肆 整理させてくれ。整理。
「俺ぁ悪霊に対しちゃ手荒い真似ばっかしてきたが、神さんに唾を吐くような事は天地に誓って無い。頼む、マジで頼む、勘弁してくれ」
――山の奥深くに抱かれた温泉宿で、俺は女子高生と幼女に土下座していた。
本当に、この状況は何なんだ。
悪霊退治の依頼を受けて、県を跨いでえっちらおっちらこんな片田舎まで来たってのに、俺はどうして神さんに頭下げてんだ。
「悪霊退治をしている事は分かりました。悪霊がどういったものか、っていうのも……まあ」
頭に落ちてくる巴の声に、そっと顔を上げてみれば、三姉妹は顔を見合わせてひそひそと話している。
声を潜めるのは構わないが、一室で音を発するものが置いてないとあれば耳打ちくらいしなきゃ全員に聞こえるわけで。
「私が想像してた幽霊と違うんだけど? 何あれ、思いっきりただの御霊じゃん」
巴が九に言えば、それに対してため息交じりの声が返ってくる。
「あのなあ巴、ワシらは何百年、何千年と六道全ての気を浴びて来たのじゃぞ? 天道の神とて六道全ての気を浴びて過ごしたものはおらんのじゃから、悪霊だろうが善霊だろうが普通の御霊に見えて当然じゃろう……せいぜい、悪意が黒々と見えるくらいじゃて」
説明口調の九に続き、葉月が口を開いた。
「それで、姉上は〝さっきの悪霊〟を何処に送ったんじゃ。おもっくそ地面に叩きつけておったが」
「死出の山」
死出の山……って言えば、死んだ奴が最初に越える山だったか。その先に三途の川があって、そこで奪衣婆に服を奪われて川を泳がされるやつだ。
可哀想に、と俺は悪霊に同情を禁じえなかった。女子高生の姉ちゃんに取っ捕まっただけじゃなく、三途の川に叩き落とされたとあっちゃたまったもんじゃないだろう。
その上、三途の川を越えた次は閻魔様に裁かれて地獄に落ちるんだろうしな。
いくら悪霊っつったって、元々は生きてた人間なんだ。ほんの一ミリでも情状酌量の余地があればいいが。
「死出の山か……今はエマの管轄になっておろうが、大丈夫じゃろうかのぉ」
「知らないよそんな事、人間道で人を殺めたんなら、ちゃんと裁ける所で裁いてもらわないと」
「そりゃあ、姉上の言う通りじゃと思うが……ほれ、地獄道に落ちれば悲惨が故」
「私達が関知するとこじゃないです」
「いつの間にたくましくなったのやら、冷たくなったのやら……」
溜息ひとつ零した葉月に、俺は思わず口を挟んでしまう。
「な、なぁ。地獄道ってのはあれだよな、その」
頭に浮かぶ数々の責め苦。何千年どころの騒ぎじゃない永劫の時を過ごす不毛の地に、恐ろしい鬼。
ただでさえ目の前にはアマテラスやスサノオ、ツクヨミと紹介されたとんでもない神――女子高生と幼女だが――がいるのだ。
しかも目の前で悪霊の首をひっつかんであの世に文字通り叩き返したのも見ているものだから否定の材料は皆無。
となれば、もう現状把握、状況整理に努めるしかない。
俺の問いに答えたのは巴でもなければ葉月や九でもなく、九重さんだった。
『京さんがご存じたる地獄道と、本当の地獄道は違います。人間道でいう裁判機構がありますが、刑務所などというものは存在しておりません』
相変わらず頭の中に響くような不思議な声音だ。普段ならこの声を耳にするだけで背筋が伸びたもんだが、今は、なぁ?
「刑務所が無いとなりゃ、悪霊はどうなるんだよ。俺がやってた悪霊退治だってそれじゃ意味が……」
『では、逆にお聞かせください。京さんは人間道で悪霊、と呼ばれている御霊をあの世へ還した後の事を考えた事がありますか?』
……そういや、無いな、そんなの。
悪霊なんてのを退治するにしたって、あの世に還しちまえばこの世とは無関係だ。人を呪えもしなければ、もう悪さだってできないはず。
そこで俺は一拍置いて、なるほど、と胸中で手を打った。それを言葉に組み替える前に、巴が声を紡ぐ。
「六道輪廻――人間道に生きる人も、その他の道で生きる人も例外なく、御霊はずっと廻り続けてるんです。身体を失えば、転生し、また違う道を歩むんですよ。人間の身体を失って、御霊のみで人間道に残った悪霊というものだって、その輪廻の一部です」
それに補足するようにして、九が言う。
「悪さをすると言うて人間道から追い出された悪霊とて、どれだけの罪を背負ったとしても廻り続けるのじゃ。惨いやもしれんがな。しかして、何処にも救いが無いわけでは無い。三途の川を越えた先にある審門から地獄へ落ちたとて、それもまた輪廻の内……長い時を発電施設で強制労働、と言ったところかの」
うん? 待て。強制労働ってなんだ。いや発電施設って。
「あそこで働くとあらば、そりゃあもう、本当に地獄じゃ。怪我をしても直ぐに治される。死ぬ事さえ無い。延々と無間の火城の点検に回されるのじゃろうて……いや、もしかしたら火力発電用の木材やらを集めに走らされるかもしれんな」
「あー、あの血を吸う枯れ木の」
「それじゃそれ。九重衆の殆どは餓鬼道で働いとるから安定しとるが、地獄は万年人手不足……いや、鬼手不足じゃからな」
「罪人は皆浄化しちゃったもんね」
「いや、それ姉上のせいじゃよ」
巴達の間で交わされるとんでもない会話に、俺の中で組み立てようとしていた言葉は音を立てて崩れ、代わりに突っ込みの声が飛び出す。
「――なんだそりゃ!」
と、俺の声に呆れ顔の巴達。九重さんだけはまともに取り合ってくれるのだった。
『あ、あのですね、京さん。話に聞くだけでは理解する事は難しいでしょうから、まずは今後の事を』
そうだ、そうそう。今後の事な。それが大事なんだよ。
悪霊を叩き返したアマテラス云々は置いておこうじゃねえか。だって意味が分かんねんだから。
土下座のポーズから正座へ移行し、九重さんに顔を向けると、俺はとにかく仕事のスタイルを変える気はないという意志を伝える。
「あ、あー……なんだ、その……巴達がどうこう忙しいってのは理解した。悪霊を叩き返す能力とかいう問題じゃねえレベルだってのもな。だが、俺は俺の仕事をする。神さん達にとっちゃ悪霊をあの世に還すなんてのは朝飯前で、気にする程の事でも無いのかもしれねえが俺は違うんでな。人が死ぬかもしれねえってのは大変な事なんだ。その因子を取り除ける力がある俺は、どうにかしなきゃなんねえ義務がある。それに、取り除かなきゃなんねえんだ……悪霊に呪い殺された、俺の弟の為にもよ」
『……それは、重々承知しております。京さんには変わらず依頼をこなしてもらうつもりです。つきましては――』
「あの、おじさん」
大人同士の会話をしてるっつーのに、この女子高生は……。
「なんだよ。別に神さんの仕事の邪魔はしねえつもりだ。もしも悪霊退治が仕事の邪魔だってんなら話は別だが」
「いえ、悪霊退治は勝手にしてください。私関係ないんで」
腹立つなこいつ! いや落ち着け、クールにいけ京秋良。逆らっていい相手じゃない。
これがもし低級霊が化かしてるってえ話なら、あの時悪霊に取り込まれてたはずだ。
悪霊が取り込む以前の問題で、有無も言わさず一発で沈めた所からして疑う余地がねえ。
「弟さんが悪霊に呪い殺されたっていうのは、本当ですか?」
「あ? まぁ、まぁ……」
弟が悪霊に呪い殺されたのは、もう何十年前だったか。
四十を超えた俺が、まだガキの頃……と考えれば、もう三十年近く経つ。
「弟さんのような人が出ない為に、悪霊退治をしている、と」
「ああ、そうだよ。なんだ? 動機はどうだっていいだろ?」
「はい。どうだっていいですけど、でも……悪霊を叩き返すのに、弟さんだけが理由なのかな、って」
巴の目は虹色に輝いたまま、俺を視線で射貫く。
ただ威圧するようなものじゃなく、純粋に気になっている、という目に見えた俺は、鼻から息を長く出して答えた。
「それだけかって言われると、そうじゃねえな。確かに弟が呪い殺されたから悪霊が嫌いだってのはある。けど、俺はただ悪霊をあの世に叩き返して悦に浸りたい変態じゃねえんだ。悪霊が生まれるには理由がある――その理由は、悪霊と違って人と人の間に残るもんで、あの世に叩き返す事だって出来ねえだろ。俺は、悪霊をあの世に還す事……そして、悪霊の未練を何とか解決する事を仕事にしてんだ」
嘘は一つも無い。初対面の、ましてや女子高生と幼女に向かってクソ真面目に話してるなんてちゃんちゃらおかしいが、一応な、一応。神さんだから逆らったらどうなるかわかんねえしな。
頭の中で訳の分からない言い訳をこねながら、俺はそわそわとする全身の感覚を誤魔化す為に煙草をさっと取り、火を灯す。
紫煙をくゆらせば、落ち着きは……しない。無理だよな。分かってた。
自分から話した理由は分からん。お涙頂戴で同情を誘うような事がしたかったわけじゃない。
理由を訊かれたから、とりあえず、というわけでもないし、こりゃどう言えばいいんだろうか。
ちらりと視線だけで巴達を見れば、向こうは真っ直ぐに俺を見つめていた。
「……九重衆が目をつけるわけです。こんな正直な人」
巴は口の端を少し上げて微笑むと、自分を挟んで座る九と葉月の膝をぽんと叩いた。
「エマさんの顔でも見に行こう。事情も把握しなきゃいけないし、九重衆が目をかけたのなら、責任は私達にあるんだから」
九は「うむ、そうさな」と短く答え、葉月は頷く。
「お、おい。責任はって……別に俺の仕事は巴達に関係――」
「あるんです。お詫びもかねてですから、おじさんは気にしないでください。ついでに弟さんに会いに行きましょう」
「……は?」
「いや、だから、弟さんって悪霊に呪い殺されたって言ってたじゃないですか。なら〝あの世〟にいるんですよね?」
「……悪い、ちょっと言ってる意味が」
「だから、弟さんに会いに行きましょうって。私もエマさんにどうなってるのか訊かなきゃいけませんから、弟さんの居場所も一緒に訊けばわかるじゃないですか」
何を言ってるんだこいつ? みたいな顔をして俺を見る巴達。
そっくりそのまま返してやりたい。
「あのなぁ……流石に神さんっつってもおいそれと俺を殺していいもんかね? 弟に会えるなら会いたいが、そりゃずっと先の話だ」
「な、何で私がおじさんを殺すみたいな話になってるんですか……意味わかんないんですけど……こわ……」
えぇ、とか言いながら口元を抑えてドン引きする巴。
ひそひそと九や葉月が「うっわ、こやつ危ない奴じゃぞ巴……」「姉上、これあれじゃ、やばい、とか言われておるやつじゃ」と言い合う。
ふざけやがって……。
「じゃあよぉ、どうやって会うってんだよ……!」
「え? いや、あの世に行くんですよ。今から。ご飯も食べましたし、散歩ついでにでも……あ、夜遅くなるといけないんで、少しだけですけどね」
「……」
こいつ何言ってんだ。
「あの世に行くって、お前、それ……」
「はいはい、もう質問は後です。面倒なので。ほら、九、葉月、お散歩行こ」
巴に手を握られた途端にニコニコ顔になる幼女達。
俺は煙草を指に挟んだまま、立ちあがった三人をぽかんと見上げていた。
「じゃあ、後で戻るので。二人はお留守番で。宿の人に出かけてるって伝えておいてください」
『っは。お気をつけて』
恭しく手をついて頭を下げる九重さんと付き人。
「ほら、行きますよおじさん」
「いや、だから! どうやって――」
巴は俺からふいと顔を背け、虚空へ向かって「開門」と呟く。
すると――空間構造を思い切り無視して、地面から天井を突き抜けるように現れる、真っ赤な鳥居。
柱には「天照大御神通行ノ門」なんて書かれていて、そこらへんで俺の冷静な思考は全て吹き飛んだ。
鳥居の向こう側に見えるのは、黄昏に抱かれせせらぐ川に、楽し気な声と行き交う人々。
まるで祭りでもやってるかのような賑やかさを前にして、巴は立ち上がれない俺に言った。
「地獄の閻魔と、弟さんに会いに行きましょう」
……整理させてくれ。整理。