漆 説明させろ
「兄ちゃん……本当、久しぶりで」
無理に敬語を砕こうとしている弟――京正一。
俺達は、三途の川の審門とやらの円卓で再会を果たしてから、巴に「積もる話もあるでしょうから」と追い出されて、今は別室にやってきている。
こぢんまりとした応接室らしい場所で、椅子が二つとテーブルだけ。その他には、事務用品なんかがぽつぽつと置いてあるくらい。
対面に座った俺達の会話はどこまでもぎこちなかった。
「あぁ、三十年近くになるな」
「三十年……そうか、向こうじゃ三十年か」
正一は手持無沙汰にしているのが気まずかったのか、立ち上がって部屋に備えられたポットで茶を淹れ始める。
背格好も背負う雰囲気も変わって、顔つきだっておっさんになってるが、俺の目には幼い頃の弟の面影が重なって映った。
昔から正一は目つきが悪いだの、顔を顰めるなだのとお袋に口酸っぱく言われるくらいに人相が悪い。
それに鬼の角まで生えちまってんだから、兄の俺以外から見れば、そりゃあ恐ろしく見えるだろうなあとぼんやり考えた。
背丈は俺より少し低いくらい……百八十はギリギリ無いってところか、とここまで考えたあたりで、正一が湯飲みを俺の前に置いた。
「兄ちゃん、病気とかしてない?」
その問いに「特には、健康なもんよ」と返したところで、正一がすんすんと鼻を動かした。
流石に煙草の匂いくらいバレるか。
「健康ねぇ」
「……煙草くらいは大目に見てくれ」
「ほどほどにね」
「わかってるって」
それから、沈黙。
俺達は昔、何を話していたっけか。ド田舎で育ったもんだから、虫取りしてたり、ザリガニ釣ってたりしてた記憶しかねえや。
沈黙を破らんと俺が話題を考えに考え唸っていると、正一が先に口を開いた。
「あの世ってさ、この前まで時間がすっごい遅かったんだ」
「……この前までってなんだよ」
「兄ちゃんが話してたアマテラス様……巴様ね、あの人が、あの世を正したんだよ」
「あー、そんな事聞いたよ。俺はそこんとこよく分かんねえけど、あの世を正したから何だってんだ?」
俺にはただのムカつく小生意気なガキにしか思えんが、とは言わないでおこう。
何せ、よっこら、と座って話す正一の目が憧憬に輝いているもんだから。
「少し前まで、人間道とここの時間の流れは全然違ったんだ。兄ちゃんにとっての三十年は、僕にとっての数百年ってわけ」
「数百って――そんな滅茶苦茶な事あんのかよ……」
「あるよ、いっぱいある。滅茶苦茶な事だらけさ。兄ちゃんも人間道じゃ滅茶苦茶な目にあったでしょ? 僕が取り憑かれるとかさ」
「……」
やっぱり避けては通れない話だよな、と俺は溜息を吐き出し、スーツの内ポケットから煙草を取り出した。
火を灯さないまま、煙草を指に挟んで転がしながら、ぽつりと謝る。
「助けてやれなくて、悪かった」
「ごめん、違うんだ。兄ちゃんを責めようとかじゃなくてさ、ただ、滅茶苦茶な事って言うから、例え話で……」
「いいや、その事について俺はずっとお前に謝ろうって思ってたんだ。助けてやれなかった俺が悪い。力が無かった俺が悪いんだ」
俺達の生まれは別に特別なんかじゃない。普通の家庭に育った兄弟だった。
ただ、唯一他人と違ったのは、霊という存在を見る事が出来ただけ。たったそれだけだ。
見るという事は会話だって出来る。触れる事だって出来る。
幼い頃の俺達はそれが異常なんて思えなかったから、よく通りすがりの浮遊霊に挨拶したもんだ。本当に滅茶苦茶だ。
幽霊っていうのは元々は人間だ。という事は、人間と同じ、良い奴と悪い奴がいる。
要するに、俺達は悪い奴に運悪く捕まって、弟はこれまた運悪く犠牲になった。
そりゃあ幼心ながらに発狂寸前だった。幽霊に殺された! なんて言って誰が信じるもんか。親も親戚も俺達が狂ったんだと言い張った。
しまいにゃ、俺は頭がぶっ飛んだガキとして病院にぶち込まれた。
そこで初めて学んだんだ。普通は見えないし、話せないし触れられない。存在してないんだって。あったとしても、小銭を稼ぐ詐欺師が面白おかしく物語を作って吹聴してるだけの娯楽じみたもんだと思われてる。
「兄ちゃん……」
「人間道って言えばいいか、現代にはまだまだ悪霊がわんさかいやがる。俺はな、悪霊をあの世に叩き返して、俺達みたいな奴を少しでも減らそうとしてんだ」
だから俺は、自由の身になるまで幽霊なんていない事にした。大人の言う事を聞いてりゃ、あっさりと退院できた。
家に帰った時には、お袋にも親父にも頭を下げて、仏壇に向かって手を合わせてまともを演じたもんだ。
小中高と学校にも通って、大学だって出た。大人になった後は――自己責任の世界。
誰も彼もが生きるのに必死で、自分の立場を守る事で精一杯だから俺の事なんて気にする奴は一人もいない。自己責任とは、言い換えれば自由そのものだ。
俺は幼い頃に見た記憶の中にいる悪霊を片時も忘れた事は無かった。必ず見つけ出して、落とし前つけさせてやるって復讐心に燃えた。
それが、どうしたもんか……正一の顔を見たら、ちょっと炎が弱まった自分がいる。
「まだ、見えるの?」
「ああ、おもっくそ見えるさ。悪さをしない奴には手出しはしねえが、生きてる奴を餌にしようとしてる奴がいたら叩きのめす毎日よ」
そっか、と短い言葉を返してきた正一は、また黙り込む。
気まずいなんてもんじゃねえ。積もる話は確かにいくらでもあるが、そんな雰囲気でも無くなって来た。
さてどうしたもんかと顔を片手で覆って十数秒。たっぷりの間をおいて、正一が震えを抑えたような声音で言った。
「兄ちゃんは、いつだって無茶してるね」
「……いやぁ」
顔を上げてみれば、正一は真っ直ぐに俺を見つめていた。その視線を受けて、俺はまた顔を伏せてしまう。
正一は再会できた喜びに泣きそうになってる……ってのは、流石に自惚れすぎか。
「……無茶ばっかりするから、そんな歳で三途の川なんて渡っちゃうんだよ」
「はは、かもなぁ」
「もっと沢山、やりたい事すればよかったのに」
「やりたい事は嫌って程やってるさ。悪霊退治が、それだ」
「別の事とかって意味だよ」
「考えた事ねえや」
乾いた声で笑っていると、正一は鼻をすすり「これからの話しなきゃね」と姿勢を正す。
合わせて俺も背筋を伸ばしたところで、ようやくライターを取り出して煙草に火を灯した。
煙を深く肺へ招き入れると、喉が押し広げられるような違和感で満たされる。ふうと吐き出した煙は長く尾を引いた。
「兄ちゃんはこれから餓鬼道にある、六道管理局って所に登録されると思う。それで、エマ様達からどの道へ転生するか決められるんだけど、地獄道は無いと思うから安心し――」
「うん? 待て待て、何で転生すんだよ」
「え? だって兄ちゃん、三途の川を渡って巴様の案内でここに来たんじゃ……?」
「ああ、巴に案内されたのはそうだけどよ、何で転生なんて……」
「ダメだよ兄ちゃん! 転生しなきゃ、御霊が消えちゃうんだ! 消えるって事は、完全に兄ちゃんが居なくなるって事なんだよ!?」
がたん、と前のめりになった正一。
俺は思わず仰け反り、落ち着け落ち着け、と荒れ馬を鎮めるように言った。
「何で俺がいなくなるんだよ。悪霊にやられたわけでもあるまいし」
「悪霊は関係ないよ! 死んだ人は皆、ちゃんと管理局に登録しなきゃ御霊に宿った〝意味〟っていうのが消えるんだ! 兄ちゃんはまだ死んだばかりで実感が無いのかもしれないけど!」
「あぁ? なんで俺が死んでるんだよ」
「兄ちゃん……死んだばかりだと、その、認めたくないのは分かるけど……」
……うん? こいつ勘違いしてんな。
「正一、落ち着いて聞けな? 兄ちゃんは死んでねえ」
「よくいるんだよ、死んだのを認めたくなくて、人間道にとどまる御霊が……まだ人間道にいる間は大丈夫だけど、もう三途の川を渡ったなら、浄化されてるはずだから……早く新たな意味を持って転生しなきゃ、本当に消えちゃうんだよ……!」
「いや、だからな? 俺は生きたままここに来たんだって」
「生きたままここに来られるわけ無いじゃないか! いい加減に認めなよ兄ちゃん!」
「え、えぇ……」
俺の手からぱしんと煙草を取り上げた正一は地面に投げ捨てながら立ち上がり、テーブルをぐるりと回ってこちらに来ると、俺を抱きしめる。
「兄ちゃん……もう大丈夫だから。僕もいるから、平気だよ」
「待て。ほんとに俺死んでねえって。何で死んだ事になってんだ。くそ、説明したいのに説明しきれねえ」
「混乱してるんだね……でも大丈夫。ここは巴様の浄化の力もあるから、もう僕達を傷つける奴なんていないんだ」
「正一、いいから、待――力すっげえ強くなったなぁお前?」
引きはがそうと正一の身体を押すがビクともしない。苦しくは無いが、大の男同士が抱き合ってるなんて、いやいやいや。
混乱している俺に、それを抱きしめて落ち着かせようとする弟という構図に間違いはない。
間違ってないが、認識があまりにも違い過ぎる。これどうしたもんだ、と引きはがすのを諦めて逡巡し始めた所で、応接間の扉がノックも無く開かれた。
扉の先には、巴達に、エマ。
数秒、耳鳴りがする程の静寂が空間を埋めた。
そして、エマがひきつった顔で一言。
「ご、ごめんなさいね、ノックくらいするべきだったわよね」
俺は出来る限り静かな声で言う。
「違うんだ。エマ、巴、これはな――」
説明をしようとする俺を、くつくつと笑う巴達三姉妹。
「ふふ、いえ、大丈夫です。わかってますから、ええ」
「っくく、この賭けはワシの勝ちじゃなあ葉月」
「負けたのは悔しいが、面白いもんを見れたわい」
こいつらマジかよ。これ想定済みで賭け事してたのかよ。殴りてえ。
俺が怒りの視線を三姉妹に向けていると、正一は入室してきた皆に気付いて俺から離れ、慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ございませんでした。数百年ぶりに兄と会えたものですから」
エマはひきつった顔から一転し「いいのよ。今回のは特例だから」と正一に微笑む。
「エマ様。特例でしたら、その、転生につきまして説明役を私めに。兄の転生先はどうか――」
「転生? 何で彼を転生させるの?」
「エマ様、それは……」
「転生させないわよ」
「な、何故です! 兄は人間道にて善行を積んで来たと思います! ひ、一つや二つの悪行はあったのやもしれませんが、しかし、転生させないなど……!」
ああ、これ、すごい面倒だぞ。こじれてるぞ。
俺は今どんな表情をしているのだろうかと考えながら巴達を見れば、こいつらはこいつらでその様子を見て笑ってやがる。
このクソガキどもには本気でお灸をすえてやらなきゃいけねえ。
ちゃんと誤解を解けという圧をかければ、巴はそれを受けて一つ頷いた。
「正一さん、お兄さんについてですが――転生させるわけにはいかないんです」
「おい待てお前!」
くそ、突っ込まずにいられねえ。
声を荒げた俺の前に立った正一は、何故か巴に必死に頭を下げる。
「そ、んな……伏して、伏してお願い申し上げますアマテラス様! もし兄に業があるならば、私もそれを背負います! ですから……!」
土下座までし始める正一。焦って立ち上がらせようとする俺。
「正一、やめろって! これには事情があんだよ!」
「兄ちゃんは黙ってて! アマテラス様、どうか……どうか!」
巴はニコニコと「ごめんなさい。転生はさせられません」と、あからさまに、故意に言葉足らずに言う。
「何故ですか、アマテラス様! エマ様!」
角の生えた鬼となった弟の両目からはとめどなく涙が溢れ、もう見ていられなかった。
巴は意味深な笑顔で首を横に振るだけで、だめだこれ埒が明かないぞ。
「正一さん……この世は無常です。申し訳ないですけど、お兄さんについてはどうしても転生をさせるわけには――」
「だぁぁぁ! クソガキ! お前やめろもう! 弟を泣かすな!」
「ふ、ふふふ、すみません」
怒鳴りつけた俺に驚いた正一が目を剥いて全員を見回す。
エマは呆れた顔で巴に向かって「ほんと、巴さんも怖いもの知らずになったというか……九達の姉って感じね」と溜息を吐き出す。
「ど、どういう……」
状況を把握できていない正一の腕を取って立ち上がらせると、肩を叩いて「俺は死んでねえからだよ」と告げた。
「じゃあ、何で三途に……」
「ああ、それはな」
巴の声が割り込む。それもまた凄く険しい顔をして。
「正一さん、これは非常に特殊な例で、複雑で……お兄さんは――」
もちろん、もう一度怒鳴っておいた。
「複雑もクソもねえよ! まず! 俺に! 説明させろ!」




