母さんにはやっぱり薄い紫色が似合う。
『ありがとね』
お母さんがそう微笑んでいるように感じた。
(こちらこそだよ。お母さんありがとう)
心の中で何度もつぶやいた。
葬儀屋さんを待っている間に、お父さんは神妙な面持ちで言ってきた。
「父さんは、母さんと最期まで一緒に過ごせてよかった。だけど父さんの時はお前たちの世話になるわけにはいかないから、延命をしないで静かに逝かせてほしい…」
私、お母さんとあんまり最期の話してなかったんだ。死ぬなんて思いたくなかったから。でもお父さんはいっぱい話をしていた。だからこんなにお母さんは穏やかに逝けたんだ。今度は私がお父さんの話を聴くよ。いっぱい話をしよう。ねえ、お母さん。お父さんは私たちに任せてね。心配しなくていいからね。
「私、お母さんの生き方を尊重したお父さんを尊敬する。これから一緒に考えよう!お父さんと私たちのこれからを。いっぱいいっぱい話をしよう!」
私は笑顔でそう言った。
娘→母の看取り 看護師愛来 に続く