表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

竜のたおしかた

作者: 岩瀬滝末


 いつからだろう。我々の美しい空が、竜によって覆われてしまったのは。いつからだったろう。


 ほんの六畳ほどの部屋に一人、毛布にくるまる女が。目の下には黒々とした隈をぬりたくり、目は少しだけ、濁っている。骨に最低限の筋肉と皮膚だけをまとわせ、空気の鋭さにおびえる。分厚いカーテンに遮られ一筋のみしか入り込まない太陽の光は、そっと彼女の足先を照らす。

 彼女は思いを巡らせる。過去に。……未来に。

 彼女が幼いころ、まだ空は竜に覆われてなどいなかった。青々とした腫れや、どんよりとした雲。重苦しい雨に、少し愛しい小雨。瞼を下ろせば、今でもすぐに思い出せる、あの美しい空。その雲に抱かれ、どこへでも行けるような気がしていた。

 たしか、十歳のころ。彼女は空を仰ぐたびに、竜を目にするようになった。なんだろう、あれは。と、不安に思うと、もう一匹新しい竜が空を横切った。雨の日だった。黒い雲に紛れて、その流派黒よりも黒く、のそりと、悠々と、空に居た。しかし或晴れの日。この日の事は、はっきりと覚えている。絵のコンクールで入賞したという報告を受けた日の帰りだった。将来は画家になろう、と考えながら空を見たら、空にいたすべての竜が青空の向こうへ、遠くへ去っていくのが見えた。しかしなぜか、その日以来、竜のいない空は一度も見ていない。

 それからはあれよあれよという間に、空が竜に覆われていった。


――どうして、こんな空になった。

 女はおもい瞼を持ち上げる。目を伏せ溜息をつく。疑問に思いつつも、彼女にはその答えなどわかりきっていた。だから目を開けたくないのだ。目の前の現実を見たくないのだ。

「……二匹かな。あと二匹で、太陽は隠れてしまうよ」

 彼女は語りかける。部屋にあふれる、一匹の大きな竜に。

 竜は鱗を軋ませて、彼女の身体の何倍もある顔を女に向けた。沈黙。それに女は応えるように、分厚いカーテンを開け、窓を全て開く。窓の前から退き、元々座っていた場所に戻ると、音も立てずに流派窓から出ていき、天へ上った。太陽の光が、心許なく揺れた。

――ああ、でも少しスッキリした

 その光に睫毛を照らさせながら、彼女は思った。全開の窓からは、空が見える。ぎっしり覆い尽くす竜がうごめき、気味が悪い。太陽だけは竜に遮られていない。不思議だ。

 あの竜は、彼女にしか見えない。だから、あの竜を倒そうとする者は、彼女以外にはありえない。しかし彼女は倒さない。倒す方法がわからないから。倒してしまってもいいのか、分からないから。手も足も出ない、と、彼女は呟く。此の侭でもいいかな、と、彼女は思う。心は揺れる。


 空を見ると、いつでも竜がいる。太陽はまだ見える。

――そうか

 風邪が窓から入り込み、彼女の頬を撫でた。

――此の侭の空でも、良いのか

 不意に、彼女はこの思想にたどり着いた。

――どうせ見えないのなら、見えないまま、先に進んでしまおう。空なんて見えなくても、地上は見えている。

 すう、と、新しい風を胸いっぱいに吸い込んだ。さっきの竜の匂いがする。少し生臭い。けれど、春の匂いもする。花の匂い。土の匂い。この匂いは、好きだ。

 おもむろに、窓から身を乗り出して、空を見上げた。数匹の竜が、雲のようになっていた竜の塊から剥がれ落ちる瞬間だった。青空の向こうへ帰ることはできないらしい。はがれた流派、光となって地上に降り注いだ。

「……私はもう、大丈夫なんだね」

 小さく、空に微笑んだ彼女は、晴れ晴れとした様子で竜を眺めていた。


 未来を覆う竜。天を覆う不安。竜のたった一つの倒しかた。地上でしっかりと、自分の身体で歩くこと。


天は未来。竜は彼女の不安。

不安に抱かれたまま、彼女は生きていく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ