参 寝耳に水? 洪水だよ。
肩で息をする巴を落ち着かせて座らせると、俺はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、カチカチと電話帳機能を開く。
その間にも、九と葉月に「まぁまぁ、バイトついでの小旅行なんじゃから」などと宥められている巴だったが、どうにも腑に落ちないような顔をしていた。
さっさと電話をかけて九重さんを呼び出しちまおう。最悪お咎めを食らったところで、こいつの正体も聞けるはずだ。
受話口を耳に押し当て、数コール。それからすぐにガチャっと音が聞こえた。
『――はい、九重』
「おう、俺だ」
『京さんでしたか。どうしました?』
丁寧な口調で穏やかな声音が俺の名を呼ぶ。
確かこいつは、九重さんの遣い、だったっけか? 名前は憶えてないが。
「ちいと突然なんだが、九重さんを出してほしい。会いてえって奴がいるんだ」
『九重様を……? 本当に突然ですね。何故でしょう』
「いや、だから、九重さんに会いてえって奴が……」
『京さんの一存で、九重様を呼び立てる、とは……また随分な事ですね』
……こりゃダメだな。嬢ちゃんには悪いが、諦めてもらうってのも含めて聞かせてやるか。
と、俺は携帯を操作してスピーカーから音声を流す。
「そこをどうにか頼むよ。どうしても会いてえって嬢ちゃんがいてな? 祓い屋十数人で取り掛かろうって仕事を一人でこなしたんだ、本当だよ。でも宗家に顔合わせをしてねえってんでよぉ……九重さんにしろ祓い屋にしろ、そりゃちっとまずいってもんじゃねえか?」
『……九重様からお声がかからなかったという事は、嬢ちゃん、とやらの力が取るに足らないものという事です。用件は以上ですか? これ以上何もないのでしたら、私は仕事に戻りますので、これで』
はぁ、と溜息を吐いて三人に視線をやれば九と葉月は呆れ顔。巴は鬼の形相で立ち上がり、俺の所までずんずんと歩いてくると、持っていた携帯をひっつかんで怒鳴りつけた。
なんつうか、凛として綺麗な声ではあるが、迫力なんて表現じゃ足りないくらいだった。
鼓膜がびりびり震えるくらいの金切り声だ。
「――その声、衆の一人ですね!? いいから早く来てください! 事情を! 説明! すぐに!」
『ひっ!? と、ととと、とも、巴様ぁ!?』
「巴様、だぁ……?」
巴に怒鳴りつけられた遣いの女の声は明らかに怯え、今にも泣きだしそうなくらい震えはじめる。
『と、とと巴様、これはその、エマ様より巴様達の今後の生活の安全を見守る上で、必要な事である、とですね……』
「だぁれが見守ってくださいなんてお願いしましたかねぇ!? 九も葉月も元気にやってます! というか二か月って、私が帰ってちょぉっとしたくらいで来たって事になりますよねぇ!? 詳しい話は! あなた達が来てから! 以上!」
ばちーん!と携帯を閉じると、俺に投げて寄越す巴。やめてくれ、長年使ってきた大事なガラケーなんだこれ。
いやそれよりもだ。
「お、おい……巴よぉ、お前……九重さんと知り合い、だよな、あの感じ……」
巴は元の場所まで戻ると、どすんと腰を下ろして不機嫌そうに食事を再開する。
それに合わせて、九と葉月も箸を動かし始めた。
「知り合いですね。ええ、知り合いです。っていうか〝部下〟です。嫌な予感はしてましたけどね、ともかく話は後です。……全く、せっかく姉妹水入らずで遠出したっていうのに、何でこんな邪魔を……」
ぶつぶつと文句を垂れ始めた横で、九が琥珀色の瞳を光らせながら、巴の向こうにいる葉月を見た。
「……葉月、何か感じんか」
葉月は癖のように赤い目をくうっと細め、ぽり、と漬物を噛む。
「縁は無い。が、それもそのはずじゃ。穢れは六道全体に広がっておったものじゃが……今回のは毛色が違う」
話に声を挟む隙さえ無い。俺は置き去りにされたまま、乱れたスーツの羽織をぐっと直し、ネクタイを緩めながら時を待つことしか出来なかった。
***
九重さんに会うのは、これで何度目になるだろうか。
遠路はるばる、という距離を数時間もせずやってきた九重さんと付き人の女が一人。
九重さんはいつもの白い着物に顔を覆う布という出で立ちだが、不思議なのは付き人の女もまた、同じような恰好をしていた事。
俺が見た時は、確か普通の私服だったような気がしたんだが……。
それよりも。
「……なんだこれ」
宿までやってきた九重さんと付き人は、食事をしていた俺達のいる部屋に入ってくるなり、俺には目もくれず、巴達の前に土下座していた。
『も、も、申し訳ございません巴様……か、かような、失態を、致しまして……!』
『この度は大変なご迷惑をおかけしました……!』
九重さんも付き人も、そりゃあもう見事な土下座だった。土下座見本集とかあったら確実に表紙に出来るくらいに、ぴしーっと。
対する巴達は、全員正座で九重さんと付き人を絶対零度の瞳で見下し、どっからどう見ても怒っていますって雰囲気だ。
「ごめんなさいで済めば、神様も必要ないんですよぉ……ねぇ……?」
子どもの、まして少女の声なんざ怖くもなんともない――はずなのに、俺まで正座しちまう。
九は巴の声に繋げるように、間髪入れず言葉を紡いだ。
「なにゆえ、このような状況になっておるかも聞きたい所じゃが……ワシらの営みに介入しようとは良い度胸をしておる」
追撃のように、葉月が言う。
「いくら九重衆とて、これはちいと看過できぬのぉ……申し開きは?」
三人に問い詰められる九重さんがあんまりに不憫だったのと、状況が理解出来ないのとが重なった俺は、助け船の一つでも出すべきだろうと咳払い。
不機嫌そうな三つの顔と、今にも死んじゃいますって雰囲気の二人が俺を向いた。
「あ、あー……その、何が何やらわかんねえんだが……嬢ちゃんは、九重さんの上司、だったっけか……?」
『上司などとそのような! このお三方は六道輪廻を救い給うた神々が頂点――あだぁあっ!?』
大声を上げた九重さんの頭を遠慮なく叩いた巴に、俺の思考はパンク寸前だった。六道? 神々? 何言ってやがるこいつら。
こっちは依頼で悪霊退治に来たってのに、訳の分かんねえ三姉妹に仕事を取られた上に、宗家の頭をぶっ叩くパフォーマンスを見せつけられて、どんな顔しろってんだ。
――という、混乱を通り越した顔をしていたと思う。ぽかーんってやつ。
よーし、落ち着け京。状況整理だ。
悪霊退治に来た所で、三姉妹がやってきて、呪いを消し飛ばして……どうやらこいつらにも霊力があって、宗家の頭をぶっ叩けるくらいの上司で、六道輪廻を救った神々の頂点だ、と。
よし。さっぱりわからん。
「……煙草吸っていいか」
自分でも驚く程に疲れ切った声だった。
巴の顔は不機嫌そうなままだったが、声音は申し訳なさそうに「すみません、騒がしくて。どうぞ」と返してくれた。
流石に小学生と女子高生の前で喫煙なんて褒められたもんじゃないかと気が咎めるも、それより自分のが大事だ。落ち着かせてくれ。
スーツのポケットから少し歪んじまった煙草の箱を取り出し、さっと咥えてライターで火を灯す。
深く息を吸い込み、喉を内側から蹴られるような感覚だけに集中して、煙を吐き出せば、多少は気が収まった。
「ふぅぅ……すまん。で?」
で? って俺の聞き方も悪いが、言葉を選ぶ余裕が無いと言い訳させてくれ。
説明してくれたのは、九重さんだった。
『……信じる、信じないは京さんにお任せしますが、これより話す事は全て真実であるとここに誓います』
「誓うって、んな大袈裟な……いいから話してくれよ九重さん。っていうか巴、いくら部下だからって年上に手ぇ上げるんじゃねえよ」
流石にこれくらいはいいだろう、と巴を見やれば、つーんとそっぽを向かれた。こんのガキは……。
『よ、良いのです……これは巴様に無断で行った事……いくらエマ様の言とて主人に背いたのですから、死なぬだけマシと言えましょう』
「九重さんよ、そういやさっきも巴がエマって言ってたが、そいつは誰なんだよ? しかもこのガキ、悪霊を素手で掴みやがったんだぞ」
『エマ様とは……六道が一つ、地獄道を統べる神、地獄の閻魔――と言えばご理解できましょう』
「は……?」
待てよ。ちょっと待てって。地獄の閻魔?
『京さんくらいの御歳ならば、多少は宗教の話も存じ上げましょう? それでございます。この世は六道という六つの道から成り立っており、ここは人間道……エマ様とは、地獄道を統べる神、でございますよ。私は九重、という名ではなく……正しくは〝九重衆〟という神の遣いが一人です』
「ま、待て……んな、荒唐無稽ってもんだろ……なんだよ、神って……」
たじろいだ俺の動きに、指に挟んでいた煙草の灰が落ちた。
あっと声を上げるよりも先に、まだ熱い灰が畳と接触する寸前、ぴたりと何かに遮られたようにして灰が止まった。
「……なんだよ、それ」
声を上げたのは、灰が不自然に空中で動きを止めたから――ではない。
俺が目を離したほんの一瞬で、三姉妹の恰好が変わっていたからだ。早着替えのマジックでも見てるみたいだった。
目に映える藤色の着物姿になった九と葉月。もこもことした帽子やマフラーで年相応に見えた姿は、今や俺が知ってる何よりも神々しく、どこまでも気高く見えた。
中央に座す巴も同じような着物に、濃紺の袴姿で正座していて――黒かった瞳が虹色に光っていた。
巴は落ちた灰に人差し指を向けていて、指先くいっと曲げれば、ふわりと灰ごと消え去ってしまう。
「悪霊と対峙しているのに荒唐無稽とは異な事を……京とやら、悪霊ばかりで神は見た事無かったのか?」
九の声が辺りを切り裂くみたいに聞こえ、耳がじわりと痛む。
次ぐ葉月の声はまるで俺の全身を牙で貫くみたいで、たじろぐどころか、動くことさえ叶わない。
「悪霊とは人の御霊……穢れやわしらとは違うでな、致し方無かろうて。じゃが、九重衆が巻き込んだものは、わしらの責じゃ、この姿を見せねばならぬ義務があるじゃろう。なあ、姉上」
九重さんと付き人に怒鳴りつけていたような声じゃなく、今度は静かで、妹達を、いや、全部を包み込んでくれるような優しい声で話す巴。
「はぁ……まぁ、経緯はどうあれ、葉月の言う通りですね。さ、話を続けてください」
ちらりと虹色の瞳が動けば、九重さんも付き人も先ほどより俊敏かつ機敏に動き、俺を向いて話した。
『……この世に神は存在します。違いはあれど、みな〝御霊〟を核とする存在です。我々九重衆は、エマ様の命によりて人間道から他の道へ往来する御霊を管理する為に参った次第――ひいては人間道に居座り続け、いたずらに御霊を食らい傷つける〝悪霊〟に落ちた御霊を三途の川にある審門へ送還する事を任務としております。これも、六道輪廻の環が二度と壊れぬように、と』
饒舌に喋った九重さん……じゃないんだっけか。まあ、九重さんでいいだろう。俺の中では九重さんなんだから。
要するに、九重さんは地獄の閻魔に言いつけられて、この世で人を傷つけるような悪霊がいたらあの世に送ってくれって言われてきたわけだ。
それで、三姉妹は、実は地獄の閻魔の上司にあたる神で、事情を知らなかったから怒ってた……なるほどな。
「大体は理解した。俺も六道輪廻についちゃ多少知ってるんでな。で、閻魔と言えば仏教だろ? 閻魔の上司の巴達は、なんだ? 明王とかか? 仏にしちゃあ、随分と俗世的な――」
『神と仏を分けているのは、人間道のみ……本来、六道輪廻に在る神に隔てはございません。仏、と言えば……悟りを開いた人でありましたか。巴様もそれに似た形です。ですが、京さんの想像とは違うかと』
「この際だ、驚きゃしねえって。人じゃねえバケモンをいくらでも見てきたんだ、今更だろ?」
『……長良巴、長良九、長良葉月とはお三方の〝人間道〟でのお名前です』
「もったいぶんなって」
俺は咥え煙草をしながら上着を脱ぎ、はぁーあ、と脱力した声と煙を一緒に吐き出しつつ、ネクタイをするすると外した。
悪霊退治してれば、こういう事もあるだろうなんて覚悟はあった。人間は弱い。どこまでも弱い。
しかし、皮肉な事に、弱いからこそよく見上げる事が出来る。見上げる事が多いからこそ、神だろうが悪霊だろうがすぐに飲み込める。
九重さんが霊力を剥奪するなんて力を持っているのも、神の遣いだからだろ? なら納得ってもんだ。
『お三方の名は、六道輪廻で決して変わる事の無き、清浄たるもの』
神だろうが悪霊だろうが関係ねえ。
俺は悪霊をあの世へ叩き返す、ただそれだけだ。
九重さんみたいな、口上で誓うなんてもんじゃねえ。天地がひっくり返ろうが、俺は決めた事は曲げねえんだ。
悪霊を退治し続けて――いつか、俺の弟を取り殺した悪霊を見つけて――きっちり落とし前つけて――
『長女、アマテラス』
――うん?
『次女、スサノオ』
――なるほどなるほど?
『三女、ツクヨミ』
――ほほう。
『このお三方が、六道輪廻の円環を救い給うた、神々が頂点に座す絶対的三姉妹でございます』
言い切ってから恭しく手をついて頭を下げた九重さんに、付き人。
胡坐をかいて咥え煙草のまま、すーっと視線を三姉妹に向ける俺。
ちらっと頭の隅を掠めた俺の絶対的な意志とか、弟が悪霊に取り殺された記憶とか、色々なもんをすっ飛ばす名前が聞こえた気がしたが。
「この度は、私達の部下が京さんを巻き込んでしまい、すみませんでした」
巴が頭を下げるのに合わせて、妹二人も浅く頭を下げて言った。
「……ワシらの不手際では無いが、責は負う。すまぬ」
「わしらの面目もあるでな、九重衆を許してやってくれ」
そうかそうか。きちんと謝る事が出来るんじゃねえか。素直なのは良い事だ。
咥えてた煙草を消すために、手近にあった卓に備え付けてあった灰皿へ押し付け、俺は改めて三姉妹と九重さん達に身体を向けた。
「俺は全然大丈夫ですんで勘弁してください」
そこで俺は、人生初の土下座を披露してやった。
土下座見本集の表紙は、俺が飾る事になりそうだ。




