19/襖のむこうに待つものはで、ましまし(4)
駆けて。駆けて、かけた。
こんなに廊下が長いわけはない。だというのに、どこまでもまっすぐに行ける。息が切れる。運動不足だ。おっさんにはもうキツい。思わず膝をおろうかとした時だ。わたしはまっしろい光に包まれた。
それは突然の事で、わたしは急いていた足を思わず止めた。あまりにも強いまばゆさに、両の目を瞑った。意識せずに涙がにじむ。
光は強いながらに、やわらかな暖かさを伝えてくる。ここでは不安も焦燥も感じない。躯から震えは抜け去り、わたしは目を閉じたまま手探りで腕を伸ばした。
伸ばした指先は、不思議と襖にもガラス障子にもあたらない。それどころか、足元の感触までが異なっている。
風が吹く。頭上で梢の軋む音が、かすかにする。
風が鳴く。いや。あれは小鳥の囀りだろうか……
小鳥の囀りにわたしは耳をすませながら、見えないまま足を踏み出した。そしてーー
※ ※ ※
頭にばさりと、何かが当たった。
痛くはない。極かるいものだ。だがその不快感で目が覚めた。
最初に目にはいったのは、色のあせた座布団だった。次に、頭に当たったのが新聞紙であると分かった。どうやら寝ているわたしの頭の上に、新聞紙が落ちてきたらしい。
「わるい。大丈夫か? あんた」
聞き慣れない男の声がして、新聞紙がどかされた。
「兄ちゃん。一応お客さんだぞ。ぞんざいにするな」
次にそう叫ぶ声が善三であると分かった。瞬間、わたしは飛び起きた。そして頭を抑えて、うめいた。
「痛えぇ……」
頭のてっぺんから米神までが、錐で刺された様にずきずき痛む。今まで寝ていられた事が奇跡の様だ。うーうー唸るわたしの様に、「なんだ? 二日酔いか?」先ほどの男が言う。恐るおそる声の方を見上げ、その途端痛む頭にわたしは蹲った。
ちらと見上げた声の主は、躯のおおきな男であった。座卓に肘をついて新聞を読んでいる。髪を短く刈り込み、厳つい顔をしていた。躯にあったふとく、重たい声で男は言う。
「完璧二日酔いだな。善三、おまえ。無理矢理飲ませたんじゃなかろうな」
「まさか。そんな事、俺がするか。綺麗なねえちゃん相手ならまだしも、男を酔わせたって面白い事なんてありゃしない。互いに手酌で飲んで、この人が勝手につぶれただけや」
けっと、善三が言う。声の合間に賑やかな音がする。どうやら台所に立っているらしい。
確かに善三の言う通りである。彼のせいばかりとは言い切れない。初対面の家で酔いつぶれてしまうなど、アラサーの社会人のする事ではない。とんだ失態だ。
わたしは痛む頭を押さえながら、なんとか気力で起き上がった。
「昨夜はとんだご迷惑をおかけしました」
頭を下げると、男がわたしに湯のみを差し出す。
「まず水飲め。酒抜きしろ」
「あ、いただきます」
ありがたく、男の手から湯のみを受け取る。一気に飲み干す。冷えた水が、喉をとおり胃の腑へとすべり落ちていく。
「もっと、飲めのめ。いくらでも飲め。どうせ水道水だ」
そう言って、男がおおきな薬缶を座卓へでんと置いた。
「ありがとうございます」
遠慮するべきなのだろうが、乾いた躯は水分を欲している。わたしは薬缶からコップへ水をそそぎ、二杯三杯と飲み干した。その合間にこの状況を確認する。
壁の時計は午前七時四十分を指している。
と、いう事は日曜の朝だろう。部屋にはわたしと、大柄な男。善三の声は半分開けられた襖の向こう側から聴こえてきた。
折った座布団を枕にして、寝こけていたらしい。躯にはおもたい綿布団と毛布がかけられている。昨日訪問した時のスーツ姿のままで、ネクタイも外していない。スーツはすっかりよれて皺だらけだが、これは自業自得だ。
昨夜通された部屋は、朝のひかりの下で眺めると、どこにも不気味さなどない。散らかっている、よくある男所帯の風景だ。
「あのう……」
わたしはためらいながら、男に声をかけた。男は読んでいた新聞から顔をあげると、「どうした?」と訊く。
目が覚めていの一番に確かめたい事があった。
ここにいるという事は男は善三の家族なり、仕事仲間なのだろう。だとしたらメジロにだって精通しているかもしれない。
わたしが観たものを、この男に尋ねて良いものはどうか。わたしは判断がつかずに言葉につまった。そもそも幻影だったのか、まるきし夢だったのかも分からない。意味があるように思うものの、言葉にするのは難しかった。
わたしは戸惑い、訊きたかった言葉を飲み込んだ。
「……いえ、お世話をおかけしました」
結局、口からでた当たり障りのない挨拶に、「気にすんな」男がかんらと笑った。裏のない、明るい笑顔であった。
「おーーい。飯できたぞ」
隣室から善三が叫びながら、顔をだす。
そうだ。やはり訊くなら善三が良い。
「飯と味噌汁。それと生卵と漬け物。それでよければ喰っていきなよ」
相変わらず表情の読みずらい細い目つきをしている。ただ昨夜感じた、ほの暗さはない。すべては酔ったわたしの頭が、勝手に紡ぎだした幻であったのだろうか。段々と、自信がなくなってくる。
「ほら。あんたも喰ってけ」
男がわたしの背を叩く。
「あ、すみません」
わたしはよろよろした足取りで、男に続いて朝食の席についた。
男は善三の兄で、良一と名乗った。
男三人で、むさくるしくも食卓につく。食卓には、なんだか妙に懐かしい、つるつるしたビニールカバーがかかっている。そこに善三は古びた雑誌を鍋敷きにして、湯気をあげている片手鍋をでんと乗せた。
覗き込むと味噌汁だ。二日酔いの空きっ腹に、味噌の香りが染み渡る。
「各自で、つぐこと」
そう言って、善三がおたまを鍋に突っ込む。
「あんた、飯は? 卵は?」
良一は、どうやら世話焼き体質らしい。
「いえ。汁だけで……」
わたしは口元を押さえながら弱々しく言った。
一気に喰えば、胃からすっぱいものがこみあげてくる自信がある。ありがたく味噌汁だけをちょうだいした。
「こいつの酒には、あまり付き合わない方が良いぞ」
良一は箸で善三を指し示すと、そう言う。
「さいげんなく、ダラダラと飲むからな」
「そんな事ないない。自分が下戸だからって、大袈裟な」
善三がたくあんをぽりぽり。卵かけご飯をがしがし食べながら反論をする。朝から豪快な食べっぷりだ。見ていて若干気持ち悪くならないでもない。
「俺はあくまで自分のペースで飲んでいただけや。この人がつぶれたのは、俺のせいじゃない」
確かに無理強いなどはなかった。
わたしは黙って味噌汁に口をつける。二日酔いの朝の味噌汁ほど美味いものはない。
具材は豆腐とえのき茸。口にふくむと出汁の香りが鼻に抜ける。ああ、美味い。馴染み深い顆粒だしだ。多分これ、アレだな。家で、わたしも使っているやつだ。男所帯の安定感の味だ。これで水で戻した干し椎茸や昆布だのを、善三が使っていたら逆に怖くて喰えない。
わたしが黙々と味噌汁をすすっていると、「飯は本当に良いのか? 遠慮しないでいいんだぞ」
良一が再度言う。
「大丈夫です」
「あんた、小食だな」
そう言う良一はさっさと二膳の卵かけご飯と味噌汁をたいらげ、今はわたしが土産にした羊羹をもつもつと食べている。こちらも豪快だ。
良一は下戸だと善三が言っていた。もしや甘党なのだろうか。そうなのだろうな。でなければ朝から羊羹などとてもじゃないが、わたしは食べる気になれない。しかも一切れがかなりぶ厚い。広瀬さん並みの厚切り羊羹だ。
「あんたじゃなくて、前迫さんな」
良一の呼び方に、善三が突っ込む。
わたしとしては、別にどちらでも問題ない。赤の他人宅で醜態をさらし、飯まで食べさせてもらえているのだ。
「わるい。前迫さん」
「いえ」
頭を振ると、やはり痛む。顔をしかめて、米神を押さえた。善三が、「酒に弱いなら言えば良いじゃないか」と、言う。
「弱いってわけじゃないんですが……」
わたしは汁を飲み干すと、居住まいをただした。尋ねるならば、いっそ二人の前で聞こう。そう決めた。
「昨夜、変に気持ち悪い幻影を見てしまって……」
わたしの言葉に、良一と善三が互いに顔を見合わせる。
「善三……お前」
良一の顔が険しい。
「酒にいかがわしい薬でも混ぜてるんじゃあ…… 兄ちゃん、悲しいぞ。お前がそんな下賎な奴だったなんて」
よよよと良一が目じりを押さえる。これゼッタイ面白がってやっている。話したのは失敗だったかもしれない。
「阿呆かっ」
善三が兄の頭を叩く。なにせ物が散乱している室内なので、手近で使えるものはたんとある。手にしたのは、孫の手だった。
「可愛いおねえちゃん相手でも、そんな事しないぞ、俺は。それを何が悲しくて、もっさい男にするんだよ」
「だな」
良一があっさりと同意する。
茶番だ。わたしはめろーんとした気分になった。
「なに? 変なもんって何見たのさ?」
善三が尋ねる。
「襖を見ました。四つの襖です」
わたしは一笑に付されるのを覚悟で、彼らに話した。
※ ※ ※
「あ〜」
善三が飯を噛み締めながら、間延びした声をあげた。
「お〜」
良一は羊羹を齧りながらだった。仲の良い兄弟である。
二人はわたしの話しを聞き終えても、さほど顕著な反応を返さなかった。しかし素早く目配せしたのを、わたしは見逃さなかった。幻影なのか。夢なのか。分からないまでも、きっと意味はあるはずだ。わたしはそう確信した。
「どういう事でしょう?」
わたしの問いかけに、
「うちに、そんな綺麗な廊下はないな」
善三が答えた。
「お前掃除キライだもんな」
良一が言う。
「なんで俺だけに責任押し付けるんや」
「俺の稼ぎの方がでかい」
「うわっ。めっちゃイヤな男の台詞だ。俺の稼ぎで喰っているくせにって、将来おくさんに言ってビンタされるか、うざがられるタイプの男だわ」
「跡をつぎたい言ったのは、お前だろうが」
「長男のくせに、兄ちゃんにセンスがないから、俺が仕方なく手をあげたんじゃないかよっ」
「それ言ったら、親爺にセンスがなかったせいだろ。そのおかげで俺たちが割り喰ったんだ」
「それだ。ソレソレ。親爺が悪い」
「だろ?」
……茶番だ。
わたしはどっと疲れた思いで、腰をあげた。
「あれ? 前迫さん便所? だったら左」と、善三。
「吐くんだったら、汚さないように頼むわ」と、良一。
「吐きませんし、トイレの位置は昨日聞きました。ごちそうさまでした」
わたしは頭を下げ、使ったお椀類を流しに置いた。頭痛はおさまりつつある。しかし別の意味で頭が痛い。さすがメジローずの父。かなりうざったいし、付き合っていると消耗していく。そうか、あいつらの性質はここが原点か……
そこまで考えて、わたしは蒼白になった。
現実にたちかえった瞬間だった。
慌てて、背広の上着をはたく。ないない。なんでナイんだ?
「なにしてんのさ?」と、善三。
「お前、まさか。人様の財布を……」と、良一。
「兄ちゃんは、どうしてそんなにボクを犯罪者にしたいんですか?」
「急にボクなんて言うな、気色悪い」
うざったい丹羽兄弟の掛け合いには構わず、わたしは隣室に突進した。畳のうえには丸まってよれたコートがある。コートのポケットを探る。あった! スマホを取り出し、そして絶望した。
凄い数の通知がきている。そのほとんどが……大家さん。だよね、店子の分際で、メジロ共を預かってもらい、無断外泊。そりゃあ怒るわな……
わたしは絶望のまま、タップした。
ーー前迫くん。遅いわよ。メジロちゃん達は楽しそうだけど。
画像。テレビに映る氷川きよしを前に、三羽で踊っている。
ーー前迫くん。八時すぎたけど、メジロちゃん達まだ飲み食いして大丈夫なの?
画像。やっくんがほぼ自分サイズの干し柿に食らいついている。
ーー前迫くん。まっしーちゃんが泣き出したわよ。
画像。うつむいているまっしーを、二羽がなだめている。
ーー前迫くん。もう九時半よ。まっしーちゃんは泣きながら寝たわ。あなた父親としてどうかしら。
画像。クッションのうえで、タオルにくるまっているまっしー。
動画。「ご主人。ヒドイであります」にーくんが真剣に怒っている。
「遊びたいのは分かりますが、連絡するのは家族の基本で、ありますな」やっくんも目つきが険しい。
ーー前迫くん。十時よ。さっきにーくんが丹羽さん宅の電話番号知っていると言うから、かけてみたわ。あなた寝ちゃっているというじゃない。呆れるわ。わたし達も寝るから。メジロちゃんはもらうわね。
動画。「ご主人。お世話になったであります」にーくん。
「ご主人。さよならであります」やっくん。
ーーおはよう前迫くん。起きたまっしーちゃんに、あなたが丹羽さん宅で寝てしまったと説明したら、迎えに行くって飛び出して行ったわ。もちろんにーくんも、やっくんもついて行ったわよ。こどもに心配かけるなんて、親としてサイテーよ。反省なさい。
ーー三羽とも朝ご飯まだだから。
ちゃんと食べさせて、謝る事。
帰りに、柏木町の「しなだ」の酒饅頭買って来て。むろんあなたのおごりよ!
わたしは部屋を飛びだした。
「やっぱ、便所か?」という善三の声は無視した。
玄関の引き戸を開ける。冬の空は澄んだ明るさだが、風は冷たい。
わたしは前庭に立った。頭上には桜の大木が枝を伸ばしている。四方をぐるりと見渡した。目をこらし。それを見つけ、わたしは両腕を高く、おおきく広げた。
いつもよりほんの少しばかり静かな日曜の朝だ。
なんの変哲もない、日常の延長線上の一コマだ。なのに胸が、きしきしと音をたてて疼く。
「ご主人で、ましましー!」
そう叫ぶ声が、聴こえた気がした。都合の良い空耳かもしれない。けれど姿はある。
小さな。本当にちいさな黒い影が空を飛んでくる。上へ、したへと蛇行しながらの飛行だ。決して格好よい飛び方ではないけれど、一生懸命に飛んでくる。
「おーい!」
わたしは手を降った。
ちいさな黒い影は段々と近づいてくる。その後ろについてくる、ふたつの影も見えた。
「ごしゅじーーん!!」
三羽のうちの誰が言ったのかは分からない。けれどしっかりとわたしの耳は、わたしを呼ぶ声を拾った。それは紛れも無くあいつらの声であった。
「しっかり家族してるじゃん」
いつの間にか、わたしの背後に善三がいる。昨夜も感じたが、五月蝿いわりに足音を感じさせない男である。
「何を見たかしんないけどさ」
善三も、「おーーい」と手を降りながら、わたしの隣に並ぶ。
「良い時も、悪い時もあって。理解できない事も、いやんなる部分もあってこその家族なんじゃないの?」
そうですね。そう善三相手に素直に言うのが癪に思えて、「とりあえず、メジロマニュアル貸してください」と、わたしは言った。
「無理。門外不出だから、ムリ」
「ではここで読ませて下さい」
「無理。マニュアルに頼らなくてもさ、あいつらに、あんたの疑問も不安も全部言って、聞けば良いじゃない」
確かにそうだ。だがやっぱり同意するのは癪である。どう切り返してやろうかと思っていると、「ごしゅじーーん!」まっしーがわたしの胸に飛び込んで来た。
ちいさな。柔らかい。暖かな感触を、わたしはしっかりと抱きとめた。