第4話
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樹さんと別れてから幸いな事に、忙しい日々が続きました。ホスピスに入った祖母の見舞いと、仕事の繁忙期が重なっていたのです。
樹さんの事は当たり前ですが、一晩寝たら大丈夫とは言えませんでした。けれど、もう二度と止まないかもしれないと思っていた涙は、家に帰ったら呆気なく止まり、何度も会いたくなって帰り道にあの三叉路に立ってみましたが、私を呼ぶ風は吹く事はありませんでした。そうやって私の生活から、樹さんの気配は徐々に遠くなっていきました。
忙しさという鎮痛剤が良く効いたのかもしれません。痛覚を鈍らせ、本来向き合うべき感情に蓋をする。そうやって根本的な解決をせず毎日投与される忙しさは、私を徐々に麻痺させていきました。そもそも忙しい事は本来良くありません。充実していると言えないのなら、身体も、心も疲弊させます。
仕事さえしていれば泣かなくていい。樹さんの事を忘れられる。けれど仕事にのめり込めばのめり込む程、鎮痛剤が切れる時、例えば、帰りの電車で樹さんを思い出してはその痛みに息が出来なくなりそうになるのでした。
祖母がホスピス病棟に入った事で、祖父や母の緊張は一層強くなったと思います。肝臓の機能の低下によって引き起こされる様々な症状は看病する方にもダメージを与えました。特に顕著だったのは、ホスピスに入ってから、はっきりと意思疎通出来る時間も随分短くなった事でした。そうやって明白に終わりがやってくるのが分かると、無責任な希望は消えていきます。
しかし祖母の前では母も祖父も明るく振る舞い続けていました。数ヶ月に渡る看病の疲れは蓄積していた筈ですが、もしかしたら、目を離した隙に祖母が死んでしまうかもしれない、そんな恐怖は、私にとっての忙しさが鎮痛剤であったように、祖父達の疲れを麻痺させるものだったのかもしれません。きっとあの頃、祖父や母にとって深い眠りにつく事は罪深い事だったのです。
少しでも母の助けになればと、私も土日だけではなく会社帰りに病院へ寄るようになっていました。弱っていく祖母を見るのは、想像より辛く、また二人きりになると、祖父や母の感じている恐怖が私にもやってくるのです。
けれど、何より苦しかったのは祖母を見ていると、どうしても樹さんの事を考えてしまう事でした。死に逝く人を看取るというのは、自分の生きている今を見つめる時間でもありました。そして私にとっての今は樹さんと切っても切れない程、その存在が占めていたのです。
ですから、祖母の側で樹さんの事を考える時、仕事の疲れも恐怖も鎮痛剤はなりませんでした。痛みや苦しみに否が応でも私は向き合わなければならなかったのです。
祖母の寝息を聞き、病室のクリーム色の壁紙や、窓から見える青々とした田んぼを見ながら、樹さんは何をしているのか。もしかしたらまた、あの発作に苦しんでいるのかもしれない。このまま一生会う事も無いのか。樹さんは、いや、私はそれで良いのか。そんな自問自答に「はい」や「いいえ」を当てはめながら、私はずっと問いを続けていました。
そんな作業を続ける事は痛みを強めるだけであり、思考が行ったり来たりと迷路を彷徨うようで、本当に苦しくなる時もありました。覚悟もない癖に、こんなに苦しくて痛いのは自分の心と逆の事をしているからに他なりません。過去を変えられないと分かっていても、樹さんを好きにならなければ良かったと出会いを悔やむ時もありました。
私は決して鮮やかな世界に生きてきた訳ではありません。樹さんに出会い、恋をして、世界が持つ本来の色を私は見ました。その色は樹さんと別れた今も彩度を落とす事はありません。どんなに樹さんの気配が遠くなっても、樹さんが私の人生から消える事はないのです。
今は祖母が一番、そう思っても意識は樹さんに向いていました。会っていないこの時の方が彼の事ばかり考えていたのです。痛みは生きているからこそ存在していると言うのであれば、好きという気待ちがある限りこの痛みは癒えません。
この痛みは、一生続くかもしれない。痛みを癒す方法はたった一つしかないのに、樹さんに会いに行く勇気も出ないまま、気付けば梅雨明けが発表され、本格的な夏が訪れていました。
身動きが出来ずに焦るばかりの私でしたが、意外な人が私の進むべき道を照らし出してくれたのです。それは、祖父でした。
梅雨の忘れ物のような雨が降った日の夕方、私が病院に行くと祖父が祖母の傍らで座ったまま眠っていました。それに気付いた私は静かに戸を閉め、そのまま祖父の反対側に座り、随分やつれてしまった寝顔を見ていました。
社交的で、話好き、少し見栄っ張りなところもあるけれど、祖父は私を良く可愛がってくれました。大人になってからも小遣いをくれたので、初めてボーナスを貰って祖父母にお年玉を渡せた時、やっと少しは返せたと思ったものです。
祖母の死が、徐々に現実へと向かっていけばいく程、祖父が不憫でした。祖父は、死へと向かう祖母を受け入れられず、疲れと混乱の所為で、母に酷い事を言った時もありました。以前ならそんな事は無かったのです。見栄っ張りで昔の人ですから、虚勢だったとしても、いつだってどんと構えていた人でした。大切な人の死は、例え何歳になってもそれ程に影響を与えてしまうものなのでしょう。
祖母の上下する膨れたお腹、その向こうの祖父のやつれた顔。そろそろ誰もが限界を迎えていました。一人だけ起きている病室は暗い海の底にいるようで、私を堪らなく不安にさせたので、申し訳ないと思いつつ、祖父を起こす事にしました。肩を軽く揺らし起こしながら、大丈夫?と声をかけました。大丈夫、だなんて私が言って欲しかったのです。
祖父は薄く目を開き、いつのまにか癖になったのか痩せてしまった頬を撫でながら、突然こう言ったのです。
―――生きているうちに、大切な人は大切にするんだった。いなくなるより、そっちの方が辛いんだなぁ。
良く来たな、ありがとう。といつも言う筈なのに、この時だけ違ったのです。寝ぼけていたのか、私を母だと思ったのかもしれません。祖父はそう言ってまた瞼を閉じてしまいましたから、何故そんな事を言ったのかは分かりませんでした。
死別より、辛い事などあるのでしょうか。大切な人を大切にしなかった、ああしておけば良かったという後悔の念は、この痛みのように尽きる事がないのでしょうか。
祖母と同じタイミングで寝息を立てる祖父を見ながら、私は、自分の事を考え始めていました。このまま何もせず、樹さんとの事を無かった事にしてしまう。そう出来たらどれ程楽でしょう。もし、それが出来たとして、この先の人生、一人でも何もない平凡で幸せな人生を生きるのだって悪くないでしょう。前に樹さんが言ったとおり、元に戻るだけなのです。現に胸が痛いと言っても、樹さんを思って泣きはしませんし、普通に生活を送れています。後悔なんて、今まで何度もしてきました。
―――今までの人生の、何が不満なの?
冷静な私が、何も間違ってはいないという顔をして言います。今までの人生に大きな喜びはないものの、大きな悲しみもなかったのは、選ばなかった選択肢があるからこそだ、樹さんを選ばない人生は、今までの人生を続ける事である、その方が幸せなのだと。けれど、祖父の言葉が冷静な私に問いかけるのです。
別れるより大切に出来ない方が辛い、そんな風に思える相手、祖父にとっては、祖母であり、私にとっては樹さんでした。
―――今までの人生に不満はない。でも、樹さんのいない人生にはもう戻れない。
例え、泣かなくなっても、胸の痛みに慣れてしまっても、私は決して樹さんを忘れる事など出来ないのです。後悔すると分かっていて、大切な人を蔑ろにする人がどこにいるのでしょうか?
明日、会社を午前で切り上げよう。そして、樹さんの元へ行ってみよう。どうなるか分からないし、拒絶されるかもしれないけれど。決めて仕舞えば、色々あった悩みは波が引くように、姿を消していきました。結局、最初から私の中に、答えはあったのです。
後悔をしないように大切にする事、それがどんな結末を導くのかは勿論その時は分かりませんでしたが、死別より怖いものがあるのなら、木になる事や樹さんの寿命さえも、些細な事に思えました。
樹さんに会ったら何を話そう。何をしよう。ああ、リップクリームを、忘れないようにしなきゃ。まず頭に浮かんだのがそんな事でしたが、それを渡せる、そんな事にすら私は喜びを覚えていました。
生きているうちに大切な人は大切に。この魔法の呪文は私の中にあった、一番望んでいた選択肢に光を当ててくれたのでした。
会社の昼のチャイムが鳴ると同時に鞄を掴んで飛び出し、一時間後。適当な理由を深刻な顔で上司に朝一で告げた私は、お寺の前にいました。息をあげ、汗のせいで化粧は落ち、随分みっともない姿でしたが、鏡なんて見る時間がもったいなかったのです。
しかし相変わらず運動不足の所為で、また、動きやすいパンプスも坂道を走る事は想定していないのか、足の裏は随分痛んでいましたし、すっかり上がっていた息は休憩を求めていました。膝に手を付いて、少し耳を澄ませば、昼でも静かなこの場所には自分の荒い息ばかりが響いていました。涼しい風は吹いていませんでしたから、立ち止まってみたところで汗が引く訳がありません。
多分、けたたましい靴音の所為でしょう、お寺からお爺さんが現れました。タオルを首に巻き、作業着を着ていたので、いつものように掃除をしていたようでした。お爺さんは私の姿を見つけると、驚いた顔が少し柔らかくなり、しかし直ぐに影がその顔を差しました。私と樹さんの間に何があったのか、お爺さんは知っていたのです。
顔を隠すようにタオルで頬を二、三回拭った後、お爺さんは言葉を探すように黙っていました。私に注がれる視線はあまりにも強かったので、耳朶を震わす蝉の声や、一番高い位置から降り注ぐ太陽の熱も遠ざけていきました。
「もう、あんたは来ないかと思っていたよ」
「私も、そのつもりだったんです。でも、やっぱりこのままじゃ」
「樹から聞いた。あんた、木にされかけたんだろう?」
「……ええ、すぐに治りましたけど」
「樹はな、もう二度と会わないと言っている。なぁ、本当にな、本当にこれ以上あいつと会うのは辞めた方がいい。引き返すなら今が最後だ。この先、あいつといてもあんたは幸せになれない」
「そんな事、どうして言うんですか」
「樹は、きっともう直ぐ死ぬ。樹の父親が姉さんの木に入る前と同じなんだ。いや、あいつはまだ樹を作る力があったが、樹は……。あの発作も今までにない頻度で起こってる。あいつの寿命はあんたが思っているより短い」
「そんな…」
「それでも良いのか?終わりが見えているのに、わざわざ辛い思いをする事はないだろう?あんたはまだ若い、他にだっている」
樹さんが、もうすぐ死ぬ。この時、その事実を真正面から突き付けられた時だったのかもしれません。そして、私が真正面から向き合った時でもありました。
けれどその事実は、酷く残酷ではありましたが、私を恐れさせるものではありませんでした。何故なら祖父の言葉があったからです。死別より、恐ろしいものがある。それは大切な人を大切にしなかった後悔だと。
「樹さん以外の人なんていません。だから私はここに来ました。来ないと後悔するから」
「本当にいいんだな?」
「はい」
「……そうか。なら、もう俺は止めない。木にされかけてもここに来るって事はそういう事だろう?本当はな、あいつの叔父として頼みたいぐらいだった。……そばにいてやってくれ。あんたが木にならなくても、どちらでも良い。あいつの最期を見届けてやってくれないか」
このとおりだ、とお爺さんは深々と頭を下げました。それは、私に頼む為だけでなく、お爺さんの表情を隠す為だったのかもしれません。何故隠したか、どんな表情をしていたかなどわざわざ知らなくていいものです。しかし私には見なくても分かってしまっていました。お爺さんも祖父と同じく後悔していたのです。
お爺さんだって、大切な姉の忘れ形見である樹さんを可愛がりたかった筈です。お姉さんを引き留められなかった後悔や、姉を木にしてしまった男の子供である事、また樹さんの成長が人間と同じそれではなかった所為で素直に可愛がれなかったのだと思います。
もし樹さんが普通の人間の子であったら。樹さんが鬼である事は、樹さん自身や私だけでなく、お爺さんも苦しめていたのです。変える事の出来ない受け入れ難い事実は、受け入れられなければ、重荷でしか過ぎません。
樹さんにとってそれは孤独に姿を変え、お爺さんにとって後悔という姿になって影を落としました。私にとっては、樹さんとの別離という姿でしょうか。
けれど、樹さんが鬼でなければ私はきっと彼に惹かれる事はなかったでしょう。私は、彼の途方もない孤独に絶望しながらも救われ、孤独のその先を知りたいと思ったのですから。
私はこの時、自分が木になる未来はないと考えていました。お爺さんも、樹さんがそれを望んでいなかったでしょうし、私にもその勇気がありませんでした。木にならなければ、樹さんは死に、私はまた一人になって平凡に見える人生を歩んでいくしかないでしょう。鬼に恋をした、そんな誰にも信じてもらえない思い出を抱えながら。
私はお爺さんの言葉に頷きもせず、乾いた地面をずっと見ていました。ざらざらとした地面は、梅雨も終わり本格的に夏がやってきたというのに、からからと白茶けていて、山々の緑とは対照的でした。それは樹さんのいる庭のようで、そして、私の今までの人生のようでもありました。
お爺さんの言うとおり、この時が樹さんと別れる本当に最後の岐路だったのだと、これを書いているとそう思います。もし彼を私の人生から追い出したら、どんな色に世界は見えたのでしょう。彼によってこの輝きがもたらされたというのなら、彼が去れば同時に彩度は落ち、見慣れた世界になるのでしょうか?
私は結局、樹さんのいない世界には戻りませんでした。しかし想像するだけで、今見えている世界は、急速に色を失っていきます。一度知ってしまった輝きが消えたら、もう二度と元の世界、樹さんと出会う前の世界には戻れないのです。色を知ってしまった私は、見えている色の中に失った色を探してしまうでしょう。
今まで、私の人生がつまらないものだったのは、誰かに必要とされなかった訳ではなく、与えられるばかりで、自分自身が誰かを慈しみ、心から大切にした事がなかったからではないかと今なら思えます。
それでも、また再び誰かを愛したとしても、樹さんを通して見えた鮮やかな世界は彼がいなければ二度と見る事が出来ないのです。幼かったあの日からずっと、百日紅の鮮やかな赤が焼き付いて離れなかったように、私にとって樹さんは永遠に咲く百日紅そのものでした。
私が顔を上げると、お爺さんは思ったより穏やかな顔をしていました。半世紀に渡ってお爺さんが抱えていた後悔が、私に託された気がしました。後悔を消す事は出来なくても、祖父やお爺さんの後悔は、私を動かすものへと変わったのです。
涼しい風が、再び吹き始めていました。その風さえあれば私は、二十年以上の空白があってもあの庭へ辿りつけたように、どこにいても樹さんの元へ戻れるのです。彼はずっと私を呼んでいてくれたのですから。
樹さんに渡す為に用意した、鞄の中でがさりと鳴るリップクリームが入っている紙袋は、走って来たせいでぐちゃぐちゃになっているでしょう。好きな人に会うような格好をしていない、今のみっともない私のように。しかし、一刻も早く樹さんに会いたかったのです。お爺さんに見送られ、細い道へ、ちくちくと刺す伸びきった葉を踏み、汗を拭う事もなく、今度こそ樹さんのいる庭に向かいました。
お寺から彼がいる庭はほんのわずかな距離です。それでも、足の速さが想いの速度に追いつく事はありません。公民館の横、細い道を駆けながら、ふいに目の前に七歳の私の姿を見た気がしました。その先には、あの庭を恐れながらも忘れる事のなかった孤独な私もいます。今まで生きていた全ての瞬間の私は、この道へと歩んでいたのだと、ようやく私は気付きました。今日ここにいるのは、偶然でも運命でもなく私の意思の導きに他ならないのです。
七歳の私を追い抜いた時、振り返ってみると不安な瞳ながらも、前を見据え、まるで目的地を知っているかのような足取りで進んでいる姿が見えました。今の私はいったいどんな瞳をしているのでしょう。七歳の私と同じなのかもしれません。いつだって私はここへと歩んでいたのですから。
やっと想いの辿りつく場所へ、身体が追いついた時には戸惑いなどどこにもありませんでした。
思いっきり古びた戸を開けると、一気に世界が鮮やかに生まれ変わっていきました。私の瞳が直ぐに縁側の樹さんを捉えたのです。
百日紅は枯れ、更に夏のせいで一層白茶けた庭は何もありません。それでも、その時の私にはこの場所が世界で一番美しく見えました。
「どうして、」
「来ました。……私、樹さんに会いに来ました」
示し合わせたように重なった声に、私は喜びを、樹さんは乾いた庭のような白い顔に驚きが浮かばせました。直ぐに消えてしまいましたが、驚きが私の大好きな笑顔に変わったその一瞬に私はどれだけ喜びを与えられたでしょう。樹さんも、私と同じ気持ちだったのです。
「手紙は?どうして来たの」
「読みました。でも、来ないと一生後悔する気がしたんです。樹さん、私、あなたの最期までここにいます。木になるとか木にならないとか、何にも考えていませんけど、樹さんが許してくれる限り、私を側に置いて欲しいんです」
「……僕がどんな思いであの手紙を書いたと思う?なぁ分かってくれ。君を木になんてしたくないんだ。どうして君は僕が必死に……、僕の二十年分の想いを簡単に乗り越えようとするの?」
「私だってずっと、二十年間あなたに捕らわれていました。でも、あなたがそう言うなら今度は私があなたを追いかけます。だから私達もう一度、始めませんか」
「始めるって、僕の時間は終わろうとしているんだよ」
「ええ、それでも。だって私達、今生きているじゃないですか」
手を少し伸ばし、私は樹さんの手に触れました。私を木に変えてしまう手。触れられるのが恐ろしかった筈なのに、今は何も怖くありません。樹さんの手に触れた時、今度は樹さんが震えました。しかし振り払われる事はなく、思ったより冷たい手の温度を感じていました。
私より冷たいその手は、何故か祖母の手を思い起こさせました。私が走ってきて熱かった所為かもしれないのに、いくら暖めても、どんなに外の温度が上がってもその手が私と同じ体温になる事は無いのでしょう。
「君はどこにもいかない?」
「行きません。来るなって言われても来ます」
「そっか……一人でね、死ぬのかと思ってた。少し、ほんの少しだけ怖かった。誰にも必要とされずに、誰かを必要とする事もなく、そんなの生きてるのも死んでるのも同じだと思ってたのに、いざ死ぬとなると怖かったんだ」
僕は人ではないのにね、と呟く彼は鬼である事にどれだけ苦しめられ、諦めてきたのでしょうか。決して手が届かないと思っていた樹さんの孤独が、言葉と体温に混ざりあって握った手から伝わってきたような気がしました。孤独に温度があるとするなら、樹さんの手の冷たさと同じなのでしょう。
小さく震え出した手を引き寄せ、私は樹さんの肩に頬を寄せました。その肩も震えていたのです。触れた頬に伝わる体温は、この酷暑が嘘のように低いものでした。
その震えと耳に降る小さな嗚咽を感じながら、もし私の体温を彼にあげられたらどれ程良いか、私達の境目などなくなってしまって、一つになってしまえばいい、そう心から思わずにいられませんでした。
どれだけ私は、樹さんのひんやりとした体へ自分の熱を移していたのでしょうか。震えが消え、嗚咽の所為で遠かった鼓動が聞こえ始めた頃、私達はどちらともなく手を離しました。泣き止んだ樹さんの目は薄赤く、随分と幼く見えました。
ひんやりとした身体から離れれば夏の容赦無い暑さが私を包んでしまいます。触れていた名残など何一つ残りません。
小さく鼻をすすり、樹さんが口を開きました。
「鬼はね、運命の人を手に入れると死へと近づく。老いが始まるって言えばいいのかな」
「老い?それってあの発作も関係あるんですか?」
「うん。僕たちは子孫を残す事について人より本能が強い。君なら分かると思うけど、あの発作もその衝動の一つなんだ。運命の人と出会うと、子孫を残す身体に変わるって言った方がいいのかな。命が短くなればなるほど、養分を欲するようになっていくみたい。養分を入れてやれば、その衝動も治るけど、いずれは…。この身体は子孫さえ残せば生きている意味が無くなるようになっているんだと思う。ね、君は小さい頃、鬼について何て聞いてたの?」
「母から、山の神様をわざと怒らせて風を吹かさせて、人を困らせていたって。それで鬼が見初めた娘を差し出したけれど、娘が山の神様に頼んで木になって…娘を失った鬼は死んでしまったって」
「そっか。君達の伝承は、半分は本当なんだね」
「半分?」
「鬼が風を操るんだ。もっとも僕はほとんど力がないから、何も出来ないんだけどね。あと木にするのは僕らだし」
「でも、樹さんのところに来ると涼しい風を感じますよ」
「本当?自分ではそんなつもりはないんだけど、なんか嬉しいな」
「あの、樹さん」
「うん?」
「自分で言うの、凄く恥ずかしいんですが…私が樹さんの運命の人なんですか?」
「そうだよ。出会ってからずっと変わらない」
「でも、出会わなかったら樹さんは…」
「出会わなかったら、ずっと寂しいままだった。民生叔父さんだっていずれはいなくなる。だからね君が来てくれて本当に嬉しかった。あの日も、今日も」
もしも、という言葉は何故あるのでしょう。もしもなんて実現しない事を思い描くのは、一体どんな意味があると言うのでしょうか。
もしも、私が樹さんと出会わなければ。何度も思った事がまた再び浮かびました。
運命の人、という唯一の存在である事は嬉しいのです。けれど、彼に死を運ぶ存在でもあるのなら、途端にその喜びは影を潜めてしまいます。もしも、彼と出会わなかったら、私の人生は寂しいままでしょう。けれど彼は確実に生きているのです。私の寂しさなど、樹さんの孤独に比べれば小さなものですから、その方が良かったのかもしれません。
けれど、出会わなければ、樹さんの孤独が癒される事はないのです。やっと得た私にとっての運命の人は、私のせいで消えてしまうのに、当の本人は出会えて良かったと言います。孤独のまま生きていても、癒されても結局一人で死んでしまうのは変わりないのです。
生まれてきた意味を見つけるまで、人は生きていないのと同じなのでしょうか。幸せになれないのでしょうか。私には分かりません。
けれど、どんな結末を迎えようと、樹さんと出会わなければと何度考えても、私にとってはどちらの人生が幸せなのかだけは分かるのです。
この時、私達はいくつかの約束をしました。この約束を書く為に、私は慣れなくてもペンを取ったと言っても過言ではありません。前書きが随分長くなってしまいましたが、これを書く事で樹さんが私を無理矢理木にしたのだと少しでも思われないように出来れば良いのですが。
樹さんとした約束は二つありました。一つ目は、私が会いに行くと約束した日、樹さんは必ず縁側にいる事。もし縁側にいなかったら、その日は会わない。二つ目は、発作が起きたら絶対に近付かず、私は庭へ出る事。それが私達の交わした約束でした。
この二つの約束は全てが樹さんからの提案だったので、彼が私を木にする事は望んでいなかったのは分かって貰える事でしょう。
約束をしてから、私が訪ねる時、樹さんが縁側にいない事はありませんでしたが、一緒にいる時に発作を起こす事が数回程ありました。見兼ねてつい、約束を私が破ろうとする度に、樹さんは、時には怒鳴りさえして、決して近づく事を許しませんでした。
かっこよくないところなんて、見せたくないから、彼はそう言いましたが、自分の為に私を犠牲にしたくないという思いが、痛い程伝わってきて、それが逆に私の中にあった彼を助けたいという気持ちを強くしていったのだと思います。
幸いな事に会社も夏休みの期間に入り、私の会社は夏休みが一週間程あり、好きな時に取れました、休日以外にも樹さんの元へ通う事が出来ました。
あの夏は最初に言ったとおり、例を見ない程の酷暑でした。しかし、樹さんの家には私をここまで導いた、涼しい風がいつも吹いていたのでした。
祖母の出来事と、樹さんの出来事はリンクしていたのかもしれません。祖母の病気が少しずつ悪化していったように、樹さんも少しずつ元気な時間が減っていきました。私がそれを受け入れられたのは、やはり祖母の事があったからでしょう。
この世にはどんなに手を尽くしても変えられない事がある。それの最たるものが、いつか死ぬ事で、人も木も鬼も、この世に存在している限り逃れる事は出来ません。その恐ろしい程の平等な事実は、人を簡単に打ちのめします。けれど、祖母の死へ進む道を共に進む事で、死を恐れ、抗うのではなく、死が変えられないのなら、いつでもない今を生きるしかない、そう考えが変わっていたのです。
蝉達が役目を果たし土に還り始める頃になると、お爺さんに頼んだのでしょうか、樹さんは縁側で私を待つ時は座椅子に座るようになりました。辛いのなら約束を変え、私を待つ為に縁側にいる事はないのです。そう言いたくても、そうなった時こそ本当の最後なのだと分かっていましたし、また、彼が縁側にいる限りまだ大丈夫だと思えたのです。
樹さんの具合が悪い時は、何を話すでもなく、私の膝に頭を乗せ、冷たい手を握って一日を過ごす事さえありましたが、それでも幸せだったと言ったらどれだけの人が信じてくれるでしょうか。
好きが深まれば深まる程、私達を隔てているものが邪魔に思えました。人はどんなに気持ちを通じさせても、一つになれる事はありません。けれど、私達には一つになれる方法がありました。
―――私が木になればいいのです。木になり、花を咲かせ、樹さんの養分になれば、どれだけ共にいられるか分かりませんが、一つにはなれるのです。あり得ない未来だった筈の選択肢は、思いついてしまえば、消えるどころか強まるばかりでした。
しかし、樹さんはそれを許してくれませんでしたし、私も残す家族の事を思うと、中々口に出す事は出来ませんでした。何より、祖母の死が間近に迫っている中で、私までいなくなったら母は酷く悲しむでしょう。
だから、樹さんの最期へと向かう道に私がいられる事を感謝しなければならない。―――そんな風に思っていました。
あの夏は本当に暑かったので、職場にある百日紅は花をつけるのを忘れているようでした。二階より少し低い背をしたその百日紅は私の好きな赤い花をつける筈ですが、葉ばかりで夏がいくら進んでも花をつける事はありませんでした。
夏の盛りに花をつけない百日紅は、いつ花を咲かせるのでしょうか。もしかして、この木の寿命が迫っているのかもしれません。何故なら、家の近くの百日紅は桃や白い花を咲かせているのですから。樹さんのこの先を暗示しているようで、私は出勤の度に花が咲くようにと願い続けました。
けれど、その夏、赤い百日紅が咲く事はありませんでした。