君の隣にカラフルな恋心 〜 私の恋心
「山辺、蛍光ペン貸して」
私の返事も聞かずに、隣から伸びてきた手が私のペンケースの中から青色の蛍光ペンを持っていく。手の主は私の隣の席の安曇野シン君。
安曇野君は男子の出席番号1番で、私は山辺マヤだから女子の一番最後の16番目。担任の先生が席順を考えるのが面倒くさいからって、男子は1番から、女子は最後からをペアにして席を決めてしまってからもう3ヶ月。安曇野君は私の隣の席で、私の色ペンを使うことが日常的になってしまっている。
そのペン、最近買ったばかりなんだ。
これの前のペンは太い線しか引けないって文句を言ってたでしょ。
だからわざわざ、細い線も引けるように両端にペン先があるのを選んだの、気づいてる?
でも安曇野君はそのことを知らない。私が一方的に気持ちを向けているだけで、安曇野君は私のことを好きでもなんでもないのだから知らなくて当たり前。
安曇野君は中学校に入ってから一緒のクラスになった、隣の小学校区の男子だ。一年生の時に同じクラスになり、自己紹介の時に「かっこいい! 」って思ってからもう二年。そのかっこよさは相変わらずで、私は毎日安曇野君にときめいている。
癖っ毛なのか、少し長めの前髪や襟足がクルッと緩くカールした柔らかそうな髪の毛。光に当たると透き通る薄い茶色の瞳。背は中くらいだけど、走ると速いサッカー部のエースストライカーだ。
一方の私は弱小ソフトボール部でポジションは地味なキャッチャー。力が強いから一応4番バッターだけど、遠くまでボールを打つと「怪力女」「流石はゴリラ女」っていう嬉しくない呼び方をされるのが少しだけ憂鬱だ。
広いグラウンドをサッカー部と野球部とソフトボール部で三つに割って使っていて、部活中に何となく決めてある境界線付近で安曇野君を間近に見るのが楽しみだった。
「山辺、修正液」
「あ、うん。はい」
いつの間にか借りていたらしい私の細字の赤ペンで、教科書に文字を書き入れていた安曇野君が、こちらを見もしないで手を伸ばしてきた。私はその手に修正液を乗せてあげて、安曇野君の手の平に少しだけ触れる。こんなにドキドキしてるのに気づいてないなんて、と私は切なくなった。
安曇野君の教科書はとてもカラフルだ。
私が今まで貸してきた色ペンで色んなところに書き込んであって、味気ない教科書がフルカラーのように派手になっている。
そんな安曇野君のペンケースの中にはシャーペンと赤、青、黒の三色ボールペンと消しゴムしか入っていない。教科書に線を引く時に使っている安曇野君お気に入りのスチール製の定規は、一年生の時に交換したものだ。元々は私の兄が工業高校で使っていた定規で、安曇野君から自分の透明な定規と交換して欲しいと提案されて二つ返事で受け入れた。私が今も大切に使っている透明の定規は、そういう経緯で手に入れた私の宝物だったりする。
好きな人の役に立ちたいっていう厄介な気持ちが、私のペンケースの中に溢れかえっている。好きという恋心の数だけ、どんどんカラフルになっていくのだ。
「あっ、もう消しやがった! 山辺、後でノート見せてくれよ」
「いいけど、色にこだわり過ぎるから間に合わないんじゃない? 」
「こっちの方がやる気が出るんだよ」
色分けすることにこだわり過ぎて書き写すのが間に合わず、先生から黒板の文字を消されてしまうことも日常茶飯事だ。私は持っている色ペンのわりには地味な自分のノートを見直し、安曇野君が読みやすいように丁寧に文字を綴っていった。
季節は夏。
期末テストも終わり、もうすぐ夏休みが始まるこの時期。中体連が終われば部活も引退して、一気に受験生モードになるのだろう。
安曇野君がどこの高校を受験するのが知らないけれど、中体連の結果が良ければきっとサッカーの強い有名な高校に行くに違いない。私は家から通える高校を受験することが決まっている。一緒の高校に行けたらいいな、という淡い期待は絶対に叶わないのだ。
ぼんやりと黒板の文字を追いながら、窓の外から聞こえる蝉の声が妙に耳障りだった。
◇ ◇ ◇ ◇
夏休みに入って最初の土曜日。
私のソフトボール部引退が決まった。地区大会であっさりと負けてしまったのだ。去年の全国大会で優勝した中学校が初戦の相手で、私たちでは勝てる見込みがなく、1点も入れることができなかった。
あまりにあっけない幕切れに意気消沈した私たちは、その日のうちに部室の前で小さな引退式を開いた。
「三年間ありがとうございました! 」
負けた悔しさはあったけど、これでもう同じメンバーでバットもグローブも握ることはないのかと思うと、そのことの方が寂しくなってきて涙が滲む。三年生は私を含むたったの6人。これから片付けて帰ろうかと思っていると、正門の方からサッカー部たちが帰ってきた。
そっか、安曇野君たちも今日が地区大会だったんだ。
私たちと違ってサッカー部は部員数も多いし、何より強い。その表情から今日の試合に勝ったことが窺えて、正直羨ましくあった。
私は安曇野君の姿を一目見ようと正門に目を凝らす。好きな人の姿を見られたら、あわよくば話せたら、元気になれそうな気がしていた。
「あれ、サユリのところも試合? 」
「マジか、勝った? 」
安曇野君ではなく、別の男子たちがこちらに気がついてやって来た。男子から「サユリ」と呼ばれたポニーテールの松本サユリは、私のバッテリーでピッチャーだ。私たちの中で唯一のソフトボール経験者のサユリは、高校でも続けたいということで、ソフトボール部がある私立の高校に専願することを決めていた。
「見れば分かるでしょ。こっちは今日でおしまい」
少し棘のある言い方に、私は申し訳ない気持ちになった。ソフトボールは団体戦だ。誰か一人が秀でていても勝てない。ピッチャーがいくら頑張っても、点数が入らなければ勝てないのだ。肝心な時にホームランを打てなかった4番の私の責任は重い。
「何だよ山辺、お前のゴリラパワーでも打てなかったのかよ」
「いつもの怪力はどこいったんだ? まさか飯を食いそこねたりとか」
「元気出せよサユリ。お前のせいじゃないって」
クラスメイトでもあるサッカー部の男子たちの容赦のない一言が、今の私には相当堪えた。本当にそうだ、いつもの力の半分も出せなかった。
「ごめんね、サユリ」
「マヤだけの責任じゃないよ」
「サユリ……」
「4番バッターってプロでも凄くプレッシャーかかるっていうしさ、あたしも小学生の頃からやってるけど、マヤの気持ちよく分かるよ」
「へぇ、お前でもそうなのか」
「そうよ! マヤは中学校に入ってからソフトをやり始めたんだし、重荷だったよね? 」
私よりもっと悔しい思いをしているはずのサユリから慰められることが辛かった。とうとう零れ落ちてしまった涙を見られたくなくて下を向く。
「本当にごめん、片付けたらもう帰るね」
涙声にならないように何とかそれだけを言うと、私は部室には戻らずに部室裏にある大倉庫の陰に座り込み、両膝を抱き抱えて声を押し殺して泣いた。後から後から流れ出てくる涙に、本当は負けたことが悔しかったのだと思い知らされる。それから「ゴリラパワー」とか「怪力」と言われたことも悲しかった。いつもなら笑ってやり過ごせることも、今日ばかりは流せない。それでも、声だけは出さないと必死にしゃくり上げて嗚咽を堪えると、膝頭の布地が涙で濡れてしまった。
それからしばらくして、サッカー部員たちの盛り上がる声がだんだんと遠ざかっていった頃に私は立ち上がってヒックと一回だけしゃっくりをした。
こんなに泣いたのは久しぶりだ。きっと目も鼻も真っ赤になってしまっていることだろう。グラウンドの手洗い場に顔を洗いに行こうとしたところ、自分とは違うジャリっという土を踏む音がしてギクリと立ち止まる。
「お前、こんなところで何してんの」
聞き覚えのある声に、私の心臓がドキンと大きく跳ねた。
酷い顔を隠す為に覆った手の隙間から見えたのは、ジャージ姿の安曇野君だ。転がってきたボールを取りに来たのか、足元には練習用のサッカーボールがある。私は泣き顔を見られたくなくて、目をゴシゴシと擦って涙の跡を消そうと躍起になった。せっかく会えたのだから、酷い泣き顔なんて見られたくない。
「何でもないから気にしないで」
「の割には鼻声だし。まさか泣いてたとか? 向こうでサユが泣いてたぜ、バッテリーなんだろ」
安曇野君の口から「サユ」という名前が出てきて、ドキリとした。安曇野君とサユリは仲がいい。一年、二年と同じクラスだったせいか、部長という同じ肩書きを持つせいか、話している姿をよく見かける。でもまさか「サユ」と下の名前で呼んでいるとは思わなかった。
私なんて、ずっと山辺なのに。
モヤモヤとした感情が込み上がりそうになり、グッと唇を噛み締める。
「サユリの頑張りに、応えられなかった、私が悪いの」
「チームプレイなんだから、そう責めるなよ」
「私、4番なのに、全然打てなかった」
「……山辺らしくないな」
その言い方にカチンときた。安曇野君も、私のことを「ゴリラ女」とか「怪力女」とか思っているのだろうか。クラスメイトが私のことを何と呼んでいるのか、安曇野君が知らないわけがない。私がキッと顔を上げると、安曇野君が驚いたような声を出した。
「本当に泣いてたのか」
「私だって泣くし、悔しいもん! ゴリラとか怪力女とか言われたら傷つくし、私らしくないって何よ! 」
私の剣幕に気圧されたのか、安曇野君は黙り込んで顔を逸らした。そのことが、私が今言ったことを肯定されているみたいで、止まっていた涙が再び流れ出す。
「ごめん、何かぐちゃぐちゃでよく分かんない。県大会、頑張ってね」
八つ当たりしてしまったことを後悔しても、口に出した言葉は元に戻らない。安曇野君の顔を見ることが出来なくて、踵を返した私は逃げるようにして一人で家に帰った。
◇ ◇ ◇ ◇
夏休みが終わって本格的な受験シーズンを迎えた私は、家から一番近い公立高校の推薦入試を受けることになった。そこの学校は共学で、ソフトボール部がなかったので完全に勉強推薦になる。
数学以外五段階評価の4と5だった私は、みんなより一足早く10月末に受験を迎えることになった。これで落ちれば私立の高校を受験するしかなくなってしまう。二人の兄たちも学校に通っている我が家には、正直私立に行く余裕がない。二番目の兄は公立高校、一番上の兄は国立大学に通っており、私はプレッシャーの中で学校生活を送っていた。
「えっ? シンってスポーツ推薦受けないの?! 」
昼休みの教室内にサユリの声が響く。
クラスが離れているサユリは、休み時間になると私の教室にやってくる。目的は多分、安曇野君だ。サユリはこのクラスの元サッカー部員たちや元マネージャーたちが通っている塾に通い始めた。地区大会で敗退してしまったので、スポーツ推薦枠を貰えなかったのが理由らしい。その話を聞くたびに、私はそれが自分のせいのような気がして、自然とサユリと疎遠になった。
さらには席替えで安曇野君とも席が離れ、あの酷い八つ当たりのこともあってか、ほとんど関わることがなくなってしまった。安曇野君が色ペンを借りに来ることもなくなり、所詮は便利なだけの隣の席の女子だったのだと、突きつけられた現実に心は重い。
「デカい声出すなよ。俺は俺の実力で高校に行くって決めてんの。当たり前のことだろ」
「県大会ベストフォーなのにもったいない。あたしなんて地区大会敗退だし……推薦受ける人もいるみたいだけど」
サユリの言葉に胸が苦しくなる。スポーツ推薦がなくなったサユリとは違い、私は成績で受験するのだ。それは自分の努力の結果だが、自分だけにチャンスが与えられたような気になって何度も推薦を辞退しようかと考えた。聞きたくないけど、ここで教室を出ていけば不自然になってしまう。
悩んだ末に立ち上がろうとした時、安曇野君の凛とした声が耳に届いた。
「俺は将来やりたいことがあるから勉強を頑張んなきゃならねーの。第一、本当に凄い奴のところには負けたって高校の方から打診があるんだよ。諦めるつもりはないけど、レギュラーになれても勉強についていけないとかダサいだろ」
将来を見据えている安曇野君の言葉は、私の心の奥深くにスーッと入ってきた。
「確かにな、俺たちに負けた東空中学のキャプテン、打診が来て飛翔高校に決まったっていうし……そんな奴がゴロゴロいる中でレギュラーを勝ち取るのは難しいよなぁ」
「それに加えてテストで赤点だらけとか、考えただけでも恐ろしいぜ」
「俺も頑張ろ……今からでも塾に入った方がいいのかな」
安曇野君の周りに集まっていた男子たちが口々に唸り始めた。サユリは掌を返したように「だよね、だからあたしも塾に入ったんだし。一緒に頑張ろうね」とごにょごにょと言って教室を出て行く。
サユリの姿が見えなくなると、私は溜めていた息を細く長く吐き出した。夏以降、サユリが私を敵視していることには気づいていた。というか、バッテリーを組んでいた時から私を下に見ていたのだろう。三年生になって私が4番バッターになったことも気に入らなかったに違いない。
サユリが教室を出て行ったことで教室内に戻ってきた静寂に、私は小論文のテキストを開いた。推薦入試には小論文と面接がある。もうすぐしたら面接の練習も始まってくるので、結構忙しいのだ。
先生から出された小論文のお題をどうまとめようか悩んでいた私の前に、ふと影が射した。
「なぁ、山辺……蛍光ペン貸してくれないか」
その声に顔を上げると、目の前に安曇野君がいた。
夏休み以来ろくな会話もなく、よそよそしい雰囲気になってから久しぶりに聞くその言葉に、私は無言でペンケースを開けて中を見せた。
「中身、なんか増えたな」
パンパンに膨らんだペンケースには、カラフルなボールペンや蛍光ペンがぎっしり入っている。兄が使わない色をたくさん貰ってきて入れておいたのだ。さらには安曇野君が使わなくなって、インクの減りが遅くなったせいでもある。届きそうもない意気地なしの恋心は、カラフルな色ペンとなってペンケースに入れっぱなしだ。
幾つか出して物色する安曇野君に私は呟いた。
「全部持っていっていいよ」
「え? 山辺は使わないのか? 」
「私の方は小論文だけだから……国立大に通ってるお兄ちゃんの色ペンだから、縁起がいいと思う。安曇野君が使いなよ」
席が離れてしまったから、そう簡単には貸し借りできない。わざわざ返しに来てもらうのも面倒じゃないかと思った私は、ペンケースごと差し出した。
「受験が終わったら返して」
安曇野君は何か言いたかったのか、口を少し開けて考え、それから結局何も言わずにペンケースを受け取った。
「サンキュ、山辺」
日焼けの跡が少し薄くなった安曇野君の顔に、どこか残念そうな、でも安心したような表情が浮かんでいるように見える。さっさと自分の席に戻って行った安曇野君は、早速色ペンを何種類か出し始めた。せっかく少しだけ近づけたのに自分から突き放してしまった気がした私は、安曇野君の後ろ姿を見て切なくなる。
「ごめん、シン。日本史の教科書借りに来てたの忘れてた……って何これ、どうしたの? これ、シンのペン? 」
とそこにサユリが戻ってきた。
早速安曇野君が手にしているペンケースに気づいたサユリは、珍しい青や緑のメタリックカラーのペンに手を伸ばす。
ダメ、それに触らないで!
私は思わず心の中で叫んだ。そのペンはいつ安曇野君が色ペンを借りに来てもいいように入れておいたのだ。いくらサユリでも勝手に使って欲しくはなかった。
「これは借り物だからサユには貸せない。使いたいならこっちを使えよ」
そう言って安曇野君が机の中から取り出したのは五色入った蛍光ペンのケースだ。
「何これ新品じゃん。やった、シンの蛍光ペンゲット! 」
サユリは喜んで蛍光ペンのセットを受け取り、再度日本史の教科書を所望する。安曇野君は机の横に下げていたカバンの中から日本史の教科書を取り出そうとした手をすっと離し、それから何も持ってない手を広げた。
「ごめんサユ、教科書忘れた。仕方ないから忘れたって先生に正直に言えよ」
「嘘! やだ、先生怖いのに。ちょっとマヤ、日本史の教科書持ってる? 」
「おい、サユ! 」
「マヤ、お願い」
急に名指しして来たサユリに、二人のやり取りをボーっと見ていた私は慌てて机の中を探る。
「あるよ」
「やっぱりマヤね! 貸してちょうだい、ね? 」
「ん……いいよ」
「ありがと、じゃあ、借りて行くね! 」
教科書をヒラヒラ振りながら教室を出て行くサユリに、私は何とも言えない気持ちになる。
安曇野君って蛍光ペン、ちゃんと持ってたんだ……だったら何で私のペンを借りに来たんだろう?
結局、使い勝手のいい人扱いなのかな。
そればかり気になって、私はその後の授業も黒板を見る振りをしては安曇野君がペンケースからカラフルな色ペンを、私の溜まった恋心を取り出して使う様子をずっと見ていた。