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百日紅の花嫁  作者: 遠野まひろ
6/6

第6話

6

 人生の終わりをこの目で見た私は、樹さんの元へ嫁ぐ日を意識し始めていました。私はまだ自分の覚悟を彼に伝えていませんでしたが、確実に、伝えなくてはならない「その日」が近づいているのが分かっていました。


 樹さんも自分の死が近づいているのが分かっていたのでしょう、会話の中で自分がしたかった事を度々口にするようになりました。それが後悔ではなく、いつかまた生まれる事があったらしたい事であるように言うので、私はまるで小さな子が何も遮られることもなく夢を語るように思え、微笑ましく聞いていました。例えば、それが私と桜が見たいとか、普通の家庭で過ごしたいとか、私の世界では当たり前の事であっても。海の話になったのはそんな時でした。


「海に行こう」

「え?」

「海だよ、海なら行けるだろう?桜は季節じゃないから見れないけれど、海ならここから近いって」

「確かに、そうですけれど……」


 生まれてから柵の向こうに行った事がないという樹さんが、一番行きたいと思う場所が海だったのです。私は驚いて、けれど、どうにか気持ちを抑えて貰おうと一生懸命に海の冷たさや、潮の味、香り、砂浜の感触を伝えましたが、伝えれば伝える程、樹さんの興味を惹くことになりました。


 私としても彼と何処かに出掛けたいと思っていましたが、彼をここから連れ出すのが恐ろしかったのです。百年近く外を知らない彼に、外の世界を見せたらどんな反応をするか予測出来ません。まして外で倒れても彼の事を話す訳にはいきませんし、信じてもらえる筈がありません。そして、私が一番恐ろしいのは、もし一歩でもここを出たら、彼が消えてしまうかもしれないという事でした。


 彼は生まれてから一度も柵の向こうに出た事がないのは、彼のお母さんがここから出るなと言ったからでした。困った事に、何故そんな事を言ったのか、その理由は彼も知らないのです。迫害されるから、であったら柵を越える事は恐ろしくありませんが、樹さんの命を繋ぐ理由であったら。答えが分からない今、私は樹さんのお願いを叶える訳にはいきませんでした。しかし、私がいくら理由を話しても樹さんは頷く事はありません。


「何かあっても同じ事だよ。もう僕には時間が無いんだ」

「そんな事言わないでください」

「でもね、これを見て」

 

 押し問答が続いた後、樹さんは引き出しから小瓶を出しました。そして小瓶を開けると、色褪せた花びらが一枚だけ出てきて、それを見せながら私に言ったのです。これが、最後の一枚なんだ、と。


 樹さんにもう時間が無いのは分かっていました。けれど、まるで祖母のモルヒネのように告げられた花びらは、私から全ての言葉を奪ってしまいました。そんな事を知ってしまえば、何も言える筈がありません。長い沈黙の中、この人も死んでしまうのだ、そう知れば何でもしてあげようと思ってしまったのも確かですが、私の覚悟を告げる時が来たのだとも思いました。色褪せた花びらの向こうに、彼がずっと私に隠していた覚悟が見えたのが分かったからです。


 そして私が分かりました、と言った時に彼が見せた笑顔を、一生忘れられる事は――例え木になったとしても――出来やしないでしょう。そんな笑顔を見せられたら、何でもしてあげようという気持ちと、樹さんの願いとは別に、この人にもっと生きていて欲しいという気持ちを強めるだけでした。


 それから私達はまるで旅行の計画を練るように海への道筋を考え始めました。時間と日付はすぐに決まりました。三日後の、夕方から夜にかけての時間。気をつけなければならない事は多数ありますが、一番は通勤ラッシュを避ける事でした。ここから海へ向かう手段として徒歩では少々遠いので、私一人だったらバスを使うところですが、駅を通る為、その時間だと通学や通勤でバスが満員になるのです。

徒歩や、バス以外となると、タクシーしかありません。一番良いのは私が運転する事ですが、駐車場もなく、普段運転しない私には自信も良い言い訳もありませんでした。


 タクシーであれば最小限の人にしか会いませんし、ラッシュも避けられるのと、他の理由からもそれが一番スムーズに行くと思ったのです。


 彼はタクシーについて知らなかったので、簡単に説明すると、彼も確かにそれが良いと言いました。山へと向かう三叉路でタクシーに乗り込み、海の一番近くのレストランで降り、二時間後に再びそこへ迎えに来てもらう。正味三時間程の外出になるでしょうか。最初で最後の外出がたったそれだけなんて随分短く、子供染みていましたが、私達は本当に楽しみにしていたのです。


 思えば、それからの三日間は幸福であり、私達が普通の恋人になれた間でもありました。私はタクシーの手配をし、何を着ていくかに悩み、いつも使わない化粧品などを使って少しでも綺麗にし、初めてのデートに向け、遠足の前日の子供のように浮き足立って準備をしていました。


 確かに不安な気持ちも無かった訳ではありません。私の覚悟を受け入れられなかったら――その時まで私は随分楽観的ですが樹さんが拒否するとは思わなかったのです――そう思うと、一気に不安になりますが、予感、いえ、確信があったのです。私達が二度と離れる事は無いという確信が。


 ですから楽しみな気持ちが不安を覆い隠してしまっていました。何度も会っているのに、今更と思いながらもいつもより手入れにかける時間さえ、愛しいものでありました。


 長いようで短い三日間はあっという間に過ぎ、そうして待ちに待った当日、夕方の四時に私は樹さんを迎えに行きました。夕方と言っても、まだ夏の終わりです。降り注ぐ日差しの中に夕方の欠片すら感じられませんでしたし、南中した太陽が残した熱は冷める事はありません。このまま夏が終わらない気がしたのは、そうあれかしと私が願っていたからでしょうか。


 四時半にタクシーが来るように手配をしていたので、樹さんの家から三叉路は十分くらいでしたから、まだ時間は充分ありました。


 私にしては華奢でお洒落な茶色のサンダルに青く縁取りされた花柄のワンピース、ハンカチ、財布と携帯しか入らないような籠バックを携えて、出会ってから少し伸びた髪を一つにまとめ上げ、少しでも樹さんに綺麗に見えればいいという願いと共に私は坂道を上りました。少しでも樹さんが目を止めてくれれば良い、そんな願いは私の足取りを随分軽くしたものです。


 お寺の前で汗を拭い、素足をくすぐる雑草に顔を顰めながら、細い道を抜けていきました。古びた柵を指でなぞり、樹さんを守ってきた戸を開け、縁側の樹さんに声を掛けました。


 普段より速い鼓動に少し声は震え、自分の発している声なのに、何故か遠くに聞こえたのを私は今も覚えています。柵の中に入ると嬉しさよりも、これから樹さんを連れ出すという緊張が強くなったのです。


 彼は私を軽薄だと思うかもしれない。こんな一生懸命に似合わないお洒落をして。戸を開けた瞬間途端に弱気になったのもその所為かもしれません。


 彼は命を懸けてここから出るのに、私はその意味を理解していないのだと思われるのではないか、と。しかしそれは杞憂でした。彼も、いつもの白い麻のシャツとゆったりとしたベージュのズボンでは無く、水色の半袖シャツに、細身の茶色いズボンを履いていました。お互い見慣れた服装でない事に驚いたのでしょうか、私達は暫し何も言わずに見つめあっていました。


 かっこいい、素敵、良く似合っている。気の利いた言葉が出れば良かったのですが、緊張の所為で生憎見惚れる、という事でしか感情を表せられなかったのです。樹さんも同じだったのか、見間違えでなければいつもより赤い頬を見ればそれだけで充分でした。


 緊張、喜び、それと他の良く分からない諸々の感情が、私の動きをぎごちなくさせ、指先を冷えさせていくのが分かりました。こんなに暑いのに、こんなに嬉しいのに、私は彼の隣に腰かけるのが精一杯でした。


 小さな声で似合っています、と言えば、少し照れたように彼が言いました。


「この服なんだけど、民生叔父さんが用意してくれたんだよ。孫の服だって言って。でもきっと買ってくれたんだね。叔父さんはそういう人だもの」

「きっとそうですよ。お爺さん、優しいから。最初は怖かったけど」

「確かにね。ちょっと無愛想だし。……ねえ、君の恰好も良く似合ってる」


 樹さんの言葉に冷え切った指先が、今度はじんわりと熱を持ち始めました。頬なんて笑われるぐらい赤かったでしょう。


 私達の間には出会った瞬間からいつだって別れが影を落としていました。それは今や背後にぴったりと張り付いて決して振り切る事は出来ません。ですが、この時程に別れがもたらす様々な感情から遠い瞬間はありませんでした。私がずっと夢見ていた願いが、そしてこの三日間何度も思い描いていた彼の手を引き、海を歩く姿が今から現実になるのです。


 ずっと並んでいる訳にはいきません。私の熱が冷めた頃、装飾品にしては質素すぎる腕時計が、もう少しで四時二十分を指そうとしていました。もう行かなくてはいけません。冷めた身体が再び強張り、暑いはずの外気が嘘のように、身体をめぐる全ての血液が冷えていきました。樹さんを柵の向こうへ連れ出す時がきたのです。


 行きましょう、と私が言うと、樹さんも緊張しているのか軽く頷きました。緊張すると、全ての感覚が鋭敏になるのか、私の後ろを歩く樹さんの足音が、いやに良く聞こえました。たった数歩だけなのに、私が歩く道以外全て足場がないような、樹さんが一歩でも踏み外したら二度と戻れないような穴に落ちてしまうような気がしたのを良く覚えています。


 私が戸を開け先に出ました。振り向けば、ちゃんと樹さんはそこにいました。けれど、本当に恐ろしいのはこの先です。


 どうか、消えませんように。どうか、この先の世界が樹さんを拒絶しませんように。まるで祈るように私は手を差し出しました。


 樹さんのひんやりとした手が重った時、全ての音が消え去りました。速くなり過ぎた鼓動は耳を塞いだだけでなく、全ての感覚を奪っていき、樹さんの手の冷たさも、次第に私の手か樹さんのものか分からなくなっていきました。


 樹さんを世界から隔てていた柵は、同時に彼を守るものであったとしたら。そして、この先全てが樹さんに害を与えるものだとしたら。嫌な想像が、手を強張らせ、樹さんの手を引く少しの力も私に与えてくれません。


 樹さんも躊躇いがあるのか、手を繋いだままで、直ぐに一歩を踏み出せないようでした。けれど、ここを出なければ海には行けません。


 嫌な想像を振り払うと、冷たい手に感覚が戻ってきました。私は弱々しくも、そっと手を引きました。それでもまだ彼をこちら側に呼ぶ事は出来ません。


 全て遠くなった、私達しかいない世界の中で、行くよ、という声がしました。そして彼は軽く息を吐き、私を見て頷くと、まるで薄い氷の上に足を乗せるようにそっと、柵を越えたのです。まずは片足、そして両足と、遂に彼は外に出ました。しばらく息を止めその成り行きを見てしましたが、繋がった手は冷たくとも、樹さんはちゃんとそこに立っていたのです。蝉の鳴き声が、一斉に響きました。私の世界に、樹さんがやってきたのです。


 たった一歩しか歩いていないのに、こんなにも嬉しいなんて。それが可笑しくて嬉しくて、私達は暫く笑い続けていました。


「何だか君に近づけた気がする。たった一歩柵の外に出ただけなのに、おかしいよね」

「全然。おかしい事なんてありませんよ」

「君と手を繋いで何処かに行けるなんてね。さあ、行こう。これからだから」


 今度は逆に樹さんが私の手を引いて歩き始めました。あの草に埋もれそうな細い道を、私が何度も一人で登っては降りた坂道を、こうして樹さんに引かれて歩いていると、たったそれだけのことが嬉しくて、それが毎秒毎に積もっていきました。何も変哲もない、歩き慣れた道に果てがこないよう祈るなんて誰が思うでしょうか。


 坂道を下りきると、手配したタクシーが止まっていました。運転手さんは有難い事に物静かでしたので、流れていく景色を見ながら、始終私に質問してくる樹さんとの会話が遮られる事はありませんでした。


 山を離れ、大通りを抜けそのまま国道へ。走れば走る程変わる景色の全てが彼にとって初めてで、珍しかったのです。これが、彼にとって最後の外出だと思うと、彼が無自覚のまま抱えていた途方も無い孤独を突きつけられるようでした。けれど、これからはもう彼は一人ではないのです。


 この三日間、私は浮かれながらも、彼に祖母の病室で決めた事を伝えようと考えていました。彼に嫁げばその途方もない孤独を全て癒す事が出来るとは考えていません。ですが彼の孤独があったからこそ私は彼に出会えました。これからは、今までの彼の孤独を意味付け、そして私の人生にも意味を与える為に二人で生きるのです。


 タクシーは幸いにも混雑に捕まる事なく、予定時間とおり、海辺のレストランへ着くことが出来ました。まだ、レストランは開店前ですから海でも散歩したらいかがでしょうか、と言う親切な運転手さんに七時ごろ迎えに来てもらうよう頼んで下りると、直ぐに海風が鼻をとおり、潮の香りと塩辛さを感じました。まだ海は堤防の向こうに隠れていますが、とうとう私達は着いたのです。


 運転手さんの言うとおり、レストランは開店前という事もあって、いつもは予約いっぱいで少し騒がしい通りには人の姿はありませんでした。私達は再び手を繋ぎ、海へと続く、堤防をくり抜くようにつくられたトンネルへ向かいました。


 トンネルを潜り抜けると、足元はコンクリートから沈む砂の感触に包まれ、鼻はいっそう濃くなる潮風を香り、止むことのない波の音は耳を揺らし、そして橙の光が滲んで揺れる海面へと眼前が一転しました。まさしく海がそこにあったのです。


 言葉では幾ら説明してもしきれない、そこに来なければ実感する事ができない。海とはきっとそんな場所なのでしょう。樹さんは走り出す事もせず、一歩一歩砂の感触を確かめるように、私の手を振りほどく事もせず歩いていました。


 こうしてゆっくり歩いていると砂浜というのは不思議なもので、体重分だけ沈む事はあっても、決して飲み込むような事はありません。アスファルトや硬い土の地面は歩みを支えるものだとすれば、砂浜は歩みを包み込むような感じがします。


 海は命が産まれた場所、とかつて学校で習いましたが、実際に海に来て、それを形作る全てに触れる度、実感できます。


 私達の身体にある水が少ししょっぱいのもその名残というのなら、樹さんが海を見てみたいと言ったのも不思議ではないのかもしれません。樹さんが鬼であっても、この世に肉体を持って存在しているのなら、やはり海から来たのですから。そして来たところへ帰るとするならば、もうすぐ逝く場所を見てみたかったのかもしれません。


 砂の感触に包まれながら、私達は波打ち際へと進みました。波打ち際までくると砂も固まり、歩みを包む事もなくなります。間近に迫る波の音は大きくても鼓膜を優しく震わせました。一定のリズムを刻むそれは心音の様で、何も話さずとも、いつもよりお互いの存在を強く感じさせるものでした。


 触ってみてください、と私が言うと樹さんはようやく、それでも人差し指だけですが、海面を掬いました。そうしてその指を舐めると、一言しょっぱい、と言ったのです。


 それが妙におかしくて、私は最初笑っていたのですが、そんな事も知らなかったのかと言う切なさも相まって、いつの間にか泣きながら笑っていました。樹さんも笑っていたのに私が泣き出した事に気付いて、じっとこちらを見ていました。


 涙を拭う為に繋いだ手をほどこうとすると、強い力で握られ、代わりに樹さんの私より太い指が流れ出した涙を払って、雫を乗せた指を口に含みました。そして、やっぱりしょっぱい、と言いました。


「僕が海に来たかったのは、君に出会ったからなのかもしれない」

「どうして?」

「うーん、人は海から来たって叔父さんが言ってたし、人間というのはどんなものか知りたかったのかもしれない。僕は鬼だけどさ、人と何が違うか分からなかった。知らなくて良かったしね。でも、君と出会ってから人はどんな存在なのか知りたくなって、だから君とどこかに行けるなら海に行きたかった。本当は君と外に出られるなんて思ってもみなかったんだけど」

「私も樹さんとどこかに出掛けられるとは思わなかった」

「……ごめんね」

「何で謝るんですか」

「君も、僕なんかに好かれなかったら良かったのにね」

「今更そんな事言わないで下さいよ」

「うん……でもね、最近よく思うんだ。もし僕が、君と同じ人間なら普通に出掛けてさ、結婚して、子供を育てて、叔父さんみたいに孫を見ることだって出来たかもしれない。そんな風に長い時間を一緒に過ごせて、色んなところで思い出を作れる。けれど、それは僕じゃない。鬼じゃない僕は違う存在だ。僕は僕である限り、決して人間にはなれない。だったら、僕が君を好きになっても、君はそれに応えなければ良かったのにって。僕を好きにならなかったら、君は誰かと皆に祝福される人生を送っていたのに」


 樹さんの覚悟が、目の前の海を揺蕩う残光のように現れました。やはり私と同じく、彼も今日、私に覚悟を告げるつもりだったのです。


 私は少し想像しました。鬼でない樹さん、つまり誰かと幸せに暮らす、もしもの人生の事を。それは彼の言うとおり、きっと皆が祝福してくれる事でしょう。父も母も姉も、会社の人たちも友人も、誰もがおめでとうと言って、死ぬまで幸せに暮らせるかもしれません。子供だって生まれて、色んな人に囲まれて。


 けれども、私が出会ったのは樹さんなのです。途方もない孤独を抱えた彼が私を必要としてくれたからこそ、私の小さな、けれど幸せの中でも癒される事は無かった孤独を満たしてくれたのです。樹さんではない誰かと一緒にいても、寂しい気持ちはずっと私の心の隅にあるのです。それなら、他の誰かといる必要はありません。樹さんといる方が、どんな結末になったとしても、祝福されなくても私は幸せだと言えるのです。


 太陽は沈み、気の早い星が、月より先に輝き始めました。しかし僅かに残っている太陽の光は、しっかりと海面を照らし、樹さんの顔を照らしていました。それを見ていると、例えどこにいても、結局は樹さんという存在に惹かれ、それは他の誰でもない私が導いた運命だと思うのです。


 私は自分の覚悟を、彼に告げるべき時が来たのだと思いました。太陽は沈み、海面に揺れる光は消えます。さようならなんて、私達にはあり得ないのですから。


「……なら、いっそ入水でもしましょうか」

「え?」

「誰にも祝福されないのなら、樹さんが私を木にしたくないのなら。私は樹さん以外と幸せになるつもりも、あなたを失う気もないから、だから」

「それは、駄目だよ。君は幸せになるべきなんだ」

「じゃあ私、あなたのお嫁さんになります。あなたのものにして下さい。それが私の幸せです」

「本気で言ってるの?」

「本気です。祖母が亡くなって、祖父を見ていたら思ったんです。大切な人を失った悲しみはいつか薄れるかもしれないけれど、その人がいた日々には戻れないし、その人を失った穴は空いたままなんだって。なら、私はあなたと一緒になって、どちらか分からなくってしまいたい」

「僕は、君を木なんかしたくない」

「木じゃないんです、お嫁さんにして下さい」


 樹さんにとって、私の突然の告白は予想外の事だったのでしょう。樹さんは全く黙り込んでしまいました。その間、いったい幾つの波の音が、私達の間を通り過ぎて行ったのでしょう。一つ、二つと数えてもやがてそれは、数えきれない程になり、太陽は沈んでいきました。


 そしてついには先に輝き始めた星の光を消すように、瞬くことがない強い光を携えた月が昇り、私達を照らし始めました。その日は満月でした。満月の夜は約束を果たす時、満願成就の時と言います。月が潮を満たし、満ちた潮が月を照らす。決して交わらないものなど、どこにもないのです。

樹さんがようやく口を開いたのは、海面に月が現れ、空と海に二つの月が昇った頃でした。


「君を好きにならなかったら良かった。父さんも、父さんだけじゃない、皆そうして……。結局運命は変えられないんだ」

「それも、私達で終わりです。私が最後になりますから」

「本当にそれで君は幸せなの?」

「幸せですよ。これ以上のハッピーエンドは無いってぐらい」

「本当は今日、さようならを言おうと思ってたのに」

「やっぱり。樹さん、運命なんて自分で選ぶんですよ。変えられなかったんじゃなくて、変えなくて良かったんです。だって私、間違いなく、幸せですから。あなたのお嫁さんにして下さい。一緒に生きましょうよ」


 答えは返ってきませんでした。ですが潮の香りが強く匂い、いつかのように、樹さんの肩が震え、そして彼は掠れた声で、僕は、結局君を木にしてしまうんだな、と言いました。彼は、出来る事なら私を木になどしたくなかったのです。それは私も充分に分かっていました。けれど、二人が一緒に幸せになる道はたった一つしかないのだとも、彼は分かっていたのです。


 私は指で先程の彼と同じように、流れる雫を一粒掬って口に含みました。涙は、私と同じ塩の味がしました。鬼の樹さんの涙は、本当は、しょっぱくなどなく、もしかして海風の味が混ざったのかもしれません。ですが、私とこの人はどこまでも同じなのだと思ったのです。


 木になるとはどんな感覚なのでしょうか。身体の自由が効かなくなり、雨の日も晴れの日も嵐に耐えなければなりません。なってみないと分からないところもあるでしょう、恐ろしくないなんて言ったら嘘になりますし、後悔する日もやがて来る筈です。


 もう二度と海の匂いも、砂や水の柔らかさを感じる事が出来ないのは寂しい限りですが、今この胸に溢れている感情が幸せでなければ、私は何を幸せだと言えばいいのでしょう。


 月だけが私達を見ていました。海が波の音に私達の言葉を包み沖へ流していきました。最早誰も、私達の答えを聞ける人はいません。誰にも信じて貰えない、お伽話のような私達はようやく一つになれるのです。今この瞬間、世界中で誰よりも幸せな二人だと、月と海だけが知っていればそれで充分でした。


 こうして、初夏から始まった全ての物語は終わりへと向かったのです。祖母は天国に旅立ち、そして樹さんへの嫁入りを私は申し込んだ事によって。


 海から帰ってきて、私はこれまでの事をまとめようと書き始めましたから、もう直ぐこの手記も終わりです。きっと、明日になったら私は百日紅の木になっているでしょうし、来年の夏になったらあの鮮やかな花を咲かせられるのを祈るばかりです。


 今、私は樹さんの家にいます。初めてこのようなものを書きましたから、全てを書き切るのは時間が足りなかったのと、今日ここに来るまでに起こったことで、私にはまだ書かなければならない事が二、三あったのです。


 実は嫁入りですが、直ぐには叶いませんでした。樹さんが思いもよらぬ事を言ったのです。樹さんに残された時間は僅かでしたから、海から帰ってきた後、直ぐに私は嫁入りを願いました。海へ出かけられた事は私にとって奇跡のようなもので、明日になったら夢のように消えてしまう、そう思ったからです。


 ですが、そんな私に樹さんはこう言いました。僕は君がもう一度来たら、君を花嫁にしよう、と。支度が必要だろう、と彼は言いましたが、私が心変わりするのを願っていたのかもしれませんし、最後の逃げ道を作ってくれたのかもしれません。それがどちらも正解のようで、怖くて聞けませんでした。


 一週間したらまた来ます、そう言うと、嬉しいような悲しいような顔をして更に樹さんは続けました。


「じゃあ賭けようよ」

「賭け?」

「一週間後まで僕が生きていたら、君を僕のお嫁さんにしよう」

「嫌です、今すぐにしてください。私達に時間なんてないんですよ」

「僕だって君をお嫁さんに出来たらどんなにいいかって思うよ。でもね、それと同じぐらい僕は君を木にしたくないんだ」

「だけど、一週間の間に樹さんがいなくなったら、」

「その時はその時だよ。僕は君が自由に生きていて欲しいとも思うんだ。例え僕がいなくても」

「そんなの嫌です!どうして駄目なんですか?」

「ねえ、みきちゃん。君がもし、僕と同じ境遇だったら今の僕と同じような事を思うと思うよ」

「そんな……」

「それにね、君にはさようならを言うべき人が沢山いる。お祖母さんを亡くした君なら分かるだろう?」


 樹さんの言葉はどこまでも正しいものでした。しかし明日いなくなっても樹さんはおかしくないのです。もし発作が起きたら。私は永遠に樹さんのお嫁さんになれないのです。あの色褪せた、たった一枚の花びらは箪笥の引き出しに入っているのでしょうか。もしかして、もう一枚も残っていないのかもしません。


「僕の最期のわがままだ。聞いてくれないか?」


 百日紅の真っ赤な花が、この夏は咲きませんでした。白でも桃でも駄目なのです。赤い花でないと、意味が無いのです。どうしてそれを樹さんは分かってくれないのでしょう。


 けれど、樹さんの願いに答えなければならないのも分かっていました。私を木に出来るのは樹さんだけですから、結局はこの賭けに乗るしかなかったのです。それに最期のわがままなんてずるい言葉を使われたら、答えは一つしかありません。


「樹さんにそんな事言われたら、はいって言うしかないじゃない」

「そうだね。ごめんね、僕は勝手だ」

「そうですよ。でも、私は絶対ここに来ます。その時、絶対樹さんは生きています」

「はは、君が言うとそうなりそうだ」


 私の為なんて思わなくていいのに。今すぐにでも木にしてくれればいいのに。それが紛れもない私の本心でした。


 受け入れられると思っていた私の覚悟は、一体どうなってしまうのだろう。熱くなったままの頭で樹さんの家を出ると、ひんやりとした空気に少し鳥肌が立ちました。

ようやく収まった昼の熱が地面から揺らぎながらも、山の空気は徐々に温度を落としていたのです。冷えた空気は私を包み、そのまますっかり暗くなった坂道を下りていきました。熱が冷めれば、不思議なぐらい現実が見えてきました。


―――お祖母さんを亡くした君なら分かるだろう?


 冷えた頭に樹さんの言葉が過ぎり、祖母が亡くなった後の様々な手続きの大変さを思い出す事が出来ました。―――樹さんの言うとおり、私には一週間でも足りないぐらいだったのです。ましてや、行方不明になるのですから。


 やるべき事、したい事。嫁入りと言っても、白無垢もウエディングドレスもいりません。私に必要なのはせめて残していく家族の負担を少しでも減らす事でした。


 樹さんは一週間後も生きているのだろうか。いえ、きっと生きているはずだ。慌ただしい日々の中で、何度も自分に言い聞かせながら一週間を過ごしました。


 お気に入りの服や大好きだった本を売る時、携帯やクレジットカードを解約する時も躊躇いませんでしたが、せめて白い服でも着て行こう、とよく母と連れ立って行ったデパートで、丁度綺麗なレースがあしらわれたワンピースを見つけ試着した時、初めて躊躇、いえ、自分のしようとする事について罪悪感を覚えました。そして、その時初めて嫁入りを辞めようかと思ったのです。


 父も母も姉も、皆探すでしょう。私は幸せになる為に、皆を一生傷つけ続けるのです。特に母は祖母を亡くしあまり日が経っていないという事もありますし、自由な姉に比べて母に寄り添ってきたのは私でした。


 私はなんて親不孝をするのだろうと、試着室の大きな鏡に映ったワンピースを着た自分を見ながら思いました。まるで誂えられたようにぴったりなワンピース姿は、母や父に見せる事はないのです。


 樹さんが鬼でなければ、私は両親にもっと豪華なドレス姿を見せる事も、孫の顔も見せる事も出来たのです。今更の後悔に、樹さんが何故私を木にしなかったのか、もし私が樹さんであれば同じ事をしたと言った意味が分かったのです。


 仕事など私がいなくても他の人がやれば良いですし、友人も私以外の大切な人がいるでしょう。けれど、家族の事を思うと樹さんの元へ行く事が悪い事であると思えてしまうのでした。


 結局買った白いワンピースを抱えながら、デパートを歩いていると、沢山の家族連れや、カップルとすれ違います。その全員が幸せそうで、罪悪感に苛まれているのは私だけなのでしょう。


 洋服を買い、美味しいものを買い、誰もが大切な人と過ごす為に添える幸せを探しに来ているのです。けれど、私にはすれ違う誰も羨ましいとは思えません。すれ違う人々の中に、私と樹さんの場所はないのです。


―――ああ、やっぱり、私は。


 目蓋の裏に浮かぶのは、百日紅の赤い花。どれだけ罪悪感に苛まれようとも、私は樹さんを選ぶのです。もう引き返せない、そんな理由ではありません。どんな道を進もうと、両親を喜ばせるような誰かではなく、出会う限り樹さんを選ぶのです。


 ごめんなさいと謝るだけで済むならどれだけ私や家族は救われるでしょう。私が幸せになる事が家族の救いである、そう信じるしか今はないのです。この手記を残す目的は樹さんの為でもありますが、母の為に私が幸せであるという証明を残したかったからでもありました。いつか母がこれを読んだ時、ただ私は幸せだったと分かってくれればそれで充分なのです。


 ワンピースを買ったその足で、母が欲しがっていたネックレスを買いました。あしらわれているのは優しく光るブラウンダイヤでした。私も好きなその石が、少しでも母の慰めになればいい、そんな気持ちだったのです。


 渡した時など本当に喜んでくれたもので、少しでも親孝行したいという思いからでしたが、罪悪感は消える事はなく、余計に募らせるだけになりました。それでも、私の代わりになって、母を守り癒すものになって欲しいという願いが伝わるといい、私には母がそう思ってくれるのを祈るしか出来ません。


 結局は、自由に生きる姉より私の方が親不孝者だったのです。誰からも祝福される恋をして、結婚をしたならそんな事はなかったのでしょう。けれど自分の気持ちに嘘はつけませんでした。二十年前から始まった誰にも秘密にしていたこの恋は、誰にも告げる事がなかったから実ったのだとも、今は思います。


 そうして、片付けや必要な人に連絡をして、日々を過ごしていくと嫁入りの日はあっという間にやってきました。何とか部屋はすっかり片付ける事が出来ました。携帯も解約し、今や部屋にあるのは、ベッドと細々した日用品、それに嫁入りの時に着て行く、白いワンピースだけでした。私が好きだったものは、もうどこにもなく、また残す必要はありませんでした。


 母や父が仕事に行くのを見送り、私は化粧をし始めました。化粧をしている最中、色づいていく鏡に映る自分の顔を見ながら、この数ヶ月前に起こった様々な出来事が脳裏に過っていきました。樹さんとの再会、祖母の入院、病室での事、祖父の事、祖母との最後の会話。一週間前の海の事。本当に色々な事がありました。何が起こるか人生とは分からないものです。


 誰かの為、そして自分の為に化粧をし、着飾って、ましてそれがお嫁に行く為にだなんて。誰かのために美しく装う、そういう事は滑稽にすら思っていたような気がします。人と言うのは何歳でも、心から揺さぶられてしまうと、築いてきた価値観なんて簡単に捨てられてしまうのなのですね。


 今までに出席した結婚式で、その日一等美しいのはどの式でも花嫁でした。特別な出来事は人の纏う雰囲気を変えてしまうのかもしれません。化粧を全て終え、髪を結いあげた私は、今まで一番綺麗に見えました。そして白い服を纏えば、人は誰も気付かなくても、立派な花嫁になりました。私が花嫁だと、たった一人が気付いてくれればそれで良いのです。


 全ての準備を終えると、鍵だけを持って家を出ました。ドアに施錠し、ポストに鍵を投函したら、ここには二度と戻れません。ほんの一瞬、ポストに鍵を投函する時、躊躇いが心の隅で生まれ、私の指を動かなくさせました。でも、それもたった一瞬です。次の瞬間にはポストに鍵が落ちてかちゃん、と軽い音がしました。


 罪悪感が尽きる事は一生ないのでしょう。それでも、私はやはり樹さんの元へ向かえるのが嬉しかったのです。昔話の見初められた娘も、きっと、樹さんのお母さんも、同じ気持ちだったと思います。誰もいない家ですが、門扉を通る時に私は振り向き、しばらく立ち止まりました。行ってきます、とはもう言えません。私はしばらくの間何と言えばいいか分からず逡巡していたのです。何度も言った、行ってきますも、ただいまも、私はここに置いていくのです。一番ふさわしい言葉はたった一つだけでした。


「さようなら」


 お母さん、お父さん、お姉ちゃん、さようなら。三人分のさようならは、その誰も聞くことはありません。鬼の花嫁のさようならは、誰にも届く事はないのです。それが黙って嫁ぐ罰なのかもしれません。


 樹さんの家へ行く道は静かでした。平日の午前中という事もあり、いつもなら微かに聞こえる公園で遊ぶ子供たちの声さえも聞こえません。ただそこにあったのは、始まりの日や再会の日に吹いていた涼しい風で、それが私を呼ぶように吹いていました。この風に導かれて全ては始まったのです。


 もし、二十三年前のあの日。私が公園に向かっていたら、樹さんとは出会わなかったでしょう。もし、初夏のあの日も、再びこの道を通らなければ、誰も傷つけず、けれど寂しいままに生きていけたでしょう。いずれにしても、私は山へ続く道を辿りました。そして樹さんに出会ったのです。今日で最後になるこの道は、他の人にとっては普通の道ですが、私にとっては運命の道でありました。


 風に手を取られるよう歩いていくとついに、三叉路に辿りつきました。公園と、山と、私の家を繋ぐ場所です。樹さんへの家に続く一本しかない道が、三つに分かれているように見えました。そのまま歩み続けようとしたのですが、無性に振り向きたくなり、立ち止まり家の方を振り返ると、小さくなった家が見えました。


 そして様々な思い出が小さな欠片となり私に突き刺さり、その欠片達が私を縫い止め、一歩も踏み出せなくなってしまったのです。まるで、家が母や父の声の代わりに、最後に私を呼んだようにすら思えました。


 小さな屋根の白い家、そこは三十年過ごし、沢山の思い出が詰まった場所です。私は欠片たちがもっと細かく砕けて、砂になって心の奥へと入り込んでいくのを感じました。私には行くべき場所があるのです。


 もう二度と思い出せなくなっても、私が樹さんに出会うまでの記憶が、私が人として生きた証となり残り、唯一の嫁入り道具へと変わったのです。それは、晴れの日も、雨の日も、冬の寒さも、夏の盛り、花を咲かせ、私が朽ちるまで私を支えてくれるもの。お母さん、お父さん、お姉ちゃん。私が残せるのは、さようならだけではないのです。ごめんなさいでもなく、「ありがとう」と。残していく全てに私が言えるのはそれだけでした。


 今まで見えていた三つの道が消えました。歩むべき道は、たった一つです。私は今度こそ前を向き、再び歩き出しました。そして樹さんの家に着くまで一度も振り向く事はありませんでした。


 夏の朝は、どうしてこんなにも清々しいのでしょう。暑さの予感を孕みながら、吹いてくる風は樹さんが私に与えてくれる風によく似ていて、いつだって頬に爽やかなものでした。

私を導く涼しい風が生まれる場所は、樹さんからでした。けれど初めてお寺に入った時、確かに涼しさを感じたのです。お寺も鬼の話に所縁ある場所ですから、何か感じるものがあったのでしょうか。


 私は家に行く前に、お寺へと行きました。樹さんの元へ嫁ぐ前にどうしてもお爺さんに会いたかったのです。この時間ならきっと掃除をしている筈だと思い境内に入ると、お爺さんは確かにいたのですが、いつもの作業服に箒をではなく、礼服を着てカメラを首に下げていました。


 そして私に気付くと、丁寧なお辞儀をしました。お爺さんは樹さんから話を聞いていたのか、私がこれから彼の元へ嫁ぐのだと知っていたのです。


「待っていたよ」

「知っていたんですね」

「ああ。樹が家で待ってる」

「良かった…」

「俺が死にゃさせないよ」


 そう言うとお爺さんが、泣きそうな顔で、それを笑い飛ばそうとするような大きな声で笑いました。

そして、私もお爺さんと同じ顔をしていた事でしょう。樹さんはちゃんと生きていてくれました。やはり信じていたと言っても、万が一の事を考えていなかった訳ではありません。その万が一が消えたのです。

―――これで彼と共に生きられるのだ。その事実に幾ら掬っても掬いきれないほどの喜びが溢れ、身体の全て、爪先までを満たし、見るものすべてが眩い太陽に照らされたように一層鮮やかに見せました。


「私が最後の鬼の花嫁になるんです」

「そうかい。さぞあんたは綺麗な百日紅になるだろうよ。なら、鬼の花嫁じゃない。百日紅の花嫁だ」

「百日紅の花嫁…、なんかそっちの方が良いですね」

「だろう?鬼の花嫁だと生贄みたいだが、あんたも姉さんも違うからな。……これから樹のところに行くんだろう?実は樹にあんたを連れてくるよう頼まれていたんだ。花嫁には付き人が必要だろうって」

「そうですね。お願いします」

「これで、立派な花嫁行列だな」

 

 もう一度笑うお爺さんの顔が、不意に幼く見えました。この日が特別なのは私と樹さんだけではなかったのです。お爺さんにとって、七十年前のお姉さんが嫁いだ日の心残りを果たす日でもあったのでした。たった二人の行列、しかも花嫁衣装も着ないで、誰も知らないまま鬼の元へ進んで行くものであっても。


 静かに進む私達を祝福するように境内の真ん中にある御神木が深い緑の葉を揺らしました。そして私達の背を押すように、寿ぐように涼やかな風が吹きました。


 この御神木の物語も、ようやく終わりがきたのです。人々に残るのは可哀想な娘の話であっても、生贄など誰もおらず、嫁いだ誰もが幸せであったという結末で。


 二人で進む短い行列は、静かに夏の朝を進みました。公民館を過ぎ、誰も気付かない細い道を通って樹さんの家に向かったのです。相変わらず伸び放題の草が足をくすぐる感触も、流れていく汗の感触も、最後だと思うとどうして不快だったものですら愛しく、かけがえのないものに思えるのでしょうか。


「樹」


 そして、行列も終わり、戸の前でお爺さんが樹さんに呼びかけました。樹さんは出会った日と同じく、かつて百日紅が花を咲かせていた場所に立っていました。―――賭けは私が勝ったのです。


「ありがとう、民生叔父さん」

「礼なんていらないよ。あと、これも持ってきた」


 お爺さんが首に下げていたカメラを軽く叩きました。一眼レフでしょうか、ずっしりとしたそれは家にあるデジカメより古く見えました。


 以前、樹さんが写真を撮りたいと言っていましたから、お爺さんに写真を撮るよう頼んだのでしょう。樹さんとの事は何も残せないと思っていましたから、写真に残せる事は私にとっても嬉しい事でした。


「これで、僕はやりたい事が全部やれるんだ」

「写真を撮ること、ですか?」

「そう、それと君と一緒になる事も」

「……私をお嫁さんにしてくれるんですね」

「今だって君を木にしたくはない。でも正直、やっと報われたって思う。僕が待った時間は無駄じゃなかったって。僕の花嫁になるのは、君しかいないもの。賭けは君の勝ち。最高の運命だ」


 そう言って樹さんが、私の手を引きました。この手で私は木になり、樹さんの花嫁になるのです。そう思うと、今まで私と樹さんの手が離れていた事が不思議に思えました。しかし、もう離される事はないのです。私達はどちらとも分からないようになってしまえるのです。


 私達はいつものように縁側に行き、そこで写真を撮る事にしました。私が縁側に座り、その傍に樹さんが立ち、そして私の肩に樹さんの手が置かれるという、良くある家族写真のポーズでした。


 お爺さんがカメラを構え、レンズを覗いた時、首を傾げました。そして、何かが足りないと呟くと、あっと思い出したように礼服のポケットから綺麗な髪飾りを取り出したのです。


「これ餞別、じゃないか、結婚祝いだ。あんたが持っててくれ」

「もしかしてこれって……」

「姉さんの髪飾りだ」

「そんな大切なもの貰えませんよ」

「いいんだ、いいんだ。頭ぐらい飾っておきなさい。今日は、あんたの一生に一度のハレの日だろう?」


 お爺さんが差し出したのは、透かし細工が見事な鼈甲の簪でした。それはかつて、樹さんのお母さんがお爺さんにあげたものだと直ぐに分かりました。着飾る事を知らなかった私の手元には、白い服に似合う髪飾りがなかったので、私の頭には何も飾りがなかったのです。


 どうしようか、と困って樹さんを見上げると、貸して、と彼は言いました。私が渡すと透かし細工を確かめるように、二三回撫で、そして私の髪に差し込みました。少しそれが重く感じたのは、樹さんのお母さんの気持ちが込められていたからかもしれません。


 私はお爺さんに背を向け、見事な鼈甲の簪が良く見えるようにしました。月光ではなく、夏の光の下に透き通って見える飴色が、お爺さんの記憶に残ってくれれば良い、そう思ったのです。


「どうでしょうか」

「三国一の花嫁だ。さあ、撮ろう」


 私は再び前を向き、樹さんは私の肩に手を置きました。一、二、三、というカウントの後、閃光が走り、その時を切り取りました。ウエディングドレスも白無垢も着られない私と、鬼である樹さんの結婚式は――式と言っていいのか分かりませんが――これが全てでした。


 永遠なんて誓いません。生まれ変わって、二人とも人間になって愛し合う来世も望みません。私が樹さんを好きである事、樹さんが私を望んでいてくれる事、それだけで良いのです。


 これで、私の書きたい事は全て書きました。それにもう直ぐ日が沈みます。そうしたら灯りのないこの家は真っ暗になりますから、そろそろ私も筆を置きましょう。


 色々書き綴ってきましたが、これが誰かの目に触れる時には、私は木になっています。これを読んだ人なら思わないと思いますが、もう一度だけ言わせて下さい。私が木になったのは、私が望んだことなのです。どうか、この結末を可哀想だと思わないで下さい。何もないあの白茶けた不毛の庭に、鮮やかな花を咲かせられるのです。どうなろうとも、全ての自由を喪っても、樹さんのものになれるのが本当に嬉しいのです。


 今、縁側から樹さんの声がしました。もう、行かなくてはなりません。みきちゃん、美木子、そう呼ぶ彼の声が私は大好きでした。その声に私は恋をして、それから何度も何度も、樹さんに恋をしました。


 今抱いているこの気持ちは何と言えばいいのでしょうか。愛というのであれば、それはとても素敵な事ですが、きっと私には永遠に分かりませんし、これを読んだ人がこの気持ちに名付けても、知る事はありません。


 この感情が仮に愛だとしても、それは些細な事であるのです。何故なら何度も言うように、鬼という特異な存在と人の間に愛が生まれた事を伝えたいのではなく、ただ想いの果てに木になった女が一人いる、それだけが確かな事実であり、私が伝えたい事なのです。

 

 ああ、もう一度、樹さんの声がしました。百日紅の赤い花を見たら、少しだけ私達の事を思い出して下さい。私達は幸せだと。


 山の向こうに、日が落ちていきます。全ての灯りが消えるのです。もう何も書く事はありません。あっても私の胸に秘めておきましょう。それはきっと百日紅の花を美しく咲かせてくれるでしょうから。

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