惑わされる ②
「よかったら今日の夜、飲みに行きませんか?」
キラキラした瞳で可愛い笑顔を見せながら、彼のことしか見えないかのように誘い文句を投げかけている彼女は確か・・・経理課の・・誰だっけ?
朝っぱらから営業部の入り口前でよくやるな~。廊下を歩いていて前に見えてきた光景に足を止めて眺める。まあ何度も見てきた光景だけど、出勤してすぐ目にする方としては呆れてしまう。
いろんな子が誘っては断られて、それでもまた違う子が誘っている。中にはめげずに何度も誘い続ける子もいるらしい。そんな噂はいくらでも耳にする。
なのに澤田隼人は断り続ける。
「ごめんね、会社出たら何時になるかわからないから」
確かに営業職は帰社時間は予定がたたない。そんな彼に断られて素直に諦める子もいれば諦めない子もいる。
『何時まででも待ちます』そう返す子もいたけど、あっさり『ごめんね』と営業スマイルでかわされてしまう。
それでも誘い続ける女の子が絶えないのだから、女って強い生き物なんだと思う。
澤田くんが彼女を作らないものだから、みんな我こそはと彼を手に入れたがる。
みんなは知らないから・・・澤田隼人は柚原楓に、長い長い片思いをしていたってこと。
まあ・・それは知らなくていいことだけど、彼はみんなが思っているような男じゃない。私だって騙されていた。
顔も良くて、スタイルも良くて、仕事もできて男としてかなりの優良物件。だけど裏の顔もあったりする。
実際酔った勢いで私とも・・寝ているわけだし、人のことを面白可笑しくからかったりする。ああやって誘いを断っているけど、実際はどうなんだろう?
最初はスマートな男だと思っていたけど・・どれが本当の澤田隼人か分からなくなっている。
そんなことを想像していたら何だかムカムカしてした。
ムカムカ?いや・・ムカムカじゃないよね、人の色恋沙汰なんだから。ただ入り口前をふさぐ2人に『ちょっとごめんね』と避けながら通り抜けることが面倒なだけ。
いつもなら『はいはい』と遠慮なく割って入って行けたのに、今日は何だか立ち止まったまま見てしまう。
何か・・何か変な感じ。小さくため息をついた時、
「おはようございます」
すぐ後ろから声をかけられてビクッとした。振り返ると笑顔を見せる山中くん。
「おはよう」
挨拶を返すと、私の前を歩いて行った。それに反応して私も山中くんについて行く。
山中くんの後ろを歩きながら、入り口にいる澤田くん達に近づく。何だか分からないモヤモヤが大きくなって眉をひそめてしまう。
「ちょっとごめん」
その言葉に私まで反応してしまう。目の前に2人がいるのだ。
山中くんの声に、「あっ、すいません」と女の子の恐縮した声が聞こえる。そして澤田くんの近くに身を避けた女の子の姿が見え、山中くんに続いて私も「おはよう」と普通に挨拶をして2人の横を通り抜ける。澤田くんの顔は見ないように。
何となく視線を感じて早足に自分のデスクまで歩いた。
始業前のわずかな時間。肘をついて顎をのせながらメールチェックをしていても何となく目線は泳いでしまう。落ち着かない?気になる?・・何が?
指はパソコンへの動作とは関係なく余計な動きをする。
「おはようございます」
その声に心臓はドキッとして、肩はビクッとなる。
反射的に振り返ると、私の斜め後ろに彼は立っていた。高い位置から私に視線を合わせてくる。何でもないように、いつもと変わらず。
「おはよう」
そう応えた声はいつもより低くなってしまった。
-挨拶ならさっき2人の前で言ったでしょ。すれ違いざまに、目は合わせなかったけど・・-
私の返事に澤田くんは少しだけ首を傾け笑顔を見せる。そう、これもいつもと変わらないように。
そして自分の席に向かっていった。
そんな彼に視線が追ってしまいそうになり、慌ててパソコンに意識を戻す。
そして朝礼が始まり気持ちを無理やり切り替えた。
朝礼での部長の話も終わり、それぞれが自分の仕事を始める。
私も今日の予定を確認し、準備も終わったのでバッグを手にしてフロアを出た。廊下を歩きエレベーターへと向かうと、エレベーター前で散らばった資料やら封筒を拾っている男女が視界に入った。
あの男の後姿は・・澤田くん、またか・・・。彼のいる所にタイミングよく居合わせてしまう自分が嫌になってしまう。そんな私の耳に女の子の声が聞こえてきた。
「すいません。あの・・大丈夫です」
可愛い焦った声で一生懸命それらを集めている小柄な彼女に、澤田くんは「大丈夫だよ」と言いながら次々と拾っている。
「すいません・・」
恥ずかしそうに真っ赤な顔で澤田くんに謝り、また書類と封筒を次々と拾う。
しかし、ずいぶんとすごい量の書類だ。そばまでたどり着いた私も知らん顔はできず、かがんで一緒にそれらを集めて拾った。
「あっ、すいません・・ありがとうございます」
突然混ざって拾い始めた私に彼女は恐縮した顔をみせた。
私は自分の周りに散らばった書類と封筒を拾い、とりあえずまとめてその子に手渡した。
「大丈夫?すごい量だね」
「はい!大丈夫です、ありがとうございました」
可愛い笑顔を見せて自分の拾った束の上に重ねて私から受け取った。
それにしても重そうだ・・
その上澤田くんからも受け取ろうとしている。全部持てるの?重くてまた撒き散らしてしまうのじゃないかな?澤田くんが拾っている量だってかなりある。紙だって量があれば結構と言うか、かなり重い。
「何階?一緒に運ぶよ」
そう言って彼女の持っている分の半分以上を取って自分の持っている上に乗せた。
その言葉を聞いて彼女はまた顔を赤く染めた。
「いえいえ!大丈夫です!運べますから」
焦った顔を見せて首を振る。
「何階?」
何でもないことのように、サラッと聞き返す。そんな彼の対応に彼女も小さい声で「2階です・・」と答えてうつむいた。あ~、可愛いなぁ・・。
澤田くんはエレベーターのボタンを押すと前を向いたまま立っている。私もなんとな~く2人の後ろに立ち、エレベーターを待つ。
そしてエレベーターが到着し、『ポ~ン』と音をさせてドアが開いた。
「どうぞ」
澤田くんが彼女に先に乗るように促し、彼はその後に続いて乗った。
エレベータ内は2人以外は乗っていない。何となく私はその場に立ち尽くしてしまい、2人の足元をボーっと見てしまった。
「今井さん、乗らないのですか?」
澤田くんの声にハッとして彼を見ると、ボタンを押したまま不思議そうにこっちを見ている。ドアを開けたまま待っていてくれているのだ。
「あっ・・ごめんなさい」
急いでエレベーターに乗って、澤田くんと反対の左側に身を寄せて立つ。
そしてドアが閉まり、しばしの沈黙の後『ポ~ン』と音をさせ到着した。
そこは2階でドアが開くと目の前には誰もいなく、「先に降りて」と澤田くんが彼女に声をかけると「はい」と答えて先に彼女が降りた。そしてそれに続いて澤田くんが歩き、横にいる私に「今井さん、行ってらっしゃい」そう声をかけてエレベーターから降りていった。
「うん・・」
小さくて澤田くんには届かなかっただろう私の返事は、その後の静けさを誘った。
そのまま2人の後姿をボーっと眺めながら、『ポ~ン』と音をさせながら閉まっていくドアに胸がキューっと苦しさを感じた。