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百日紅の花嫁  作者: 遠野まひろ
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第2話


 最初に症状が現れたのは足のむくみでした。まるで捻挫したかのように足の甲や指が腫れ、歩くのが大変そうだったのです。祖母は糖尿病を患っていましたので、二月に一度必ず病院での診察を受けていましたから、お医者さんに相談するよう言ってはいたのです。しかし祖父も祖母も頑なに年だからしょうがないと言い張り、私達家族のいう事を聞いてくれませんでした。


 そして、とうとう足の腫れだけでなく、腹水が溜まり始め、もう誰の目で見ても祖母が病気である事は明らかになっていました。それでも、祖父も祖母も医者に行こうとしませんでした。家を出て他県に住んでいた姉も帰って家族全員で説得に当たり、渋る祖父に病院の診察を予約させたのです。その日は土曜日だったので、月曜に診察を受けたのですが、そのまま入院でした。


 どうして祖父も祖母も病院に行くのを渋ったのでしょうか。いえ、渋っても私達がどんな手を使っても診察を受けさせるべきだったのかもしれません。とにかく祖父も祖母も、最期まで病院に行かなかった理由を言いませんでしたし、私達も聞きませんでした。

 もって三か月、けれど正直なところいつ容体が変わるか分からない、とまるでドラマのような台詞を言われた私達は、途方にくれ、残された日々に怯えながら、祖母の病室に集まっては普段通りを装うしかありませんでした。


 もっと早く分かっていれば、誰しもがそう考えていましたが、そんな事は誰も口に出来ませんでした。その言葉は祖母や祖父を責める言葉であったからです。祖母自身は後悔している様子はなく八十も過ぎた、寿命だと良く言っておりましたが、そうだねとはやはり言えませんでした。


 入院というのは、本人はもちろん、看病する側も大きな負担を負います。祖父も八十五を過ぎていましたので、面会時間の最初から最後まで祖母の側にいるのは無理でした。とは言え私達家族全員にも仕事があります。それでも母は仕事が終わると電車に乗り、七駅先の最寄り駅で降り、そこからバスで病院に向かっていました。


 母は仕事に看病にと、どんどん疲労を貯めていき、更に祖父から辛く当たられる事もあったようでした。なので、せめて土日ぐらいは私が行けば母の負担も少しは軽くなると思ったのです。幸いにも母は三姉妹の真ん中でしたので、最初のうちは上手く噛み合わないところもありましたが、自然と三人の中でローテーションが出来るようになってきました。とは言え、土日が以前のように自由に使うのは難しい状況である事には変わりありません。樹さんに会って説明したいと思っても、中々その機会は巡っては来ませんでした。


 祖母が一番最初に入ったのは、ベッドが空いていないという事で、産婦人科の病棟の、しかもナースステーション前の病室でした。新生児の声が微かに聞こえる事もあり、また病棟も新しく出来たばかりだったので、明るい雰囲気が少しだけ私達の心を軽くしてくれました。


 入院したその週に会いにいくと、祖母は思ったより元気な姿だったことを良く覚えています。おばあちゃん、と声をかけると軽く手を振って、来てくれたの、と言いました。実際会ってみると、祖母が三か月しか生きられないとは到底信じられませんでした。

 病室で祖母は全ての中心でした。全ての会話は祖母を通して行われ、何をするにも祖母を喜ばせる事を皆がしていました。祖母は私が良く食べる姿が好きだったので、おやつを食べ、かつて作ってくれた料理の話をずっとしていたような気がします。祖母の高菜漬け、塩むすび、ハンバーグ。まるで思い出の答え合せをするように私は、いいえ、皆がそれぞれ話し続けました。


 祖母の容体はゆっくりと悪化していきました。その緩やかさは私達に覚悟を決める猶予を与え、同時に奇妙な希望を抱かせました。つまり、祖母は死なないのではというあり得ない希望です。祖母は何時容体が悪化するか分からないと言われていましたが、治る事は無くとも、素人目には現状維持がある程度続くと、平気でないか、つまりずっと側にいなくてもふとした瞬間に死んでしまう事はないと、祖母の死からほんの少しでも逃げる事が出来たのです。


 私がようやく樹さんの元へ行けたのは、そんな奇妙な希望が生まれ始めた頃でした。その日は母も家に居て、祖母には申し訳ないですが、やっと普通の日々に戻ってきたような気がしました。本当は朝一番にでも樹さんの元へ行きたかったのです。しかし中々タイミングが悪く、やっと散歩に行ってくると言えたのは昼も過ぎた頃で、もうすぐ雨が降りそうな鈍色の空と私の顔を見比べた母は少し怪訝な顔をしました。


 けれど、雨が降っていたとしても私は行かなければならなりませんでした。雨が降るなら傘を持っていけばいいのです。まだ梅雨の最中、午後は雨の予報でした。傘を携え、雨がいつ降ってもおかしく無いような鈍色の空の下、私は走って百日紅の庭に向かいました。走り慣れていない身は直ぐに重くなり、息をあげ、何度も膝に手を付けながら、私は走り続けました。あの寂しい庭に、今は青空すら見えない場所に、一人で樹さんはいるのです。それに比べれば息が上がっているなど些細な事で、いつも上がった息が恥ずかしくなってお寺に行くのですが、お寺へは向かいませんでした。


 公民館の脇を抜け、道を埋める草に足を撫でられ、古い柵が見えて着た時の気持ちを表す言葉は今も見つけられません。ただ、会いたかったのです。数える程しか会っていない人をどうしてここまで思えるのか、自分でも分かりませんが、確かにこの時、ようやく私にとって彼がどんな存在なのかを思い知ったのでした。

 息切れをしても走り続けた所為で、喉から風を切るような音がしました。それでも半ば倒れるように戸を開き、中にはいると、何もない庭に荒い息だけが響きました。


樹さんは、かつて百日紅があった場所に、ぼんやりと立っていました。その姿に何と声を掛けていいか分からず、私は名も呼ばないで立ち尽くすだけでした。息が上がっていた所為ではなく、息が整っていたとしても、分かってしまった気持ちを言葉にするのはきっと出来なかったでしょう。


 樹さんは突然現れた私に驚いた顔をしましたが、しっかりと私を見ていました。きっと言いたい事は沢山あったでしょうが、その視線は私を責めるようなものではありませんでした。それなのに樹さんを見ていると私に出来る事は急に来なくなった事を謝るしかないのに、謝る事さえ烏滸がましい気がしたのです。

 また来ると約束したのに、それを破るという事の重さは、樹さんを二十三年も待たせていた事実よりも重いものでした。やっと叶った彼の願いを奪う事であり、それは簡単に彼を孤独と絶望の海の中に沈めてしまうものだったのです。


「もう、梅雨だね」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい、私、」

「今日は雨が降る。傘は持ってきたかい?」

「樹さん!」

「……君は来てくれたんだ、それだけで十分だよ。さあ、雨が降ってくるかもしれない。今日は中に入って」


 どうして人は、心が読めないのでしょうか。表情や言葉、雰囲気で読み解くしかないのでしょうか。せめて好きな人の心ぐらい分かれば無駄に傷つくことも傷つける事もなく、適切な言葉で慰める事が出来るのに、大事な人になる程心が見えなくなるのでしょう。


 会いたい気持ちで一杯だった筈の心は雨が降ってきたように、違う感情へと濡らされていきました。私は樹さんの言葉にただ頷き、傘を立てかけ、沓脱石へ靴を置くと縁側から古い平屋に入りました。


 部屋の中に入った瞬間、私はまたも立ち尽くす事になりました。外から見て古い平家だとは分かっていたので、中もそれなりに古いだろうとは思っていました。なので、室内が古い事に驚いた訳ではなく、部屋が汚かった訳でもありません。むしろその逆というのでしょうか、部屋に入った瞬間あまりにも殺風景過ぎたのです。


そもそも間取りが縁側から入った部屋しかなく、もしかしたらトイレぐらいはあるのかもしれませんが、見渡す限り台所はありませんでした。冷蔵庫や、電子レンジ、テレビやラジオなど、私達が生きていく上で必須であろう日用品の類が一切ないのです。あるものと言えば使い古された箪笥にちゃぶ台と、座布団が二枚あるくらいで、その光景は異様としか言いようがありませんでした。


 いったい彼はどうやって生きてきたのでしょうか。この家に私を上げたと言うのは、それを説明する為だったのでしょう。改めて彼は私が知る誰とも全く違うのだと分かり、私はついに樹さんに対する疑問を聞かなければいけない時がやってきたと思いました。樹さんも、言わなければならないと分かっていたのです。立ち尽くす私に、樹さんは座布団を勧めてくれました。私は動揺していましたが、取り敢えず座るしかなかったので、ちゃぶ台を挟んで樹さんの正面に座りました。


「驚いたでしょう?正直、君を家に上げるのは勇気がいったよ。全てを話せば君は来てくれなくなるって。……いや、聡い君はもう気付いて、だから来なくなったって」

「そういう訳では、」

「そうなの?そっか。でも、君は僕がおかしいって思わなかった?」

「…少しだけ」

「気を使わなくていいよ。……もう分かってると思うけれど、僕は君に言わなければいけない事がある」

「……はい」

「君は僕が鬼だって言ったら信じてくれる?」


 おに、と言う音が言葉に変わるのには時間が必要でした。僕がおに、と言われて直ぐにその意味を把握するにはあまりにも馴染みが薄かったのです。ようやくおにが鬼、となりそこで初めて昔話の鬼が頭に浮かんできました。例え幼い頃から聞いていた話だとしても、私にとってそれは母が私を山から遠ざけるための、とっくに効力が消えたお呪いだったのです。


「鬼……、鬼って昔話の、あのお寺の木の」

「そう、その鬼の子孫。どんなに人間と交わっても決して人間にはなれなかった存在だ」


 二十三年も変わらない容姿に、現代との感覚のずれ、「誰にも見つからない」と言う言葉、そして普通の生活に必要なものが無い部屋。鬼だなんて揶揄われていると思うしかないのですが、樹さんが人ではない存在だとすれば、私が感じた違和感は解消されます。人間では無い何か。それなら私達と違う生活をしていて当然です。ですが、当然と思いながら現実感があまりにも薄かったのも、また事実です。


 例えば、もし樹さんが鬼の姿をしていたら、私はまだその事実を受け入れていたでしょうが、彼には角もありませんし、樹さんはどこをとっても人の形をしていました。柔らかそうな髪も、白い腕も、私を怯えさせるものはありません。良くある絵本のような鬼の姿とは程遠いのです。


「僕は鬼だから、君と何も交わらない。物も食べないし、人里に下りた事もない。生まれてからずっとこの庭と家しか知らない。でもあの日、君が現れてから世界が広がった気がした。君の事を知りたいと思った。もう一度会いたいとずっと思っていたんだ。だから、君が再びここに来てくれた時、僕がどれ程嬉しかったか。君の事を聞けば聞く程、僕と君の違いが分かるのに、嬉しくて、何も語れない自分が悲しかった。君に対する感情は、母さんに対する感情と似ているのに、まるで違う。今だってどうしていいか、分からないんだ」


 静かな口調には不釣り合いな強い言葉は、私の戸惑いを越えていく、強い力を持っていました。確かに彼の存在に対して、いくら好きだと言っても信じられない気持ちがありましたが、彼が吐き出した想いには嘘がないと信じる事が出来たのです。


 誰とも交わる事無く、たった一人で持ち続けた名も知らぬ感情を真っすぐにぶつけられたら、嘘を疑う事など出来ません。人の心は真実と言うものに酷く弱いものです。例え、過去の経験からどんなに塗り固められていたとしても、簡単に本心をさらけ出させ、嘘の弱さを知ってしまうのです。


 私は彼の事が好きですから、その時はもちろん今も嘘をつく気などありません。しかしこの時、彼の告白によって一層、どこまでも彼の前では誠実でありたい、そしてその気持ちを向けてくれている限り、答え続けていたいとむしろ願ってしまう程でした。何があってもこの人の前では誠実でいたい。そんな事を思ったのは今までの人生で一度もありません。けれども樹さんはそんな私の考えを知る由はなく、少し俯いて、こう言いました。


「僕は、君が来なくなる事が怖い。でも、君がここに来ないのは自由だ。それが酷く悲しい」


 待つしかない、というのは酷く不自由で、孤独な事です。けれど、自由であっても行く当てがなければ、その意味はありません。私がここに来ないのが自由であれば、彼が戸を閉ざすのだって自由なのです。彼に違和感を覚えながらも、私はここに来たかった。彼が待っていてくれなかったら、どれ程辛い事でしょうか。完全に俯いてしまった樹さんに変わって、今度は私が伝える番でした。


「樹さんは私が来なくなるのが怖いって言うけれど、私はここに来たかった。理由があってちょっと来れなくって…。本当にごめんなさい。あの、それに、上手く言えませんけど、今の私にとって樹さんが誰かなんて、そんな事はどうだっていいんです。それより樹さんがどう思っているか聞けて嬉しかった。それが私と一緒で、また来ていいんだって、今はそれだけで良いし、本当に凄く嬉しい」


 今の時代、高校生でももっと上手く気持ちを伝えられるでしょう。ただ、これでも一生懸命だったのです。飾る事も整える事も出来ない程だったのです。誰の好意も受けず、抱いた好意を告げる事もせず生きてきた私にはこれが精一杯でした。


いい歳をした大人には似合わない、子供のような告白でしたが、私達にはお似合いでした。樹さんは、何も知らないと言いますが、私だってそれは同じです。ご飯を食べても、人に混じって生活していても、そこに何も感動を覚えなければ何も知る事はありません。樹さんと出会って世界が輝き出したのなら、私も今から世界を知るのです。


私の言葉に、樹さんが顔を上げてくれました。どんな拙い言葉でも、彼を喜ばせ安心させられればそれで充分なのです。彼は驚きながらも喜びが溢れ、待ち望んでいたニュースを知ったそんな顔でした。きっと私も同じような顔をしていたのでしょう。


 そんな風に私達の間にはっきりとした空が現れた頃、天気予報が見事的中し、現実の空からは雨が降り出しました。鈍色の空は色濃く、雨が上がる気配がまったくなかったので、もう一度彼が、傘を持ってきたかい?と心配そうに聞きました。開け放した窓から雨の匂い、土や緑が濡れる匂いがよく香ったのを覚えています。

お互い言いたい事を言ってしまった所為で、雨音ばかりが耳につく程、私達は黙り込んでいました。そうすると、徐々に雨音が激しくなるのが分かってしまいます。傘をさしても全く濡れずに家まで辿りつくのは難しそうな程、雨脚は強まっていきました。


 まだ市歌が鳴る時間ではありません。しかし、彼はもう今日はお帰り、と言いました。遣らずの雨とは言いますが、ここは山の中です。遅くなれば遅くなる程、天候は悪化する恐れがあります。彼はそれを心配したのでしょう。それでも、私は帰りたくありませんでした。今日の次は全くの未定、いつここに来られるか分からず、祖母の事を帰る前に言わなければならない事が辛かったのです。やっと想いを伝えられたのに、会えなくなる事を伝えなくてはならないのは心苦しいですが、黙っている訳にはいきません。

実は祖母の具合が悪い、そう長く生きられないので面倒をみたいと伝えると、樹さんは顔を少し歪ませました。樹さんを傷つけたくはありませんが、仕方ありません。


「毎週は来られなくなりそうなんです。ごめんなさい、頑張って時間を作りますから」

「いや、無理はしなくていい。理由があるなら、会えなくたって君に嫌われたと思わなくていいだろう?それだけで十分だよ」


 顔を歪めた事に気付いたのでしょう、取り繕うように樹さんは笑いました。会えないのを残念に思っていてくれているんだと私は思いましたが、それにしては何か、その表現に違和感があるような気がしたのです。しかし、その時は何かとは、はっきり分かりませんでした。彼がそんな表情をした理由は、もちろん残念な気持ちもあったでしょうが、違う理由があったのです。樹さんはこの時まだ、私に言ってない事があったのでした。


 祖母の話を済ませると、樹さんに見送られながら私はまた細い道を辿りました。相変わらず空は鈍色のまま、雨脚も弱まる事はありません。それでも浮かれていた私は、スキップは流石にしませんでしたが、一昔前に流行ったお気に入りの恋の歌でも口ずさみたい気分でした。人を好きになる事はこんなにも嬉しいものなのかと思う程、足にまとわりつく濡れた雑草の不快さも、心細くさせる強い雨音も、何一つ私の喜びを奪いませんでした。

ーーー樹さんが隠していた秘密が、私達の青空を覆う暗雲になって現れるとは知らずに。

そんな舞い上がるような幸福感は細い道を歩むほんの僅かな時間しか続きませんでした。雨雲より、もっと暗い全てを流す豪雨を降らすような雲が、隠れていたのです。公民館の横を通り過ぎようとした時、それは現れました。


お寺で会ったお爺さんが、いたのです。その表情は酷く険しいもので、私を待っていたのは間違いありませんでした。驚きのあまり浮ついた気持ちは消え、雨に打たれた身体のように、さっきまであった筈の熱が冷えていくのが分かりました。そして、私はお爺さんの言葉を思い出していました。この先は崖だから行ってはいけない、と。お爺さんは崖がない事など知っていたのです。


「あんた、この奥に行ったのか」

「……はい」

「誰に会った」

「……」

「あいつはあんたが思っているような男じゃない。鬼だ。酷い目に会うぞ。もう二度とここに来るな」

「鬼だなんて……それに酷い目なんて、あの人はそんな人じゃありません」

「あんたは何も分かってない!あいつは鬼なんだ。信じられんかもしれんが、昔話の鬼なんだ!会っているなら知っているんだろう?あいつが言ってないなら教えてやる、あいつらは気に入った女を木にしちまう。そうやってあいつらは生きてきた」

「木?そんなの……あり得ない」

「信じられんなら良い。俺だって信じて貰おうと思ってない。ただ、近寄るな。それだけは分かってくれ」

「でも、」

「あんたの為だ。あいつらの所為で不幸になる女は、姉さんだけで充分なんだよ」

「姉さん?」


 半ば怒鳴り付けるように言われた言葉ではなく、姉さんという言葉が雨音を縫って、私とお爺さんの間に反響していました。姿を木に変えた女の人の話はここの辺りでは誰でも知っている話ですが、それが本当であったのかは誰も確かめようがありませんし、伝承というのは真実を隠す為に改変が行われるものです。


 木になったというのはきっと、何らかの理由で、生贄になり亡くなった女の人がいたという真実を、御神木に絡めて後世に伝えやすいように変えたと考えた方が自然な流れでしょう。そもそも人が木になるなんて有り得ない事ですから。少なくとも私はそう思っていました。


 お爺さんにとって姉さんという言葉は、無意識に出たようでした。私が黙っていると、樹さんと同じ様に、はっとした顔になり苦々しい、後悔とやり切れなさが混じった表情へと変わりました。

 昔話の鬼は確かにいたとしても、この現代にどうしてそれが私の人生に現れ、関わる事になると思えるでしょう。樹さんは自分の事を鬼だと言いましたが、まだこの時の私は鬼という存在を良く分かっていませんでしたから、他人事のように捉えていたのだと思います。


ただその一方で、樹さんやお爺さんが嘘を吐いているとは思えませんでした。何か大きな事が起きているのではないだろうか。自分が思っているよりも樹さんが鬼であるという事は、私を含めとても重大であり、単に人と違うだけではないのかもしれない、とようやく思い始めていました。


 一体何が本当で、それが私にどう影響するのか。自分が心から確信できるまで、物事は判断するな、かつて恩師はそう言いました。確かにそうなのです。今は嘘だと判じるのにも、本当だと信じるのにも、彼らの言葉だけ。私が一番信じるべきなのは、自分の判断ですから、もっと一つでも多くの判断材料が必要でした。その為にはお爺さんの言葉が多く欲しかったのです。


「樹さんは、本当に鬼なんですか?」

「名前も知っているのか。いつの間に……とにかく、本当だ。あいつは正真正銘の鬼だ」

「鬼って…。あの、教えて下さい。樹さんの事、何も知らないままは嫌なんです」

「知ったところでどうする」

「どうするって…とにかく樹さんの事を、知りたいんです」


 知りたい、そう、もしかしてそれが本心だったのかもしれません。あの不思議な人を、歳をとらない、二十年以上私を待っていてくれた人の正体を、私は知りたかった。理由などそれで充分だったのです。お爺さんは観念したのか、長い溜息の後、ついて来なさい、と言いました。


 お爺さんが向かったのはお寺の境内でした。家は近くだと言っていましたが、お爺さんにとってよく知らない若い女性を家に上げるより気が楽だったのでしょう。

 雨は相変わらず強く降っていましたが、お寺の本堂の庇は広く、その下に入ってしまえば濡れる事はありませんでした。そしてお爺さんが腰掛けた石段は苔も汚れも見当たらず、倣って腰掛けてみればひんやりとしていました。


 雨と、御神木だけが息をしているような静かな空気が広がる中、私達は視線を合わせる事はありませんでした。私は出来始めた水たまりの波紋を見つめ、お爺さんは落ちゆく数多の雫の中に過去を見い出そうとしているのか、ここではない何処かを見つめているようでした。


 雨の音というのは、どれだけ降っていても耳障りな音にならないのは不思議です。雨の日は憂鬱になる時もありますが、雨音は耳に優しく雑音を洗い流してくれるような気がします。この時、知りたいと言えど、まだ半信半疑でありながらも、お爺さんの言葉を否定せずに聞けたのは雨のおかげかもしれません。


「もう、七十年も前の話だ。私は五人兄弟の末っ子で、一番上に七つ離れた姉さんがいた。優しく、綺麗な人だったよ。良く面倒を見て貰って、親父やお袋の言う事より、姉さんの言う事なら素直に聞けた」


 不意にふわり、と水たまりの波紋が揺れ、女の人の姿が浮かび上がりました。きっと私の想像が現れたのでしょう。色白の、控えめな人。柔らかな笑みが良く似合い、けれど意志の強そうな口元はしっかり結ばれている。お爺さんのお姉さんは、そんな人だったのでしょうか。


「姉さんに結婚の話が出たのは私が十二の時で、姉さんは十九だった。随分駄々をこねて困らせた。嫌だった。寂しかったんだ。姉さんもあまり気乗りしていなかったのも分かっていたからね。どうやら好いた男がいるのだと、私だけが知っていた。こっそり今の公民館の裏、あの家へ通っているのを見たんだ」

「お姉さんはお爺さんが気付いているのを知ってたんですか?」

「知ってたよ。姉さんが悲しむ事はしたくないから、黙っていたがね。でも、言えばよかった。あの家に住むのは鬼だって知っていれば…。七十年前と言っても俺だって鬼がいるなんと信じていなかったからな。縁談の相手は姉さんに心底惚れていたし、生きていさえいれば会える。だが、鬼の嫁になるとは人ではなくなる事だ。あんた、それがどういう事か分かるな」

「木になってしまう、って事ですか」

「そうだ。どうしてかなんて…考えるだけでおぞましい。あいつらは人間じゃないからね。……それで姉さんの結婚が決まった日、どうも寝付けなくて起きていたら、こっそり夜中に姉さんが家を出て行くのを見たんだ。あの男の所に行くんだって直ぐに分かったよ。姉さん、姉さんと泣きながら後を追っかけた。嫁いでしまうのは変わりないからなぁ。月の明るい夜だった。一張羅の着物を着て、綺麗な簪をつけて、たった一人の花嫁行列だった」


 しゃなり、しゃなりと歩く姉さんを、一生懸命追い掛けて。そう言うお爺さんの顔は歳を重ねている筈なのに、ふと幼さが覗いていました。その瞬間だけは永遠にお爺さんの中で時が止まったままなのでしょう。

 一等綺麗な格好をして、好きな人の元へ行くお姉さんは美しかったに違いありません。だから余計にお爺さんは忘れられないのだと思います。お姉さんは、幸せだったと分かっていても。私は何も言えませんでした。


「俺に気付いて振り返った姉さんは、本当に綺麗だった。綺麗過ぎて、近寄れなかった。何故だかもう二度と会えないって分かったよ。それなのに何も言えなかった。黙ったままの俺に姉さんは謝って、簪を髪から抜いてくれて。それであの道へと消えていった。それが人としての姉さんの最期だった」

「……それから、あの家に行ったんですか」

「行ったよ。直ぐには行けなかったけど。家が大騒ぎだったし、俺は姉の簪を持っていたから、親父達にばれてしまったら大事だからね。なるべく大人しくしていた。一月以上経ってからかな。ようやく家の中が静かになって、あの奥へ行ったんだ。…夏だったから、百日紅の花が咲いてた。綺麗な赤い花が沢山咲いていた」

「樹さんは、その、」

「姉さんの子供だよ」

「子供?そのお姉さんの相手では…」

「姉さんの男は違う。樹じゃない。その時にはいないよ。とにかく、あいつはその百日紅の木の下にいた。幸せそうな顔をしてまるで恋人に寄り添うように木にもたれて。俺が来ることを分かっていたんだろうな。姉さんに会いたいって言ったら酷く困った顔をして、ここにいるって言われた時、こいつはふざけているのかと思ったがね。どうも色々聞いているとそうとしか思えなくなったし、極めつけはこれだな。ほら、これを見なさい」


 お爺さんはそういうと、左手の小指に巻かれていた包帯を取りました。それを見た時、上げそうになった声をよく抑えられたと思います。何故ならお爺さんの小指は皮膚に覆われてはおらず、滑らかな特徴のある樹皮になっていたのです。木彫りの小指を取って付けたような、とでも言えばいいのでしょうか。触ってみるか、と言われたので恐る恐る触れてみれば、肌の質感や肉の柔らかさはどこにもなく、滑らかではあるものの、木製の机や椅子を撫でた時とまったく同じでした。


「あり得ないだろう?あいつらはな、自分の意志で人を木にする事が出来る。どうしても信じない私にあいつがしたんだ」

「その指、治してはくれなかったんですか」

「頼まなかったんだ。直ぐに治そうとあいつはしたけれど断った。色々不便だが、このお蔭で少しだけ姉さんと意思疎通が出来るようになったからそんなに悪くない」

「そうですか……、その後その人は」

「死んだ、というか、姉さんの木に入っていったよ。樹の養分になる為にな。あいつらの子孫の増やし方は奇妙なもんだ。女を木にするのは、鬼がそこから養分を得る為でもあるし、時が来れば鬼も木と一つになり、子を実のようにつける。俺だってはっきり見た訳じゃないが。あいつに言われた日行ってみれば、あいつは消えて、樹がいた。最初は生まれ変わりかと思って中々複雑だったが、樹は姉さんに良く似ていた。本当に良かったよ。だから樹を見捨てる事は出来なかった。見捨てたら俺も鬼になっちまう。……育てたという訳じゃない。樹は何も食べないし、ある程度育ったら年を取らない。樹を見ていると、やっぱり姉さんは鬼に嫁いだんだと思った」

「樹さんはやっぱり何も食べないんでしょうか?」

「俺もそんなに詳しい訳じゃないが……何も食べないというのは、少し語弊があるかな。さっき言ったとおり、あいつらは木を養分にしているらしい。木しか、あの百日紅しか養分にならないんだと。鬼に嫁いだ女は木になり、鬼は子供が産まれると木と一体になって、そして子を育てる養分の足しになるという。……正直気味が悪い」

「そう、ですね」

「良く考えた方がいい。百日紅の、姉さんとあいつの木は枯れた。もう、樹が最後の鬼だ。ここらは何とか昔のままだが、これから生きていくのは大変だろう。昔話のように忌み嫌われる存在なのは変わらない。だから、」

「待ってください、あの百日紅が樹さんの養分なら、今は何を、その養分にしてるんですか」

「………」

「それって、樹さんはそんなに生きられないって事でしょうか」

「樹が消えれば私の役目も終わりだ。……終われば、不幸な女も可哀想な鬼の子もいなくなる」

「そんな……」

「所詮鬼と人は交じれない。孤独に生きる事は命が長ければ長い程毒になる。あんたには分かるか」


 長い間彼の感じていた孤独をはっきりと突きつけられた私は、何も言えませんでした。何故なら、私だって彼に孤独を与えていたのです。わざとでは無いにしても、私が恐れ、近寄らなかった二十数年間、ずっと彼は一人であの狭い庭にいたのですから。


 この時、何故か樹さんから離れる気は起きませんでした。やっと出来た好きな人である事より、一人にしてしまった罪悪感が優っていたのか、それは分かりません。もしかして自分が木になる可能性を微塵も考えていなかったからかもしれません。思い返してみれば、お爺さんの忠告を理解していない、何と間抜けなとしか言いようがありませんが、とにかく彼から離れようとは全く思いませんでした。


「分かりません。分かりませんけれど、それでも私は、あの人の側にいたいと思います」

「人の話聞いてなかったのか、あんた」

「聞いていました。それでもそう思うんです」

「少しは心変わりするとは思ったんだけどね…話した意味は無かったな。姉さんも、そんな気持ちだったのかもしれん。だがな、あんたは本当に覚悟が出来ているのかい?」

「覚悟…」

「あんたはまだ、そこまで覚悟をしてないだろう?何度も言うが、良く考えるんだ。樹がいなくなっても生きていける。樹の側に居る事は今は幸せかもしれん。だが、自分を犠牲にしてまで得る幸せなんて本当に幸せなのか?」


 私の思考の甘さを指摘するお爺さんのその言葉だけは、雨に溶けていく事はありませんでした。お姉さんのように好きな人の為に木になる事、即ち私の持っている全てを捨てる事が頭から全く抜けている事などお爺さんにはお見通しだったのです。


側に居たいと、いくら好きだと思っても、まだ始まったばかりのこの想いは、大きな覚悟をするにはまだ幼過ぎました。うっすらとは分かっていたのです。樹さんは私と大きく違いましたから。しかし、その様な判断を迫られるとしても先の事だと思っていました。

先程お爺さんに言った言葉は確かに本心でした。彼が誰であっても、側にいたい。その気持ちに偽りはありません。けれど、その先に何が起こるか分かってしまった今、即答するには私は大人になりすぎてしまいました。


 お姉さんのように嫁入りが決まっていたら、私も腹を決められるかもしれません。確かに樹さんのタイムリミットが近いと言っても、祖母のようにはっきりとは分かりません。

曖昧ないつかは覚悟を決める強い力を持っていませんでした。私にはどうなっても側にいる、という決意をさせる強い動機がなかったのです。だからこそお爺さんも私に全てを話してくれたのだと思います。この時ならまだ、引き返せるのだと教えてくれていたのです。


「何かあったら、ここに来なさい。大抵はここら辺にいるから」

「ありがとうございます」


 そう言うとお爺さんは、ゆっくり立ち上がりました。雨は相変わらず止む気配はありません。お爺さんが境内を去っても、私はまだ立ち上がる気はしませんでした。雨の中を帰るには色々な事実を知り過ぎた所為で、すっかり憂鬱になってしまいましたし、この静かな場所でもう少し今日あった事を考えたかったのです。


 樹さんの側を離れるのは簡単な事です。丁度良いタイミングだと言えばいいのでしょうか。今、休日に祖母のお見舞いで樹さんの為に時間を取るのが難しくなっているのだから、そのまま行くのを止めてしまえば良いだけだったのです。樹さんと出会って初めて現れた、会わないという選択肢を想像してみるのは容易いものでした。元の生活に戻るだけですから。


けれど、樹さんはどうなるのでしょう。寂しい庭に立つ樹さんを再び一人に私は出来るのでしょうか。そう考えていくうちに、私は結局樹さんを選んでしまったのです。


 この時だけではなく、この後何度も私は岐路に立ちました。今振り返ってみれば、好きだから、側にいたいから、そんな簡単な感情で、けれど大切な感覚で、覚悟はなくとも樹さんを選んでいたのでしょう。もし例え一時的に離れる事を決意しても、再び私があの細い道の先を進んだように、結末は一緒になったような気がします。


 人生というのは嫌なもので、二度と戻れないと知らなくても、岐路に立っている事さえ知らなくても、決断しなければなりません。そして、その決断に責任を持たなくてはなりません。それが生きる事であるのかもしれませんが、私にとって知らず知らず選んだ先が樹さんの元だったという事なのでしょう。何故なら樹さんに出会ってから、欠けていた何かを見つけ、心の中に降っていた雨が遠のいたのです。樹さんはそれ程の人でした。


 樹さんについて知った次の日、祖母の見舞いへ早い時間から行きました。私は祖母の浮腫みによって膨らんだ足をさすりながら、母が色んな事を話すので相槌を打ちつつ昨日の事を思い出していました。

樹さんを生かす百日紅は枯れてしまって、いつになるかは分かりませんが、彼にもタイムリミットが迫っているのです。こうして横たわっている祖母の姿とは全く被らない所為か、やはりそれが事実であると信じ難かったのです。


 どうしたいか分かっているのなら、心のまま従えばいいのに、突拍子もない、現実感の遠い話に戸惑い動けないままでした。樹さんが鬼という事、人を木にしてしまう事、その養分で生きていて、百日紅が枯れてしまった今、彼は死を待つしかない事。改めて考えると、お爺さんには申し訳ないですが、自分の中で整理がつかなかったのです。


祖母は自分の死を悟っていました。家族の誰も末期の癌である事は伝えませんでしたが、そういうものは自分が一番分かっているのだと思います。死に恐怖はあったとは思いますが、諦めていたのか、静かにその日を待っているようにも見えました。


 ここが病室である事を忘れれば、祖母はテレビを見て、祖父と話し、日常の生活を送っていました。真っ白で小さな部屋を訪れる度、祖母は本当に喜んでくれたものです。徐々にお見舞いが日々の生活の中に溶け込んでいくと看病する側にも習慣のようなものが生まれました。


 例えば私は、病院の売店で買ったアイスを食べる時は決まって、祖母にひと匙あげてから食べたものでした。最初に入った病棟から所謂ホスピス病棟に移ると、食事制限は無くなり、その日まで本人が望むものを食べさせるという事でしたので、好きだったアイスや食べやすいものを持ち込んで、面会時間を過ごしました。

そして少し退屈になると、外に歩きに行き、または料理雑誌を読み、具合が良い時はそれを祖母に貸し、ーーー祖母は料理が好きだったので料理雑誌を好んで読んだのです、その間は病室の窓から外を見ていました。


 祖母の状態は前に戻る事はありません。ゆっくり、その日に向かっていくだけです。祖母が自分は死ぬのだと変えられない事実を受け入れた事は、見守るしかない私達にも諦観を与えてくれました。


死は特別なことではなく日々の延長、そして人として当たり前の結末であると、死に対する恐れがほんの少し軽くなった事は、私の心をクリアにしてくれました。恐れは人の心を時に濁らせます。本当に望むことへ手を伸ばせなくさせます。恐れながらも、私が最後に樹さんの元へ行けたのは、祖母の事があったからこそだったのだと今なら分かるのです。


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