あこがれの記憶
あれは高校生くらいの時だったと思う。
季節は夏。2学期の終業式。
午前中で学校は終わり、空腹のお腹を押さえながら荷物が一杯に詰まった鞄を肩に掛け、帰路を一人ふらふらと歩く。
この夏の気温のせいと、空腹と、終業式にまとめて持って帰っても何とかなるなーなんて甘い考えでたまりに溜まった荷物のせいで足がふらふらとしてしまうのは仕方が無い。
家から学校が近いので徒歩で帰れるというのが僕の中では自慢の一つだったが、今日という日は自転車で来なかった自分を恨めしく思った。
重い、暑い、辛い。
頭に浮かぶのはこの単語ばかり。一層の事何も考えないようにしようと思い、まるで命令通りに動くロボットのように足だけ動かし、ボーっと歩くことにした。
足はふらふらと、思考はふわふわと、そんな僕を現実に引き戻したのは足元に転がってきた一本の口紅だった。
コロコロコロ……
乾いたアスファルトの上をプラスチックの容器に入った口紅が在り来たりな音を立てて転がってきて、僕の靴に当たって止まった。
僕はごく自然な動作でそれを拾い上げる。
この道はなだらかな坂道になっているから、坂の上にいる人が落としたのだろう。
そんな風に思考が至ってしまうと、知らないふりをするわけにもいかない。
視線を足元から戻したその先に、案の定その人影はあった。
だけど顔が良く見えない。
白っぽいワンピースを着て、つばの広い帽子を被っている。
距離に加えて帽子のせいで余計に顔が見えない。
それでも顔なんてどうでも良いことだ。どうせこの口紅を受け取るために近くまでやってくるのだから。
「あの…」
「口紅落としましたよ?」そう続けようとしたその瞬間、口紅の持ち主であろう女の人は僕の声を聞くなり、僕の居る方向とは逆方向に走り去ってしまった。
一体なんだって言うんだ?
僕は口紅を捨てるのも何となく気が引けて、結局そのまま家に持って帰ってしまった。
やっとの思いで家に着いた。
自分の部屋に入って、重い荷物を床に放り出し、僕はベットにダイブする。
ギシッと音を立てて僕を迎え入れてくるベットの上で、仰向けになって、さっき拾った口紅を制服のポケットから取り出し、しげしげと観察する。
可愛らしい容器に入ったそれは、ピンク色をしていた。
僕には姉が一人居る。だけど姉は化粧にこだわりを持つような人じゃないし、かと言って母は僕が幼い頃に亡くなってしまったからあまりよく憶えていない。
それだから化粧については良く知らない。いや、男子なのだから知らなくて当然か。
何で女子という生き物はそんなに自分の外見を気にするのだろう?
異性にモテたいから?芸能人のように可愛くなりたいから?他の人より自分を綺麗に見せたいから?
考えれば考えるほど深みに填まっていく。
他の女子から考えると姉のような人はどうなんだろう?無精者?それとも自分を飾る必要がない自信家?
空腹など二の次だとでも言うように進んでいく自分の思考にストップをかけたのは他でもなく自分の思考だった。
何故僕はこんなことを考えているのだろう?
思考を巡らせる内に化粧に興味を持ち始めている自分が居ることに驚き、そんな自分を恥じた。
馬鹿馬鹿しい。
僕は誤魔化すように空腹に思考を向け、台所に向う。
冷蔵庫には少量の野菜と、棚の中にはインスタントのラーメン。昼食はこれでいいだろう。
僕はそれを作り始める。グツグツと音を立てるお湯の中に、ラーメンと野菜を放り込む。
話す相手もいない。聞こえるのは煮える音。
こんな時はやはり自動的に思考を色々とめぐらせてしまう。
どうして自分が化粧なんかに興味を?未だに童顔だとか女の子っぽいと言われるから?それがコンプレックスだった。だけれども究めてしまえば新しい世界が見えるかもしれない。恥など捨てて、その道に進めば……
「駄目だ!!」
自分の声で我に返る。いや、現実に戻ったという方が正しい。
噴いている鍋、伸びきってしまったラーメン。味に変わりはないけど不味かった。
再び自室に戻る。部屋に入って最初に目に入るのは机の上に出しっぱなしの例の口紅。
こんなものを拾わなければ、落とし主が素直にこれを受け取っていればこんな気持ちにならずに済んだ。口紅に憎悪を抱いた。捨ててしまおう、こんな物は。
大分ゴミが溜まったゴミ箱の中にそれを捨てる――
ことは出来なかった。
捨ててしまうなら一度くらい使ってみても、そんな考えが浮かぶ。
否定はしても、悪魔の囁きのようなものが頭の中に響く。
―使ッテミナヨ。誰モ見テナイ。少シクライナラ大丈夫。捨テルノハ勿体無イヨ。―
そう、少しくらいなら。ほんの少しだけ。いいじゃないか、捨てるものだし。誰も見ていない。誰に咎められることもない。
―だけど僕は男だ!自分に恥じることになる。人の持ち物だったものを使うなんてどうかしてるよ!―
僕の理性が悪魔の囁きを拒否する。
だけどそれも長くは続かなかった。悪魔の囁きはそれほどまでに強力だったのだ。
震える手で口紅のキャップを外し、自分の唇まで持っていく。
そして、塗る。
口紅を塗った唇を指で触るといつもと違うピトッとした感触。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。自分の姿を見たい。けれどこの部屋には鏡がない。
鏡を見るためには洗面所まで行く必要がある。
この姿のまま自分の部屋から出ることは一瞬躊躇したが、家には自分一人しか居ないのだからという考えに背中を押され、僕は部屋を出た。
洗面所の鏡の前に立ちゆっくりと顔を上げる。
そこにはいつもと違う僕が映っていた。
違うのは口紅を塗った唇だけ。それなのに自分の雰囲気すら違って見える。
鏡に映ったその姿に、幼い頃に見た母の姿が重なる。
鮮明に記憶に残っているわけじゃない。むしろ憶えてないと言った方がいいのかもしれない。それでも、おぼろげな記憶の中の母はこんな感じの人だった。
「お母さん……?」
口に出して呟いてみる。
と、その時
ガラガラガラガラ!
勢い良く玄関が開く音がした。
「ただいまー」
それに続く姉の声。
こんなところを見つかったらまずい。
慌てて顔を洗う。そこへ姉がやってきた。
「何だ、居たのならおかえりの一言くらいあっても良いじゃない。」
僕を見るなり一言そう言うと、強引に僕をどかして顔を洗う。
姉が顔を洗っている隙に、僕は鏡を見た。もう口紅は残っていない。
「こう暑いと顔洗ってさっぱりしたくなるわよねー。」
タオルで顔を拭きながら僕に同意を求めるようにそんなことを言う。
複雑な気持ちだ。僕が洗い流したかったのは汗ではない、口紅なのだ。
「随分帰りが遅いんだな。」
敢えて同意をせずに、話を切り替える。
「まぁね。私受験生だし。それについての諸注意とか色々あってねー。要約すると勉強を夏休みにしなさいってこと。冗談じゃないわよ。勉強から解放される為の休みだってのに。」
不愉快な話題を振られたとでも言うように、ぶつぶつと文句を言いながら姉は洗面所から出て行った。
ふぅっと僕もため息をつき、姉の後に続く。
どこかのゲームのように狭い廊下を一列になって歩きそのまま二階へ。
そして其々の部屋へ。姉の部屋は僕の部屋の向かい側にある。女の子っぽい可愛らしいプレートが掛けてあって『勝手に入らないでね』と書いてある。
誰が入るものか……と、今までは思っていた。
だけど口紅を塗ったせいで女の子の部屋や服装にもちょっとした興味が湧いてきた。
確か姉は最近「ゴシックロリータ」とか言う服装に熱心になっている。中世ヨーロッパを連想させるような服装。姉は「黒」がお気に入りでピンクや白には興味がないと言っていたっけ。
前に、その手の雑誌を読んでいたので質問したらそんな風に言っていた気がする。
もっと詳しく聞いておけばよかった。
―えっ?今自分でなんて思った?―
詳しく聞く?何を?どうして?何のために?
僕は…どんな道を進もうとしているのだろうか。
口紅を塗っただけでも奇行だと思うのに、それ以上どうしようというのか?
分からない。出来れば考えたくない。
そっと引き出しに口紅をしまい何も考えないように僕は眠りについた。、
目が覚めた時には夕方になっていた。
辺りは暗くなりかけていて、烏の鳴き声が聞こえる。
僕は重たい体をゆっくりと起こした。
僕の家はさっきも言ったように姉と僕と父の3人家族だ。だから本来母がやるような仕事も分担して行っている。今日は僕が食事当番。
お腹を空かして部屋から出てくる姉と、忙しい仕事を終えて夕飯を楽しみに帰ってくる父の為にサボるわけにはいかない。
台所に行き、準備を始めなくては。
階段を駆け下り、台所へ。
今日の夕食はハンバーグにしよう。大根があるし和風おろしハンバーグってのもいいかも。
僕は早速下ごしらえを始める。
ハンバーグを作る前に、お米を研いで炊飯器のスイッチを入れる。
さぁ、次はメインのハンバーグ作りだ。
そこへ姉がやってきた。
「なにー?今日の夕食はもしかしてハンバーグ?」
うん、そうだよ。と答えながらハンバーグ作りを進めていく。
そうだ、折角姉が来たのだから何か手伝ってもらおう。
僕は姉に高野豆腐を摩り下ろすように命令した。姉はキョトンとした顔をする。
「え?ハンバーグと高野豆腐関係ないじゃない。」
僕は溜息をつき、姉にその理由を教える。
「あのな、普通は繋ぎにパン粉を使うだろう?でもそこを摩り下ろした高野豆腐で繋いだ方がヘルシーなんだよ。」
姉はそれを聞いて、あぁと納得したような顔をして、それから意地の悪い顔になる。
そして僕に向ってにっこりと微笑みながら
「物知りねぇー。これならお姉ちゃんいつお嫁に出しても恥ずかしくないわぁー。」
いつもなら姉に嫌味を言いながら冗談として受け流せるものを、今日はそんな風には出来なかった。
暫くの間停止していた思考が再開する。
口紅を塗って鏡の前に立っていた自分を思い出し、顔がみるみる赤くなっていく。もう俯いている事しか出来なかった。
「あれぇー?どうしたのかなぁー?いつもなら反撃にでるのにー?」
姉は僕のそんな反応を見逃さなかった。いつもは鈍感なくせにこういう事だけは目敏いのだからどうしようもない。
俯いている僕の顔を下から覗き込むように見て、にやにやと品のない笑みを浮かべる。
「ありゃ、もしかして将来の夢はお嫁さん?アンタ可愛いもんねー。弟ながら妬けちゃうほど可愛いものー。」
顔が耳が熱を持ちながら赤くなるのが自分でも分かる。
姉の言葉より、自分の行動のほうが今更ながら恥ずかしく思えて僕は赤面している。なのに姉はそんなこととは露知らず無抵抗な僕を言葉でじわじわと攻めてくる。
無視しても無視しきれない。何故こんなにも意識してしまうのだろう。口紅を塗っていた時の僕は恥とかそういう感情はあまりなかった筈なのに。
「ただいまー。今日は仕事が早く終わってさ――お、今日はハンバーグか!」
どうしようか、いやどうすることも出来ずにいる僕にまるで助け舟を出すかのようなタイミングで父が帰宅した。
それで話は打ち切られ、僕は姉の攻撃から逃れることが出来た。
その後、夕食作り、夕食は終わり、その後も床に就くまで姉の再攻撃もなく無事に過ごせた。
しかし、電気を消した暗い中で布団に入ると少なくとも寝るまでの間は嫌でも自分と向き合ってしまう。
自問自答を繰り返す。昼寝をしたせいなのか中々睡魔はやってこない。
そして思い出すのは昼間の出来事。
顔は見えないが白い服が印象的な少女。
彼女の落とした口紅。
それを拾った僕。
『あの…』
「私のことは貴方も良く知っている筈よ」
彼女の声で目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
現実では聞くことの出来なかった声を夢の中で聞いた。妄想染みた夢に僕は苦笑する。
時刻を見ると午前九時。随分長いこと寝てしまったらしい。
学校は夏休み。何の問題もない。
とりあえず朝食を食べようと台所へ向う。
テーブルの上には僕の分の朝食が用意してあった。と言っても、玉子焼きとウィンナーを盛り付けた皿がラップして机の上に置いてあり、主食のパンは自分の好きな枚数だけ焼いて食べろという感じだ。
家の中には僕しか居ない。父は仕事へ、姉は遊びにでも行ったのだろう。
冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶をラッパ飲みしながら今日一日どんな風に過ごそうかと考える。
宿題をやる気分にはなれないし、友達と遊びに行く気も起こらない。
さてどうしようかと頭を捻っていたその時、一つの考えが浮かんだ。
―姉ノ部屋ニ入ッテミヨウ―
口紅の呪いは一晩経っても続いていたようだ。
自分が病的なまでに女の子に興味を持っているのが分かる。
男子が女子のことを異性として意識するのは思春期の男子にとっては普通のことなのかもしれない。
だけど僕は違う。
あの口紅を拾ってから女の子に憧れを抱いている。その憧れは「僕もああなりたい」という感情。
長年の間女の子と間違われたり、童顔といわれたり、可愛いといわれたりしてヤケになっているのかもしれない。
それでも、昨日のような抵抗はなく、姉の部屋に入るという提案を自分の理性までもがすんなりと賛成してしまった。
朝食を済ませ姉の部屋へ向う。
姉の部屋のドアに掛かっている『勝手に入らないでね』のプレートが入ってくれと言っているように見える。
やるなと言われたら、やりたくなる…そんな原理かもしれない。
僕は迷わず姉の部屋のドアを開けた。
姉の部屋は朝の光を浴びてキラキラと輝いて見えた。
部屋全体が女の子らしい装飾が施してある。机、本棚、ベットに至るまでありとあらゆるところに。
姉は薔薇が好きなようで、薔薇のグッズが多い。小物入れやシーツ、カーテンまで薔薇尽くし。
僕の部屋には決してないものが此処にはある。
正直羨ましい。
男子が部屋をこんな風に飾っていたら友達に冷やかされたり、馬鹿にされたり、気持ち悪いと言われるかもしれない。
それが女子には無い。きっと男子と違って良い方にとられるのだろう。
やることは同じでも周囲の反応が女子の方が良いなんて!!
僕はますます女の子に憧れていく。
そこで目がいったのはクローゼット。
一体姉はどんな服を持っているのだろうか?
ガラガラガラ――
そこには沢山の「ゴス服」が。
下に置いてあるボックスにはヘッドドレスやレースの手袋などが入っている。
テレビのニュース番組などで時々特集されるような格好が出来るセットがここにはあった。
ごく自然な流れで着てみたいという衝動に駆られる。
僕と姉の身長は大体同じくらい。サイズも合うだろう。
―そういう問題じゃないだろう!―
理性が一瞬だけ息を吹き返し、警告を発する。
そうなのだ、サイズなどの問題ではない。姉弟だからとか、姉が居ない隙に勝手に着るのはよくないとかそれ以前の問題である。それは、これを着たいという衝動はそもそもその道に本格的に足を踏み入れようとしている自分が居るということである。
今まで何故その感覚が麻痺していたのだろうか。
ギュッと硬く握り締めた拳には、自分でも気付かぬうちに何かが握られていた。
そう、あの口紅。
僕は驚愕した。
一体いつからこの口紅を手に握っていたのだろう。記憶が無い。よくよく考えると朝食の時も持っていたかもしれない。手に持っていなくてもポケットに入れていたのかもしれない。現にここにあるのだ。朝食を食べてから部屋には戻っていないのだから身につけていた事になる。
自分でも知らぬうちに、この口紅をお守りのように持ち歩いている僕自身を気持ち悪いと思った。
―シカシ、考エヨウニヨッテハ、チャンスダ―
そうだ。此処に口紅があるということはこの服を着て、口紅を塗ることが出来る。この部屋にはウィッグもあるし上から下まで女の子になりきることができるのだ。
それを勧める僕が居る。
それを拒否する僕が居る。
自分のものではないかのように思考が展開する。
もうどうなっても構わない。此処には僕しか居ないのだ。誰に咎められるわけでもない。それを肯定してしまっているのだから自分自身に恥じることもないのだ。
否定しようが肯定しようが僕が決めていることに変わりは無い。
そうして僕は姉の服を着ることにした。全身黒のゴス服。ウィッグの上にヘッドドレスも付ける。口にはあの口紅を。
ドレッサーの前に立ち全身を映す。
そこには昨日洗面所で見た子が映っていた。昨日よりも洋服のせいで女の子らしさが増している。
それは自分というよりは鏡の向こうに居る別人といった感じだった。僕の動作を鏡の向こうで真似する少女と言った方が良いのかもしれない。
家に居るのは何となく惜しい気がする。
そうだ、これで外出してみよう。
近所だと友達に見つかる気がするが、離れてしまえば大丈夫だろう。
この前ニュースで「ゴスロリ特集」をしていたあの町に行くのはどうだろうか?
あそこなら人も多いし、同じ様な格好をしている人も沢山居るはずだから目立たないだろう。
ポケットに財布を入れて姉の靴を借りて、僕は家を飛び出した。
近所の人に見つからないうちにと、急いで電車に飛び乗る。
電車の中は人がちらほら居る程度。通勤時間帯からずれているのだから当たり前なのかもしれない。
乗っているのが小母さんや小父さんばかりなので、その中で僕の格好はとても目立つ。
姉のように同じ様な格好をした友達と一緒に行けば気にならないかもしれないが、周りの僕をちらちらと見る視線が気になって仕方が無い。
皆は僕の何処がそんなに気になるのだろう?
格好?それとも……
――その時、電車の扉が開き、一人のお婆さんが入ってきた。
周りをきょろきょろと見渡して、思いついたように僕の隣に座る。
他にも席は空いているのに、どうしてわざわざ僕の隣に座るのだろうかと少し不安になる。
お婆さんは暑いのか、鞄の中から扇子を取り出し、パタパタと始めた。
暑いのなら、もっと人との間を開けて座ればいいのに、こんなに席があいているのだから僕の隣にくっついて座る必要はないじゃないか。むしろ離れて欲しい。
そんな事を考えながらボーっと表の景色を見ていると、心地よい風が吹いてきた。
見ると隣のお婆さんが、僕を扇子でパタパタと扇いでくれている。
僕は軽く会釈をした。それ以外にどうして良いか分からない。
俯いてじっとしているとお婆さんが話しかけてきた。
「何処へお出掛けですか?可愛いお嬢さん」
『可愛いお嬢さん』その言葉が僕の心に深く響いた。いつもなら女の子と間違われると嫌な気持ちになる。だけど今日は違う。何故か嬉しい。
男の子なのに女の子と間違われるか、女の子の格好をした男の子が女の子に見られるか、たったそれだけの違いだというのに。
そうか、今僕は自身が女の子だと認めている。だから女の子が『可愛いお嬢さん』と言われた時に嬉しいと思うことと同じなのだ。
僕は自分の思考が可笑しくてクスリと笑った。
隣のお婆さんは不思議そうな顔をする。だけど僕が楽しそうな様子を見て、釣られて笑っていた。
ちょうど、僕が降りたい駅名を告げるアナウンスが聞こえたので、お婆さんの質問には答えず、電車を降りることになった。
せっかく話しかけてくれて、おまけに僕に今まで味わったことのない妙な嬉しさを与えてくれたお婆さんの質問に答えなかったのは少しだけ後ろめたい気がした。
だけどこれで良かったのかもしれない。
どんなに女の子の格好をしても、声だけはどうすることも出来ない。
もし口を開いていれば、男の子だと見破られ変な目でみられていたかもしれないのだ。
だからこれで良かったんだ。
駅を出ると僕と似たような格好をした女の子達がいっぱい居た。
夏休みに入ったからいつも以上に人が多いのだろう。
これなら人込みに紛れることが出来る。
しかし女の子達は新たな洋服を買ったり、アクセサリーを買ったりと目的があってこの町に来ている。こんな風な格好をした人たちが多い町は、その手の専門店もきっと多いはずだ。
行こうかと思ったが、行かないことにした。
店に入って店員にでも話しかけられたら困るからだ。
しかし、せっかくこの町に来たのに、やることがないからと言って帰るのも勿体無い気がする。
とりあえずぶらぶらと適当な方向に歩いてみる。至る所にゴス服姿の少女達が居る。僕の住んでいる町でこんな格好をしていたら通りすがりに二度見されたり、暇な奥様方の話題のネタになってしまう。
だけどこの町はこれが日常の光景らしく、気に止める人は居ない。
もちろん僕のことも。
ふと、目の前のゲームセンターが目に入った。
お金もあるし、ちょっと此処で遊んでいこうかと思い店に入る。
手前にはUFOキャッチャーが5台くらいあり、ハートのクッションや、可愛いキーホルダーなど女の子が好きそうな物ばかり入っている。
もう少し奥へ進むとプリクラが3台くらい。中に人が居るのか声がする。
「ちょっとぉー、そんな落書きじゃつまんないわよぉ。もっと、ここをこうして…」
「待って!私の顔に落書きしないでよ!!」
「きゃははー!!」
どこかで聞いたことのある声だ。などと思う頃には時すでに遅し。
少し距離を置いて僕の正面に立っていたのは、僕の良く知っている人――姉であった。
僕と目が合うと、僕の方へずんすんと近づいてくる。まずい、僕だとばれてしまったのか?
僕の目の前に来るなり、暫し沈黙したあと一言。
「この子可愛いんですけどー!」
―はっ!?―
姉は気付いていないのか、僕が全く予期していなかった言葉を言った。
姉の声に釣られて「どうしたの?」と言いながら姉の友達たちがやってくる。
そして僕を見て口々に「可愛い」と言う。
「可愛いわねー。こんなにこの服が似合う子なんているのねー。お人形さんみたい。」
言葉を発することも出来ず、僕は困った顔をして俯くことしかできなかった。
俯いてもじもじとしている僕の姿を見てまた可愛いと言う。
「ホントに可愛い子ね」
「私にも弟が居て凄く可愛い顔してるのよ。女装させたらこんな感じかもねー」
まさに姉が言っている通りなのだが気付いていない。
ここでこうして黙っていたら、何となくこれから「一人?一緒に来ない?」なんて言われて連れまわされそうな気がする。いや、あの姉ならやりかねない。
僕はポケットに入っていたあの口紅をぎゅっと握り踵を返して一目散に走り出した。
帰ろう!帰ろう!ここは危険だ!
やっぱりこの格好で外出するべきじゃなかったんだ!
駅を目指して脇目も振らずに走り続ける。
人と人との間を縫うように、早く家に向うために!
切符を買って、丁度良いタイミングで来た電車に足早に駆け込む。
息が上がり、額にうっすらと汗を浮かべた状態で座席に座る。
「どうしてこの子はこんなに急いでるんだろう」と、同じ車両に乗っている何人かの人たちが僕のことをちらっと横目で見てくる。
その視線がどうしようもなく痛くて、居心地が悪い。
恥ずかしさで、さらに顔が熱くなって汗をかいてしまう。
行きの電車で隣にに乗っていたお婆さんが僕を扇いでくれたことを思い出す。
あの時の風は心地よかった。あの風は今は無いけれど、思い出すだけでも僕の心を落ち着かせてくれた。
次に思い出したのは姉の姿。僕を見て「可愛い」と言った僕の姉。
『私にも弟が居て凄く可愛い顔してるのよ。女装させたらこんな感じかもねー』
まさにその通り。弟の僕が女装して姉に会ったのだから。
僕は姉の服を借りて女装した。だけど今日の姉は僕が着ているような趣味ではない服を着ていた。
シンプルな白いワンピースにつばの広い帽子。
―この格好は!!―
ポケットから口紅を取り出す。
そうだ、この口紅の落とし主も姉と全く同じ格好をしていた。
まさか、この口紅の持ち主は姉?
いや、そんな筈は無い。姉はあの日、僕より遅く帰ってきたのだ。それも学校の制服で。だからあの人が姉ではなかったことは明白だ。
ああいう服ならきっと何処にだって売っているだろうし、同じ服を着た姉ではない誰かに違いない。
思考に割って入ってきたアナウンスの声を聞いて僕は電車を降りた。
考え事をしながら帰路につき、気が付いたら家に着いていた。
急いで、部屋に行き、部屋着のTシャツとハーフパンツに着替える。
着ていた服は、姉の部屋の元あった場所へ。
出来れば洗って返したいが、そういうわけにもいかない。
時刻は午後2時を過ぎていた。昼食を食べていないけどこれといって空腹を感じない。
僕の頭の中は姉の着ていたワンピースのことでいっぱいになっていた。
口紅の持ち主の着ていたワンピースと重なる姉のワンピース。
あの少女の姿は遠目でしか見なかったけれど、確かに姉の着ていたものと全く同じだ。
何故?どうして?
その時一つの考えが頭に浮かんだ。
―実際にあれを僕が着てみれば何か分かるんじゃないか?―
それを着て、何かが分かるなんて確率はゼロに等しいのは分かってる。
だけど何かが分かるかもしれない。
「ただいまぁー」
そんなことを考えていると玄関の方から姉の声がした。
部屋から頭をちょこっと出して姉の姿を見る。
部屋に向って来る姉は、確かにあの例の格好をしていた。
「おかえり」
ぶっきらぼうにそう言う僕を見て、姉は首を傾げた。
「あんたさ、今日一日家に居た?」
ドキリと、心臓が跳ね上がるように大きく鼓動する。
それを悟られないようにすぐに「うん、家に居た」と返事をする。
「そっか、ならいいんだけどね。今日あんたにあまりにもそっくりな女の子を見てね。」
「僕は男だよ?なんだよ、そっくりな女の子って。」
違和感のないように切り返す。
「ふーん」くらいで当たり障りのないように言えばよかったと、今更後悔する。
「んー?本当にそっくりなのよ?顔とか体型とか、髪の毛は長かったけど。黒いゴス服がとーっても似合っててねぇ。お人形さんみたいだったの。一人だったみたいだから、遊びに来ない?って誘おうとしたら逃げられちゃって、あははは」
やっぱり誘おうとしてたのか……。今更ながら逃げてしまって良かったと思った。
捕まっていたら何処に連れてかれるか分かったもんじゃない。
姉は手に「ゴシックロリータ専門店」の袋を持っているし、捕まっていたらあの手のお店に強制連行されていたかもしれない。
「あんたに女装させたらああなるかもねー。してみる?ウィッグも服も同じようなのあるし」
悪戯っぽく笑う姉を廊下に残し、僕は部屋のドアを閉めた。
姉が廊下でぶつぶつと文句を言っているのが聞こえたが、すぐにバタンとドアの閉まる音が聞こえた。自室に引っ込んだらしい。
まったく、と僕は思う。
そうだ、まったくもって何だって言うんだ。昨日、あの口紅を拾ってから何かが変だ。
変わりたいと願ったのは僕自身かもしれない。けど、こんなにも日常から非日常へとなってしまうなんて!
最初はちょっとした好奇心だった。それがもう、どこまでいくのか自分でも分からない。
怖い、恐い。
―何ヲ言ッテイル?楽シンデイルジャナイカ―
確かに僕は楽しんでいた。
“女装”という行為を自分で肯定し、少女になった自分から見る新しい世界を楽しんでいる。
じゃあ何が不満なのか?何が恐いのか?
自分では分かっている。何が不満なのか。
肯定しながらも、まだ心の奥底では否定していた。だから全部を肯定できない、それが不満なのだ。
恐いというのは、否定している部分の感情。これさえなくなれば、こんな思いをしなくて済む。
だけどそう上手くはいかない。分かっている、分かっているのだけど僕の中で意見が2つに分かれているのは何とも言えない気持ち悪さだった。
歯がゆい。もどかしい。じれったい。
明日になれば何か分かるかもしれない、何か変わるかもしれない、今日は早く寝てしまおう。
父が帰宅し、夕食を食べ、僕はお風呂にも入らずに寝てしまった。
翌朝。
あまりの蒸し暑さに目が覚めた。自分が汗臭い。そうだ、昨日は風呂に入らなかったんだっけと考えながら、風呂場へ向う。シャワーでも浴びてさっぱりしよう。
脱衣所で服を脱ぎ、洗濯機へ。
ふと――洗濯機の中にある服に目が止まる。
それは姉が着ていたあの服。
真っ白なワンピース。
―僕が着てみようと思っていた服だ…!―
シャワーを浴び、家の中に誰も居ないことを確認すると、僕はそのワンピースに袖を通してみた。
何故だろう、一瞬だけ懐かしい感じがした。
そして何かが音を立てて崩れるような感覚。
この服を着ていると胸が高鳴って、家の外へいかずにはいられない!!
僕は玄関の扉を勢い良く開け、外に飛び出した!
ポケットには当然のように拾った口紅を入れて、スキップで坂道を登っていく。
そう、坂の上のこの場所に、口紅を落とした少女は立っていた。
この場所から、口紅を落とし、その口紅は僕の手へ。
実際に、口紅をポケットから出す……と、その時!
口紅は僕の手から滑り落ち、坂の下へと転がっていった。
―しまった!!―
早くあの口紅を拾わなければ。
そう思い、坂の下を見ると学生服を着た少年が口紅を手にしていた。
少年は僕の姿に気付くと、何か言おうとしたが僕はそれを聞く前に踵を返して走り出した。
こんな姿を誰にも見られたくない。
僕が女装しているなんて知れたら、近所の人たちの間にどんな噂が立つことか、家族はどんな反応をするのか、考えただけでも恐ろしい。
家に帰ると、着ていたものを洗濯機に放り込み、着替えて自室に入って鍵をかけた。
人に見られてしまった…!
お守りのように持っていた口紅を失ったせいか、今更後悔の念が押し寄せる。
女の子になりたいなんて思わなければ良かった。そしたらこんな怖い思いをしなくて済んだのに。
顔は多分みられていないだろう。だけど不安だ。
あぁ、僕は何と言うことをしてしまったんだ。
あの男の子は突然走り去った僕を見てなんと思ったのだろう。
そして口紅をどうしたのだろう。
僕だったら……――
その時浮かんだのはあの光景。
僕はその男の子の位置に居た。
「あの…」
口紅を拾って返そうとしたが、少女は僕の言葉が終わらないうちに逆方向へ駆け出してしまった。
僕はそれをどうした?
捨てられずに家に持って帰った。
それから?
塗った。
それから?
昼寝をする前には引き出しにしまった筈だ。
―もしかして!!―
僕は思いついたままに行動した。
机の引き出しを勢い良く開ける。
そこにはなくした筈の口紅が何故かあった。
*
「なんて言う事が昔あってね。はは、あの頃は僕も馬鹿なことやってたんだなぁーって思い出しては笑ってしまうんだ。」
あの出来事、3日間の思い出から7年が経った。
僕はあの後、普通の生活に戻り、大学へ進学し、有名な会社に就職した。そんなわけで今は俗に言うサラリーマンだ。
「ほほほ、貴方にもそんな可愛い時期があったのね。」
この上品に笑っている女の人は残念ながら彼女ではない。
僕はあの日以来、女の人と上手く接することが出来なくなってしまった。
姉でさえ、今までどおりに接することが出来ない。女の人と接すると妙な気持ちがまた湧いてきそうで、怖くて近づけなかったのだ。
だけど例外が出来た。
それが今僕の話を聞いてくれている人、飲み屋の女将だ。
会社帰りにふらっとこの店に立ち寄ったのがきっかけで、僕はここの品の良い女将に惹かれ、ちょくちょくこの店に通うようになった。
今ではすっかり常連客だ。
この店には、女将の人柄に惹かれたのか常連客が多いのだが、どういうわけか今日は僕一人、貸しきり状態だ。
だからこうして女将とゆっくり話していられるのだ。
それにしても女将は不思議な人だ。
人に話しにくいようなことも、この人の前では話せてしまう。
「それで、その口紅はどうしたんだぃ?」
僕が女装していたなんて話も冷やかさずに聞いてくれる。
確か女将は僕より2,3つ年上だったはずだ、それだけの年の差でこんなにも態度が違うのだろうか?
僕より、よっぽど落ち着いていて、大人という感じがする。
僕は将来こんな風に落ち着いた人になれるのだろうか?
「あぁ、口紅ね。」
女将に聞かれ、僕はポケットから口紅を取り出した。
あの後も、何故かこの口紅を捨てられなくて、ずっとお守りのようなカタチで持ち歩って居たのだ。
これを見るたびにあの3日間を思い出し、二度と妙な気を起こさないように自分の戒めとする。あの日以来、この口紅の使い方はそういうものに変わった。
「はい、どーぞ。」
ポケットから取り出した口紅を、差し出された女将の手へと渡す。
女将はそれをしげしげと眺め、くすりと笑った。
「………わね。」
小声で何かを言ったが、良く聞き取れず僕は「今、何て?」と
女将は、にっこりと微笑んで
「懐かしいわね、といったのよ。」
と言う。
懐かしい?一体何が?
もしかして、あの時口紅を落としたのは彼女なのではないかという期待が湧き上がる。
だけどそれを否定するように女将は意地の悪い笑みを浮かべ、僕にこう言った。
「あんな体験をしても分からないの?薄々は分かってるくせに。此処にいる私が何年後かの貴方じゃないと言い切れる?」
3日間の思い出は、現実として続いていた。
自分でも書いてて途中で趣旨が分からなくなった作品です。そんなんだから10分で読める小説大賞に落選。まぁ、当たり前か…。
こんな作品ですが、読んでくれた皆様には感謝感激でございます。