竜のたおしかた
いつからだろう。我々の美しい空が、竜によって覆われてしまったのは。いつからだったろう。
ほんの六畳ほどの部屋に一人、毛布にくるまる女が。目の下には黒々とした隈をぬりたくり、目は少しだけ、濁っている。骨に最低限の筋肉と皮膚だけをまとわせ、空気の鋭さにおびえる。分厚いカーテンに遮られ一筋のみしか入り込まない太陽の光は、そっと彼女の足先を照らす。
彼女は思いを巡らせる。過去に。……未来に。
彼女が幼いころ、まだ空は竜に覆われてなどいなかった。青々とした腫れや、どんよりとした雲。重苦しい雨に、少し愛しい小雨。瞼を下ろせば、今でもすぐに思い出せる、あの美しい空。その雲に抱かれ、どこへでも行けるような気がしていた。
たしか、十歳のころ。彼女は空を仰ぐたびに、竜を目にするようになった。なんだろう、あれは。と、不安に思うと、もう一匹新しい竜が空を横切った。雨の日だった。黒い雲に紛れて、その流派黒よりも黒く、のそりと、悠々と、空に居た。しかし或晴れの日。この日の事は、はっきりと覚えている。絵のコンクールで入賞したという報告を受けた日の帰りだった。将来は画家になろう、と考えながら空を見たら、空にいたすべての竜が青空の向こうへ、遠くへ去っていくのが見えた。しかしなぜか、その日以来、竜のいない空は一度も見ていない。
それからはあれよあれよという間に、空が竜に覆われていった。
――どうして、こんな空になった。
女はおもい瞼を持ち上げる。目を伏せ溜息をつく。疑問に思いつつも、彼女にはその答えなどわかりきっていた。だから目を開けたくないのだ。目の前の現実を見たくないのだ。
「……二匹かな。あと二匹で、太陽は隠れてしまうよ」
彼女は語りかける。部屋にあふれる、一匹の大きな竜に。
竜は鱗を軋ませて、彼女の身体の何倍もある顔を女に向けた。沈黙。それに女は応えるように、分厚いカーテンを開け、窓を全て開く。窓の前から退き、元々座っていた場所に戻ると、音も立てずに流派窓から出ていき、天へ上った。太陽の光が、心許なく揺れた。
――ああ、でも少しスッキリした
その光に睫毛を照らさせながら、彼女は思った。全開の窓からは、空が見える。ぎっしり覆い尽くす竜がうごめき、気味が悪い。太陽だけは竜に遮られていない。不思議だ。
あの竜は、彼女にしか見えない。だから、あの竜を倒そうとする者は、彼女以外にはありえない。しかし彼女は倒さない。倒す方法がわからないから。倒してしまってもいいのか、分からないから。手も足も出ない、と、彼女は呟く。此の侭でもいいかな、と、彼女は思う。心は揺れる。
空を見ると、いつでも竜がいる。太陽はまだ見える。
――そうか
風邪が窓から入り込み、彼女の頬を撫でた。
――此の侭の空でも、良いのか
不意に、彼女はこの思想にたどり着いた。
――どうせ見えないのなら、見えないまま、先に進んでしまおう。空なんて見えなくても、地上は見えている。
すう、と、新しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。さっきの竜の匂いがする。少し生臭い。けれど、春の匂いもする。花の匂い。土の匂い。この匂いは、好きだ。
おもむろに、窓から身を乗り出して、空を見上げた。数匹の竜が、雲のようになっていた竜の塊から剥がれ落ちる瞬間だった。青空の向こうへ帰ることはできないらしい。はがれた流派、光となって地上に降り注いだ。
「……私はもう、大丈夫なんだね」
小さく、空に微笑んだ彼女は、晴れ晴れとした様子で竜を眺めていた。
未来を覆う竜。天を覆う不安。竜のたった一つの倒しかた。地上でしっかりと、自分の身体で歩くこと。
天は未来。竜は彼女の不安。
不安に抱かれたまま、彼女は生きていく。