第3話
3
樹さんが鬼だと信じられないまま、梅雨の雨に濡れながら、祖母の病院に行かない日は秘密の庭へ通いました。樹さんとの時間は、祖母と過ごす時間に似ていたように思います。何を話す訳ではない、ただ側にいるだけ。お寺でお爺さんに挨拶をし、雨に濡れた草を踏み、細い道を通って、縁側に並び、雨の音を聞く。そして市の歌が流れるとさようなら。それの繰り返しでした。
樹さんが鬼だと知った日は夢だったのかと思えるほどに、それから特別な事はありませんでした。私は樹さんについてお爺さんから聞いた事を言いませんでした。言えないというより、まだぼんやりとした感覚でそれを捉えていたからでした。それは祖母が死なないのではないかという奇妙な希望と良く似たものだったと思います。信じられない事、それが受け入れたくないものなら尚更そうなるのも仕方ないと私は思うのです。人というのはお目出度いもので、大切な人に対して、大切になればなる程、目が曇ってしまうのですから。
梅雨の合間、少しでも晴れると私達は縁側に並びました。雨が上がった後、たっぷりと雨の匂いを含んだ空気や、夏を予感させる晴れやかな空気の匂い。緑の、青々しい匂い。樹さんの元へ訪れると、いつだってそんな匂いがしたものです。
違う場所で同じ匂いを感じる時、私はいつも樹さんを思い出していました。それらは私にとって単なる天気や気温によってもたらされる匂いではなく、樹さんそのものの匂いであり、同時にこれからやってくる夏を予感させるものでした。
夏はいつだって輝いて見えます。終わりがくるには似合わない季節です。小学生の時に夏休みが永遠に続くと思うような、梅雨の間だけの、まるで幻のような樹さんの匂いに、私はただ自分の願望を重ねていたのかもしれません。
そんな梅雨の間、何もないと思っていた樹さんの部屋から意外なものを見つけました。部屋の隅に何冊ものノートが綺麗に収められている箱があったのです。懐かしの漢字の練習帳、お絵描きのノート、または日記らしきもの、これは樹さんが見せてくれませんでした、そんなものが沢山出てきました。
樹さんの字は、練習を多く重ねたのか、今まで見た男の人の字の中でとても綺麗な形をしていました。しっかりと角張っているのに、柔らかな曲線の美しさ。私より、綺麗な字でした。見惚れるように私が漢字の練習帳を見ていると、少し恥ずかしそうに樹さんが言いました。
「おじさんがね、字を教えてくれたんだ。ひらがな、かたかな、漢字とか全部。ここから出ないから使わないとは思ったけど、今思えば自分の気持ちを残せるようになったのは感謝してるんだ」
「沢山練習したんですね。本当に綺麗な字」
「ありがとう。あとこっちにも……あ、これ」
「写真、ですか?」
「そう。……母さんの写真」
樹さんが箱から新たにノートを出した時、ひらりと落ち葉のように紙が私達の方へ落ちて来ました。ところどころ黄ばんで見えるそれは、振袖を着た女性が写っていました。随分劣化してはいましたが、写真の女性は樹さんによく似ているのが分かりました。
その姿は、お爺さんに樹さんのお母さんの事を聞いた時、私が水溜りに見たその姿にとても近く、優しそうな笑顔や、意志の強そうな口元は、しっかり写真に残っていました。樹さんを知っていたからこそ、私は見たことの無い姿を思い描けたのです。
「これしか、母さんの写真はないんだ」
「凄い大事なものじゃないですか、どうしてここに?」
「五年前、母さんが死んだ後にしまったんだ。寿命だって分かってたのに、居なくなってみると母さんの姿を見るのが辛くなってね。寂しかった。本当に一人になってしまったって」
手の中の写真にじっと視線を注ぐ樹さんの横顔は、私の中に遣る瀬無い気持ちを募らせました。五年間、この人はどんな気持ちで生きてきたのか、本当に一人になってしまった寂しさは、私が想像するより辛いものに違いないとは分かります。けれども、私が樹さんでない限り、「寂しさ」の全てを理解する事は不可能なのです。
どうしたって、この人の孤独を知れても、それを消す事は出来ない。けれど、無力さを感じながらも、彼が私の中に降り続く雨から救い出してくれたように、私も彼のその先に進みたい気持ちはあるのです。その先に進めば自分の不甲斐なさに失望するかもしれません。もしかしたら、先に進んだところで樹さんを拒絶してしまうかもしれません。好き、側にいたい。それは確かにあるのですが、それと同じだけ相反するような感情だってあるのです。「好き」だけではどうしようもないのだと私も徐々に気付き始めていました。
「でも、今は君がいる。だからもし、この先君がいなくなっても、きっと今を思い出せばいつだって幸せだと思える」
樹さんはそんな事なんてとっくに気付いていたのでしょう。写真そっくりの笑顔で、彼が言いました。何一つ悲しくないという顔をして。もし樹さんがどこにも行かないでと言ってくれるのなら、この遣る瀬無さは消えたかもしれません。私は彼に必要とされている安心感や、別れなどないという幻想を信じられれば、一時の誤魔化しにはなります。
何もない日々の合間の中で、一つだけ分かった事があります。彼の言葉にはいつも、「さようなら」が含まれているという事です。必ず別れが来ると樹さんは強く信じていたようで、彼が仄めかす時、それは逆らえない確実な未来としてやってくる、そう聞こえるのです。
さよならを拒絶するような強い覚悟もない私は、このどうしようもない感情を抱え、いつも苦しんでいました。大切な事は言葉にしないと伝わらないのに、いつだって私は何と言えば良いのか分からなかったのです。この時もそうでした。愛おしそうに指先で写真をなぞりながら、樹さんは言いました。
「いつか、君と写真を撮りたい」
「私と?」
「君といた日々が嘘じゃなかったって思えるから」
「そう、ですね。いつか撮りましょう」
私は、ずっとあなたの側にいます。そう言えたならどんなに良かったのでしょう。呑み込んで違う言葉を言うぐらいなら、誤魔化しでもいいから少しでも彼の慰めになる嘘だって許される筈です。けれど、もし私が樹さんとさよならをした後の彼の孤独を考えると嘘など吐ける筈がありませんでした。
私達の未来に向き合わなければならないとは分かっていても、私はこの夏が永遠に続くのだと信じたかったのです。
お爺さんの言葉、樹さんの寿命や宿命を忘れた訳ではありませんが、やはりどうしても目の前にするとそれらが現実味を失ってしまうのです。ある意味どうでも良いと思っていたのかもしれません。好きだから、その強い力に縋ってしまえば、それでいいと。
このままでは、良くない。いられない。それは分かっていました。分かっていたのに、何もしなかった私は愚かでした。経験不足などと言えばそれはただの言い訳です。もしこの時、私が覚悟を決めていたら沢山の思い出を作れていた筈でしょう。樹さんだけでなく、残していった家族にだって。
私が目を瞑る事を選び続けたのは、余命数か月の祖母に比べ、確かに樹さんは元気な姿に見えた事もあります。
しかし生きる糧である百日紅は数年前に枯れていました。ですから本当は終わりがいつやって来てもおかしくはなかったのです。先延ばしにしていた問題は、先に延ばせば延ばす程、私達に大きく迫ります。「ずっと」「永遠」など、この世にはどこにもありません。夏休みに終わりがあるように、鬼の樹さんに寿命があるように。既にこの時には私が恐れていた決定的な出来事が古い柵を越え、縁側へとやってきていたのです。
それが起きたのは写真について話した次の週、わざわざ買ったレインブーツも足に馴染んできた、梅雨も終わりの頃でした。いつもどおり雨の中、家を訪れたのですが、樹さんは必ず縁側で待っていてくれるのに、姿が無かったのです。
不思議に思いつつ、雨脚もかなり強かったので、今日は中で待っているのだろう、そう思って傘の雫を払い、名を呼びながら薄暗い部屋を覗きました。そこにはいつものようにちゃぶ台と、二枚の座布団がありましたが、樹さんの姿はありません。
電気もないこの家は薄暗い雨空の下では何もかもがはっきりとは見えませんでしたので、スマホのライトを点け、部屋を照らしました。白い強い光が、ちゃぶ台、座布団と照らし、そして、先程は見えなかった部屋の奥に人の足を照らし出しました。
樹さん、と自分でも驚くほど大きな声で呼んでも、反応はありません。傘を投げ、ブーツを脱ぎ捨て、暗い室内に入れば、樹さんは仰向けに倒れていました。眉間に皺をよせ、荒い呼吸をしているのを見れば、誰にだって彼の身に何か起こっていると分かるでしょう。この庭に、誰かを呼ぶのは本意ではありませんが、そんな事は言ってられません。
救急車を呼ぼう、そう思ってスマホの電話ボタンを押した時、まるで遮るように私の右手首を樹さんが握りました。思わず画面からそちらへと顔を向けると、半分閉じた目蓋から覗く瞳と目が合いました。樹さん、今救急車を呼びますから、そう言おうとしましたが、それは喉の奥で悲鳴に変わりました。樹さんに握られた右手首から例えようもない熱を感じたのです。そして酷い眩暈も。足元がぐらぐらと揺れ、何かに捕まっていないと立っていられない程のものでした。樹さんが私の手首を握っていたのは、一分もなかったでしょう。しかしその間、熱さと眩暈が収まる事はありませんでした。
手が離された時、まず思ったのは恥ずかしながら樹さんの無事ではなく、手首が焼け落ちてしまったのではないか、という事でした。それだけ熱かったのです。痛みで感覚が麻痺したままの手を恐る恐る見てみれば焼け落ちてはいませんし、火傷もしていませんでしたが、また私は悲鳴をあげることになりました。あのお爺さんのように、私の手首が木になっていたからです。肉の柔らかさは消え、百日紅の、滑らかな樹皮がそこにはありました。
人は初めて身に起きて実感するというのなら、まさにその時、私は身を持って樹さんがあの昔話の鬼であると実感したのでした。
樹さんはいつの間にか目を覚ましていたようで、そして直ぐ、私の悲鳴に何が起こったか分かった様子でした。軽くパニックになっている私を見て、何かを、後で聞いたら百日紅の花弁だそうです、口に含み、再び私の手首を掴もうとしました。
またあの熱さと目眩、木に変えられてしまうのかと思うと恐ろしさが勝り、手を払いのけましたが男の人の力には勝てません。樹さんはごめんね、ごめんねと謝りながら私の手首を掴むと、やはり再び熱と目眩に襲われました。今度は樹さんが支えてくれていましたが、激しい揺れに加えパニックもあって吐き気が止まりませんでした。
樹さんが右手を離すまで、私に記憶はありません。気がついたら、今度は私が介抱されるような形になっていました。直ぐに右手首を見ると、木になった筈の手首はすっかり戻っていたものの、恐ろしさと気持ち悪さは中々収まりませんでした。あれは見間違いだったのか、いや、確かに私の手首は木になっていたのです。
「ごめん…本当にごめん」
「何あれ、どうして…」
「僕が鬼だから」
「本当だったんだ…」
「本当だよ、信じたくないけれど」
気に入った女を木にしちまう。お爺さんの声が頭のどこかで響きました。目の前の、細身の男の人は昔話の鬼だったのです。人は見かけによらないんだな、とまだ鎮まらないパニックの中でそんなぼんやりとした事を思ったのを良く覚えています。
この人を好きである事、この人に好かれ、求められる事。それは私がどこかで夢見ていた甘さより、現実は苦く、覚悟を要求するものでした。
樹さんの足に仰向けで頭を預けていたので、視界には樹さんの顔がしっかりありました。もっと色々な表情が浮かんでいると思ったのですが、案外穏やかな、どこかすっきりしたような顔をしていました。
「もう、ここに君は来ない、よね」
「え?」
「君は民生叔父さんに会ったんでしょう?ほら、お寺をよく掃除している、母さんの弟。僕の事全部話したって言ってた。だから、君にした事の意味分かるよね」
樹さんの視線で、私は無意識のうちに、右の手首をさすっている事に気付きました。今はすべすべと柔らかな肌の感触がします。しかし、滑らかと言っても血の通わないあの感触は中々消える事はありませんでした。
もしこのまま樹さんの事を好きでい続けたなら、確実に私は木になってしまうのでしょう。この恋は決してハッピーエンドにならないどころか、自分の全てを差し出さなければならないと思い知らされたのです。
幾ら経験が無くてもそれでも良い、そう即答できる程子供ではありません。仕事、家族、大人になればなるほど、捨てられないものが増えていきます。樹さんの事が好き、だからそれで良いとは言えませんでした。
答え合わせをするのなら今しかありません。樹さんが鬼である事を現実として受け入れた今、お爺さんが言った全てを樹さんの口から聞きたかったのです。
「樹さんは、木を食べるんですか?」
「……木しか食べられないんだ。母さんの木だけ。葉や花を食べてたんだけど、枯れてからは何も。あ、でもさっきの発作みたいなのがあった時だけは母さんの残してくれた花弁や葉を食べて、何とか」
「もし、それが無くなって……発作が起きたら」
「分からない。でも、無事ではいられないかな」
「それって、あなたはあまり長くないってことですか」
「そうだね。いつかは分からないけれど、そんなに長くないのは確かだよ。父さんは母さんが僕を産む時の養分になったけれど、僕には誰かの養分になれるような力はないし」
「さっき、どうして私の手首は、その…」
「養分を貰ったんだ。本当はそんな気は無かったんだけど…気付いたら。それが僕の本性なんだよ。怖かったかい、なんて聞くのは愚問か」
「そんな事、ない」
「気を遣わなくていいよ。だから、もう来なくて良い。いや、来ないで欲しい。君に嫌われるのは死んでもごめんだから」
「樹さんは、どうなるの」
「何も。戻るだけだよ」
寂しくないんですか、とは聞けませんでした。寂しくないなんて、ないのですから。私が現れる前から、私が現れてから、私が訪れるようになった今でさえ、どんな時も樹さんは寂しいのです。この人の孤独を癒すなど、私が側にいるだけでは無理なのでした。
側にいたい、私は確かにそう願いました。その気持ちは変わりません。けれど、樹さんが人間でない事、恐ろしいと思ってしまった事はそんな願いに影をさすものでした。恋というのは好きだけで良いのであれば、私は何も悩まなかったでしょう。しかし、好きのその先を望むのなら、好きだけでは上手くいかないのです。
「好き」が消えそうな時でも、その人と共にいたいと思える、何か。私はそれをなんと名付ければいいのか未だに分かりません。そうするしかなかったという言い訳。ずっと一人でいた彼に対する同情。どうであれ、まだ完全に収まらないパニックの所為で、思考は揺れ、その時の私には何も判断出来ませんでした。
頭を預けている彼の太ももから伝わってくる熱は心地良いもので、私との違いは分かりません。眼鏡越しの二つの目も同じ黒で、高い鼻も、薄い唇も、私と同じ物です。どんなに彼を見つめても、違いは見つかりません。でも、樹さんは鬼だと私にははっきり分かってしまっていました。
もし私が、恋愛経験が多かったら。彼を慰められたのかもしれません。すっぱりと綺麗にさようならを言えるのかもしれません。けれど実際はこれが初めての恋なのです。だから、もし、とどれだけ思ったところで上手く立ち回る事は出来ないのです。身体は心に引きずられます。考える事も億劫なら、身体を動かすのも酷く億劫でした。
「もう少しこのままでも、いいでしょうか」
「良いけど、君は僕が怖くないの?」
「正直怖いです。樹さんの事も、樹さんがいなくなる事も。これからどうしたいかなんて分からない。お爺さんが言うとおり、私達が二度と会わない事がきっと正解なんだと思います。でも、正解だからって言って自分の心と一致する訳じゃない」
「そうだね」
「だから今はこの先の事を考えたくないんです」
「…ありがとう」
樹さんはそういうと、静かに薄い唇を結び、それを戸惑うようにゆっくりと、私がそう見えただけかもしれません、寝ている所為で露わになった私の額に下ろしました。唇が触れる瞬間、伝わってきた微かな震えを打ち消すような、恐怖と驚きで肩が少し跳ねてしまいました。無意識のうちに右手首を擦り続けてしまったように、喜びよりそちらの感情の方が勝っていたのです。
樹さんの唇は思ったより柔らかい感触でしたが、水気のない唇に、次来る時はリップクリームを持ってきてあげよう、そう思いましたが、直ぐに「次」という言葉の曖昧さと冷たさを胸の奥に覚えました。
「ごめんね、僕に触れられるの恐いよね」
「そんなこと…」
「ううん、僕が悪いから」
やはり唇が額に触れた瞬間、微かに震えた身体に樹さんは気付いていました。次に来る時、と考えたものの、次にここに来るかどうかなど、今は判断できないのです。次に樹さんの元へ来るか来ないか、それは完全に私が判断する事でありました。そしてその判断によって全てが変わる事を恐れていました。この先なんて、誰にも分かりません。樹さんへの恐ろしさが生まれた今、ずっと現実から目を逸らしていた私が、必ずまたここに来るとは言えなかったのです。
木になりかけたという確かな事実が、大きく私の心に影を落としていきました。樹さんとの未来を心から確信するなんて出来なかったのです。ですから何も考えたくない、未来など無くていい。それだけが、偽りのない私の本心でした。
どれだけ私は樹さんに頭を預けていたのでしょう。雨の中を市の歌が流れました。私は身体を起こし、目眩がない事に安堵しながら今度は樹さんと一緒に表に出ました。また、とはお互いに言いませんでした。私は樹さんに来なくて良いと拒絶されるのが怖かったですし、樹さんも、私が二度と来ないと覚悟していたのでしょう。
手を振った後、一度も振り返らず細い道を抜けていく中で、どんどん気持ちが萎んでいくのが分かりました。例えまた私がここに来たとしても、それは樹さんを喜ばせる事でしょうが、結局のところ、私のしている事は決断の先延ばしには変わりありません。
確実に来る樹さんがいなくなる未来に目を瞑り、今自分がしたい事しか見ないまま、ここに来る。この先何が起きるか薄ぼんやりとは分かっているのに、覚悟もなく、また来ようと思うのは不誠実な気さえします。
樹さんのお母さんのように、決断を迫られた時、私は本当に樹さんを選ぶのでしょうか。「側にいたい」だけしか確信の持てない私は、まだ確かなものを探さなければなりませんでした。
百日紅の木になって、樹さんの側にいる。ぼんやりとしか見えていなかったその未来が色付き、輪郭を持ち始めると、見えなかったもの、見たくないものがはっきりと見えてきます。改めてクリアになった未来を見た今、それを受け入れる自信がありませんでした。
行きたくない、行きたい。行かなければ、このまま樹さんを無かった事に出来る。けれど会いたいとも思う。でも会えば、現実を見なければならなくなる。帰ってからずっと考えましたが、結局どちらの決意も付きません。
樹さんは私とは全く違う存在である事が、樹さんの事を知れば知るほど、全てにおいて重くなっていったのです。木になるとはどういう事なのか。あの雨の日、お寺でお爺さんが言った言葉の意味がやっと今になって染み込んできたのでした。
木になりかけた次の日、私は丁度休みを貰っていました。天気は昨日と打って変わって梅雨の休み、と言っても梅雨も終わりを迎えていましたから、最近は晴れの日が多くなっていました。
今までなら喜んで樹さんの元へ行っていましたが、昨日の事を思い出すと何一つ決められていない事実も相まって、本当の事を言えばいっそこのまま、と思ってしまったのも事実です。眩暈と吐き気、百日紅の幹の無機質な滑らかさ。その全てが生々しく残っていました。
行きたくなかったら、行かなくていい。仕事で悩んでいる時、母は私によくそう言いました。やりたくない事を無理にしなくていい、自分のしたい事を最優先にしなさい、というのは、母の口癖で、悩みがちな私はその言葉に何度も救われたものです。ですが、母はこうも言っていました。本当にしなければならない事があるなら話は別よ、休む癖はつけても逃げ癖はつけるな、と。
樹さんに会いに行く、というのはしたくない事です。このまま行かない事が最適解なのかもしれません。けれど、二十年以上一人で私を待っていた人にさようならも言わずに、フェードアウトするなどしたら、私はきっと死ぬまであの庭に捕らわれ続ける事になるでしょう。覚悟が持てなくても、誠意は持たなくてはなりません。
もし、今日何も「確かなもの」の欠片の一つも見つけられなかったら、ここまでにした方が良い。だから、これが最後になるかもしれない。そんな小さな覚悟だけを持って、私は樹さんの元へ向かいました。
縁側のある平屋、そして広い庭。もし家を建てるならそんな家が良かった。そう思うのはこの家を幼い頃に見て、強く惹かれたからでしょうか。私の平凡な人生で唯一特異な、きっと誰にもない出来事をくれた家でした。ここに至るまで、心の中でずっと降り止むことのなかった雨は、ここを手放せばまた降りだす事でしょう。けれど、それはお互い様です。いえ、樹さんの方が深い孤独へと帰らなければならないのです。
私が訪れた時、樹さんは少しだけ驚いた顔をしましたが、直ぐにいつものように迎えてくれました。この人の事が私は本当に好きなのだ、と顔を見ると嫌になる程分かります。樹さんは私に嫌われるのが怖いと言いましたが、いっそお互いに嫌いになれたら良かったのです。運命の人だなんて、どこにもいなかったのだと。
晴れやかな空が広がっていました。私は「確かなもの」を探しに来たのですが、どちらかというとさようならを言いに来たという気持ちがこの時、強かったと思います。
私達には語る程思い出がありませんでした。この白茶けた庭だけが、私達の世界でしたから、どこにも行ったことが、柵を越えた事すらなかったのです。ですから、もし、樹さんと手を繋いでどこかに行けたなら、そんな叶うはずのない願いがつい口をついて出てしまいました。
「もし、君とどこかに行くんだったら……海が良いかな」
「海ですか?」
「ああ、緑ばかりに囲まれていたからね。空の青じゃなくて海の青を見てみたい」
きっと広いんだろうなぁ、と樹さんは呟くと直ぐに君は?と聞いてきました。
私が樹さんと行きたい場所は、沢山あります。けれど、どれか一つと言うのであれば、ずっと、特別な誰かと行くのを憧れていた場所であり、私が一番好きな場所が浮かびました。
「城址公園の桜並木です。本当に綺麗なんですよ。満開の時は昼も夜も。でも一番綺麗に見えるのは日が落ちる少し前で、提灯と夕焼けの色に浮かぶ花弁が白く見えて」
「きっと綺麗なんだろうね」
「はい。ずっと憧れてました。好きな人が出来たら私の好きな場所に一緒に行って貰うのが、ずっと」
「そっか……きっと簡単だっただろうね」
「え?」
「僕が普通だったら。僕が、叶えてあげられたら良かったのに」
「樹さん…」
「あ、ごめんね。残念でつい。 出来ない事ばかり思っちゃいけないとは思うんだけど」
やっぱり、ね。と庭の方へ視線を向ける樹さんに何も返さないまま、私は少しだけ目を閉じ、夕焼けの中の桜並木を思い浮かべてみました。橙、桃色、薄い青、そんな色が溢れ混ざり合う空の下に桜の花弁はぼんやりと提灯の灯りを受けて滲みます。桜の薄桃が溶けたように見えるこの時間が一番美しいのに、誰も気に留めず歩いていきます。官公庁が集まっているからか、この時間は家へと急ぐ人々が通るので、頭上にある美しい風景に気付いていないのでしょう。それに桜目当ての観光客も、夜桜見物に備えているのかその時間は、あまり見当りません。道の両側に植えられた桜は空を隠すようで、急ぎ足の人々の中、私だけがそこをゆっくり歩いていました。
お城の堀を囲んで植えられた桜を全て見るとなると、それなりの距離になります。夕焼けの中、ここを歩く時は決まって私の気持ちは焦燥感にかられるのです。何故かは今も分かりませんが、ここを歩くとそんな気分になるのは幼い頃からでした。美しい桜が散ってしまうのが惜しかったのか、それとも、こんな美しい景色を二度と見られないのではないかと思ってしまうからでしょうか。不思議な事に、樹さんと共にいる時にも同じような感情を覚えるのです。
私は思い浮かべた桜並木に、樹さんと歩く姿を描こうとしました。
樹さんの顔、首、肩、腕、指先から足まで私は思い浮かべられるのに、どうしても桜の下、一緒に歩く姿を思い浮かべようとすると全てが遠くなっていくのです。いくら想像しても、私は桜の下に一人のままでした。
―――きっと、私はここを樹さんと歩く事はない。私は、また一人に戻る。
ずっと目を背けてきた事実が今、確実な未来となって私の前にはっきりと現れた瞬間でした。私は、樹さんの側にいる為の「確かなもの」を探しに来たのに、見つけたのは樹さんのいない未来でした。
さようなら、もうここには来ません。そんな事を私は言えるでしょうか。いえ、言わなくてはなりません。樹さんをまた孤独の淵に落とすのですから、私だって傷つかなければならないのです。
「君は桜が好きなの?」
「……はい。季節が過ぎる時は寂しいですけれど、散ってもまた咲きますから。あ、でも百日紅も…百日紅は私にとって特別な花です」
「そうだね、全ての始まりの花だ」
「私、百日紅を見る度、ここの事、樹さんの事を思い出していました。きっとこれからもそれは変わらないと思います。だから、」
「ありがとう、それだけで充分だ」
樹さんはやんわりと、けれどこれ以上私が何かを言うのを制するように言いました。樹さんは私がここに来ないと決めたのを分かっていたのです。
「それ以上は言わないでくれ。君が言う必要も、傷付く必要もない」
だから今だけは、何も考えないで。いいね、と言われてしまえば、私はそのとおりにするしかありません。それ以降の私達は白茶けた庭のように静かなままでした。
外の世界では梅雨はもう直ぐ明け、気の早い蝉が鳴き始めています。しかし、この庭の中で生まれた私達の世界は歩みを止めようとしていました。
樹さんが鬼でなければ、私達の未来はどこへでも広がっていたでしょう。城址公園の桜並木を何度だって見られた筈です。
もし樹さんが人だったら。私は再び桜並木を思い浮かべました。今度はぼんやりとした姿が浮かびます。けれど、それは輪郭を保つ事はありません。鬼ではない樹さんは、私が一緒に歩きたい人ではないのです。彼が鬼であるから、一緒にいられないのに、私が好きなのは鬼である樹さんでした。
この世界が終わる時、どんな音がして、どんな色が満ちるのでしょうか。決して交わらない海の青と空の青は溶ける事があるのでしょうか。
私達の世界の終わりは、いつものように市の歌が連れてきました。古びたスピーカーから精一杯の大きな音が、反響を重ね、曲の調べを歪ませます。そして空の色が透明になり、それとは逆に山の端の色が濃くなれば、私は帰らなければなりませんでした。
「今日は、もう帰ります」
「うん。そうした方がいいよ」
「樹さん、私、もうここには」
「美木子さん。僕がね、百日紅が枯れてもここまで一人で生きてきたのは、君がいたからだよ。いつか会えるって。だからそれ以上は言わないで。期待させていてよ。ずっとその時まで」
「そんなの、」
「いいから。君はいつものようにここを出ていってくれ。あとね、これ。家に帰って読んで欲しい」
「……分かりました」
「うん。じゃあ、気を付けて」
戸を開け、樹さんがそっと私の背中を押しました。そんな強い力ではない筈なのに、躊躇いつつも背を押すという行為は、ここを出たら二度と入れないのだという事実を雄弁に語っていました。
いつの間にか、彼から渡された手紙を強く握りしめていた事に気付いた私は、慌てて手を緩めたのですが、それに気を取られている間に戸は閉まり、樹さんは背を向けて古い平屋へと歩き出していました。その後ろ姿に、喉の奥で樹さんと、呼び掛けた声が市歌を流すスピーカーのように響いて響いて、やがて歪んでいきました。上手く言葉に出来なかったのです。そして私はその時に、自分が泣いている事に気が付きました。
泣いても自分が決めた事です。泣くぐらいなら、覚悟が出来たら良かったのですが、結局私は、樹さんがいなくなるのをこの目で見たくありませんでした。けれど木になるのも恐ろしかったのです。私は遠くない未来にやってくる結末がどうしても受け入れられませんでした。
大声で泣き叫ぶ訳にもいきません。静かにただ涙を流しながら、私は緩い坂道を下りていきました。家に真っ直ぐ帰る気持ちには到底なれません。五時を過ぎたと言っても季節は初夏を過ぎています。子供達がまだいる公園へと足を運びました。
男の子や女の子の、同じ声の高さが響く公園は住宅街の中のものとしては意外と広く、遊具も広々と配置されています。ですから、ベンチも多くあり、子供達を見守る親御さんから離れ、誰も気を留めないだろう位置に座れるベンチがありました。
ここに来るまでも絶える事のない涙を払い、少し空を見上げて涙が乾くのを待っていましたが、結局乾く事はありませんでした。もう泣き止む事は諦め、私は先程握り締めて皺になってしまった手紙を開きました。シンプルな白い封筒に入ったそれを取り出して見れば、樹さんの綺麗な字がぼやけて見えました。
美木子様へ
貴方がこの手紙を読む事が無いように願っていましたが、読んでいるという事は、やはり僕は貴方を木にしかけてしまったという事なのですね。
きっと美木子さんは僕を、怖いと思った事でしょう。もう関わりたくないと思ったかもしれません。嫌われても、僕がした事を考えれば仕方ない事です。気に病む事はありません。けれど貴方は優しい人ですから、そう言っても、例えば、僕を嫌いになって僕から離れる事を選んでも自分を責めるのでしょう。
僕はそんな美木子さんの優しさに付け入ってしまった。いけないと思うのに、その心地良さが気持ち良くて、会えば会う程、貴方から離れたくなくなった。だから、自分の欲望に負け、気持ちも考えずに木にしてしまったのです。
もし、本当にもし、まだ貴方が僕を好きだと思っていてくれたなら、どうかもう僕の事は忘れて下さい。貴方は、鬼のものになる為、木に変えられる為生まれてきた訳ではない筈です。自由に生きて、もっと幸せになる選択肢を選んでください。
貴方は僕には勿体ない程、百日紅より鮮やかな世界に生きる人です。僕のような日陰に生きるものには眩し過ぎた。貴方自身のその優しさや、心の広さ、全てが、本当に眩しかった。
だから僕と共にいるより、貴方は皆に祝福される人を選んで下さい。僕と貴方はここでさよならをするのが正解なのです。
僕達はもう会えません。とても悲しい事ですが、あの夏の日、貴方に会って良かった。貴方を二十年以上待って本当に良かった。それぐらい貴方は素晴らしい人です。どうかそれを忘れないで下さい。
樹
もう二度と吹く事はない涼しい風がふいに、涙の跡を乾かすかのように撫でていきました。目や頬に感じるひんやりとした感覚は痛い程で、まるでこれを書いている時の樹さんの痛みを教えられたような気さえします。
樹さんは、やはり随分前からさようならを考えていたのでした。私が浮かれている時も、この気持ちがあれば大丈夫だと盲信していた時も、このままではいられないと分かっていたのです。
いっそ、私の気持ちなど無視して、力づくでも木にしてくれれば良かった。鬼であることは変えられませんし、私と住む世界が違うと言うなら、そうしてしまえばいいのに、自分の生きる糧を手放してしまうぐらいに、彼は優しいのです。
あんな人とは二度と出会えない。それだけが、その時の私がはっきりと分かる事でした。