記憶を辿る Ⅰ
ぼくが目覚めた場所は、ぼくの覚えのある場所ではなかった。そこには、今までいた世界とは全く違う世界で、道路をたくさんの”動く物体”が行き来していた。そして人々は赤く光るものを眺めながら、片手で何らかの”モノ”を持ちもう片方の手の指で、何やら繊細な作業をしていた。やがて赤く光るものが点滅し、青になる。その瞬間に人間は白と黒のしましま線を渡りだしたのだ。まるでロボットのようだった。決められた規則の中で生きているようで、少し恐ろしさも感じたが、この世界では多分当たり前のことなのだろう。
「なるほど。この世界では人々が互いに共存し合って生きてるのか。それにしてもこんな建物、あっちの世界にはなかった」
ぼくは真上に大きく構えた塔を見上げてつぶやく。すると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえるのだった。
「新田さん。今日時間空いてる? よければ今日の十九時から会ってほしいんだけど」
「ごめん。私、彼氏いるから。悪いけど、今日は彼氏とデートするんだ」
一人は女の声で、もう一人は自分の声だった。そしてぼくは、この会話のことを思い出す。これはクリスマスイヴの夜、バイト先の店員に声をかけた時のことだった。
確かあの日、ショックで自殺を図ろうとしたんだった。でもそのとき、一人の女に呼び止められたんだよな。あれ、あの子、名前なんて言ったっけ。思い出そうとしても、いつも肝心なことが抜けてる気がする。もしかしたらこれも、何かの意図で結ばれた通らなければならないのかもしれない。でも”ニッタ”って女のことを思い出したら、記憶がほんの少し、取り戻せた気がした。そして、もう一人の女の子の記憶も徐々によみがえってくる。
「死のうとしてるの?」
静かな風が吹く中、あの子がいた。なぜあのときあの場所にあの子がいたのかはわからない。もしかしたら、ぼくと同じで死のうと考えていたのかもしれない。でも、あの子はぼくの話を聞いてくれた。何も反論もせず、あの子はぼくの話を聞いた。お互い初対面なのに、彼女はぼくに無条件で優しくしてくれたんだ。ぼくは今まで、だれかに優しくされたことなんてなかったから。ぼくは今まで、だれかに話を聞いてもらうことなんてなかったから。
「今日は私を頼っていいからね」
そう言われたときには、ぼくはもう彼女に惚れ込んでいた。その優しさが、ぼくにとって必要だった。
と、ここで思い出す。そうだった。ぼくはあの子に名前を聞いていなかったんだ。連絡先も聞いていなかった。
「このまま会えずに終わるのだろうか」
主旨がずれてる気がしたが、もしかしたら自分にはその主旨なんてどうでもいいことなのかもしれなかった。でも、ぼくはなぜほかの言語を喋っていたのだろう。ニッタ、つまり新田は、何らかの言語である。ぼくの知ってる言語は、あの世界と、前世の記憶らしき世界、そしてこの世界。どの世界が、本当にぼくが戻るべき場所なのだろうか。ぼくが今見ているものは何だというんだ。まさか、これはぼくの記憶を辿るための脳内に飛ばされた映像とでも言うのだろうか。もしそれがそうだとし、これは何を暗示してるのだろう。