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【連載版始めました】「お前の代わりはいくらでもいる」と追放された聖女補佐官が、実は国の結界を一人で維持していたと判明するまであと七日

作者: 秋月 もみじ
掲載日:2026/02/20


「お前の代わりなど、いくらでもいる」


 その言葉が、夕暮れの廊下に落ちた。


 私は小さな木箱を抱えたまま、神殿長ドラクロワ閣下を見上げた。五十五年の人生で一度も結界術式に触れたことのない方の口から、その言葉が出てくることに──驚きはなかった。


 悲しいくらい、予想通りだった。


「聖女フローレンス様のご意向である。補佐官の任は本日をもって解く。私物をまとめ、速やかに退去するように」


 ドラクロワ閣下の背後で、金色の巻き髪が揺れた。聖女フローレンス・ミラベール様。翠の瞳が、にっこりと微笑んでいる。


「ねえリゼット、今までありがとう。次の子はもう決まっているの。とっても可愛い子よ」


 可愛い子。


 ……結界維持の後任を選ぶ基準が「可愛い」。


 (知っていた。この方は、私が毎朝四時に何をしていたか、一度も聞いたことがない)


 フローレンス様の隣で、エドモンが目を逸らしている。私の婚約者──いや、半年前からは事実上の元婚約者。彼は何も言わない。言わないことが、彼の答えだった。


「……結界維持の引き継ぎですが」


 私は、三十ページほどの書類束を差し出した。七年分の術式運用マニュアル、維持手順書、記録帳の所在一覧。これがなければ後任は何もできない。


「結界の術式には術者固有の魔力署名が刻まれています。別の方に引き継ぐには、最低でも一ヶ月の移行期間が──」


「不要だ」


 ドラクロワ閣下が、書類を見もせずに手を振った。


「聖女様の加護が結界を守っておられる。貴女の仕事など形式的なものに過ぎん」


 形式的。


 七年間。毎朝四時と毎夕六時。三百六十五日、一日も欠かさず、あの冷たい術式陣に立ち続けた七年。それが「形式的」。


 ……そう。この人たちにとっては、そうだったのか。


「……左様ですか」


 書類を引っ込め、控えだけを木箱の底にそっと入れた。それから一礼して、踵を返す。


 背後でドアが閉まる音がした。「せめて一週間後に新しい──」と言いかけた言葉は、もう誰にも届かない。


 神殿の正門を出ると、夕焼けの空に結界の光がうっすらと見えた。


 淡い燐光。七年間、私の魔力で紡いできた光。


 (……あと七日)


 それだけは、覚えておこう。





 翌朝、実家に一泊した私は、北へ向かう馬車に揺られていた。


 父は「戻ってきたのか」とだけ言って、温かい茶を出してくれた。母は何も聞かずに旅支度を整えてくれた。ヴァレンヌ伯爵家は、昔からそういう家だ。言葉より行動。感情より事実。


 ……私がこうなったのも、たぶんこの家のせいだ。


 馬車の窓から流れる景色を眺めながら、七年間のことを考えた。


 十六歳で聖女補佐官に任命された。当時の聖女は穏やかな老婦人で、先代の結界術師セシル様が直接、結界維持の術式を私に教えてくださった。


 セシル様の手は、細くてしわだらけで──でも術式陣に触れると、指先から金色の光が溢れた。「結界はね、リゼット。生きているの」と、セシル様は言った。「毎日話しかけて、魔力を注いであげて。赤ちゃんを育てるみたいに、愛情を込めてね」


 セシル様は病を得て翌年に亡くなった。後任が見つからないまま──私が「仮の引き継ぎ」として結界維持を始めた。


 仮。


 仮のまま、七年が経った。


 結界術式は「生きた魔法陣」だ。術者の魔力を毎日注ぎ込まなければ、少しずつ衰弱する。しかも術式には「魔力署名」──術者固有の魔力の波長が刻み込まれていて、別の人間に引き継ぐには、その署名を一ヶ月かけて少しずつ書き換える「移行手続き」が必要になる。


 突然やめたらどうなるか。


 七日間の猶予を経て、結界は段階的に弱まる。三日目に微細な綻び。五日目に小型の魔物が通れるほどの隙間。七日目には──それ以上は、考えたくない。


 引き継ぎ書類にはそのことも書いた。受け取ってもらえなかったけれど。


 三年前、先代聖女が引退し、フローレンス様が新しい聖女に就任した。


 華やかで、人懐っこくて、誰からも好かれる方だった。夜会では常に人の輪の中心にいた。私は──夜会の時間は、いつも結界の夕方の維持儀式と重なっていたから、出たことがない。


 社交界に顔を出さない私は、いつの間にか「暗くて地味な補佐官」として認識されるようになった。すれ違う神官たちの視線が、少しずつ素通りするようになった。挨拶を返されないことにも、慣れた。


 フローレンス様は「聖女の加護」で癒しと浄化を行う。それは確かに貴重な力だ。でも、国を守る結界とは全く別の系統の魔法だった。一般にはそこが混同されていて──「聖女様が結界を守っている」と、みんな信じている。


 私は、それを訂正しなかった。訂正して何になる。私の仕事が認められたところで、結界が強くなるわけでもない。


 エドモンの態度が変わったのも、フローレンス様就任の頃だ。最初は「聖女様のお側で学びたい」。次に「聖女様のご相談に乗っている」。フローレンス様の隣で目を輝かせるエドモンを見るたびに、胸の奥がざらついた。でも──引き止める言葉が見つからなかった。


 だって、私には夜会に出る時間もなければ、華やかに笑う余裕もない。毎朝四時に起きて、冷たい術式陣に両手をつく。夕方六時にもう一度。そうやって結界を守ることが、私の全部だった。


 そして半年前、「僕たちの婚約は──」と言いかけて、結局最後まで言えなかったあの夜。エドモンは俯いたまま、私の顔を見られなかった。


 (あの時、怒れたら良かったのかもしれない。泣いてすがれたら良かったのかもしれない。でも私の頭にあったのは、翌朝四時の維持儀式のことだけだった)


 今思えば、おかしな話だ。婚約者を取られたことより、結界の心配をしている自分。


 けれど、あの結界は私が七年間育てたものだ。私の魔力で、私の手で、一日も欠かさず。セシル様に「愛情を込めて」と教わった通りに、本当に愛情を込めて。


 ──それを「形式的」と呼ぶ人たちの下で、これ以上守る義理はない。


 ない、はずだ。


 ……それなのに胸の奥がちくりと痛むのは、たぶん、あの淡い光に情が移ってしまったからだろう。


 馬車が北に進むにつれて、空気がどんどん冷たくなっていく。窓の外の木々が、緑から黄に、黄から灰色に変わっていく。


 新しい場所に向かっている。知らない土地だ。不安がないと言えば嘘になる。


 でも──。


 木箱の底で、引き継ぎ書類の控えがかさりと鳴った。これだけは、いつか誰かに渡せるように持ってきた。結界を見捨てたわけじゃない。ただ、私がいなくてもいい場所から、私を必要としてくれる場所へ──移るだけだ。


 (……そうだ。移るだけだ。逃げるんじゃない)


 自分に言い聞かせるみたいに、何度も何度も。





 辺境伯領に着いたのは、追放から三日目の昼だった。


 寒い。


 王都とは比べものにならない冷気が、馬車を降りた瞬間に頬を刺した。吐く息が白い。雪がちらちらと舞っている。


 (北方ってこんなに寒いの……? まだ秋なのに?)


 薄手の外套を掻き合わせて身を縮めていると、騎士服姿の男性が近づいてきた。


「ヴァレンヌ嬢ですか。アッシュフォード辺境伯がお待ちです」


 ──え?


「お待ち、と仰いましたか? 私、どなたにもこちらに来るとは……」


「伯より伝言です。『招聘状が届く前に来たか』と」


 意味がわからないまま、辺境伯の館に案内された。


 質素だが、隅々まで手入れの行き届いた建物だった。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜている。廊下の空気がほんのりと温かくて、冷えた身体に染みた。


 執務室の扉が開く。


 大きな背中が見えた。窓辺に立っていた人が振り向く。


 ──整っている、というより、削ぎ落とされている。無駄のない輪郭。灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見た。


 アッシュフォード辺境伯、ギルベルト閣下。


 辺境を守る騎士団長でもある方だ。噂では無愛想で、社交界にもほとんど顔を出さないと聞いていた。


「……座れ」


 短い。けれど声には不思議と角がなかった。


 促されるまま椅子に腰かけると、彼は一通の書状を差し出した。


 蝋印つきの正式な招聘状。


 宛名──リゼット・クレール・ヴァレンヌ。

 役職──アッシュフォード辺境伯領、術式技官長。

 俸給──。


 目を疑った。


 補佐官時代の、倍。


 さらに研究費の支給、官舎の個室完備、結界管理に関する裁量権の付与。


「閣下、この待遇は……辺境の結界管理だけでは、到底釣り合いません」


「釣り合う」


 灰色の瞳が、微動だにしなかった。


「──三年前に見た」


 三年前。


 (……あの視察の時だ)


 思い出した。三年前、各地の領主が神殿の視察に訪れたことがある。フローレンス様が華やかに式典を取り仕切り、私はその裏で──いつも通り、結界の維持儀式を行っていた。


 視察団の中に、こちらをじっと見ている人がいた。目が合って、私は慌てて目を逸らした。あの灰色の瞳が、この方だったのか。


「聖女が式典の壇上にいた。貴女は一人で、あの術式陣に立っていた。──どちらがあの結界を維持しているか、見ればわかる」


 (三年、前から──)


 不意に、喉の奥が熱くなった。


 七年間、誰にも見られていないと思っていた。誰にも気づかれず、誰にも評価されず、それでいいと思い込んでいた。


 なのにこの人は、見ていた。


「……ありがたく、お受けいたします」


 声が少し震えたことに、自分で気づいた。ギルベルト閣下は何も指摘せず、ただ小さく──本当に小さく、


「……よかった」


 と、呟いた。



 翌朝。


 官舎の部屋に、覚えのない荷物が届いていた。


 厚手の毛布。裏起毛の防寒着。それから、小さな木箱に入った茶葉のセット。蓋を開けると、蜂蜜入りのジンジャーティーの甘い香りがした。


 送り主の名前は、どこにも書かれていない。


 ……昨日、私が寒がりだと知ったのは、馬車から降りた時に身を縮めていたのを見たギルベルト閣下だけだ。


 (……まさか、ね)


 いやいや。辺境伯ともあろう方が、赴任初日の技官にわざわざ茶葉を。ないない。きっと事務方の方が気を利かせてくれたのだろう。


 毛布に顔を埋める。ふかふかだ。ちょっと、いや、かなり上等な品だ。


 ……事務方の備品にしては、良すぎないだろうか。


 考えるのをやめて、蜂蜜入りのお茶を淹れた。温かい。甘い。


 ──なんだか、泣きそうになったのは内緒だ。





 追放から五日目。


 辺境の結界管理業務に少しずつ慣れてきた夕方、執務室の魔法通信石が甲高い音を立てた。


 ギルベルト閣下が通信石を取ると、表情が僅かに変わった。


「王都の結界、北東区画に綻びが出た。小型の魔物が市場に侵入、負傷者三名」


 胸の奥が、きゅっと締まった。


 (──五日目。予想より少し早い)


 北東区画は元々結界の薄い場所だった。維持儀式の際、あそこだけは他の区画より多めに魔力を注いでいた。私がいなくなって、それが途絶えた。


 だから、あそこから綻びが出る。


 知っていた。わかっていた。引き継ぎ書類に、そう書いた。受け取ってもらえなかったけれど。


「……ヴァレンヌ」


 ギルベルト閣下がこちらを見ている。


「貴女のせいではない」


 簡潔な、短い一言だった。


 それなのに、胸の奥に刺さった棘が、少しだけ抜けた気がした。



 翌日──追放から六日目。


 辺境伯領の応接室に、王都からの急使が通された。


 神殿長ドラクロワ閣下の名代を名乗る中堅神官だった。長旅で埃まみれのくせに、態度だけは立派に横柄だ。椅子を勧めても座ろうとせず、まるで命令書を読み上げるような口ぶりで言った。


「聖女フローレンス様のご命令である。ヴァレンヌ・リゼットは直ちに王都へ帰還し、結界維持の任に就け」


 命令。


 ご命令、と来た。


 謝罪の「し」の字もない。「お願い」でもない。「戻ってきてほしい」ですらない。聖女様のご命令だから従え。──六日前に「お前の代わりはいくらでもいる」と言った人たちの、これが呼び戻し方だ。


 使者は続けた。「王都では結界の綻びが広がっております。聖女様は大変お心を痛めておられます。一刻も早く──」


 (お心を痛めている。……結界維持が自分の仕事だと思っていなかった方が?)


 頭の中を、いくつもの記憶が駆け巡った。


 毎朝四時、誰もいない術式陣。冷たい石の床に両手をつき、魔力を注ぎ続けた何千回もの朝。一度も見に来なかった聖女様。「形式的」と言い捨てた神殿長。目を逸らし続けた元婚約者。


 ──もう、十分だ。


 (……ああ、そう)


 (そういうことを、平気でできる人たちだったんだ。七年間。ずっと)


 内心で煮えるものを感じながら──それでも私は、静かに椅子に座ったまま口を開いた。


「……左様ですか」


 同じ言葉。六日前、追放を告げられた時と同じ言葉。


 けれど今、この三文字の意味は──まるで違う。


「お伝えいたします。私は現在、アッシュフォード辺境伯領の術式技官長として正式に雇用されております」


 使者の眉が動いた。


「辺境伯の招聘を受け、雇用契約を結びました。王都神殿への帰還義務は、法的にございません」


「なっ……今は国の危機だぞ! 個人の都合を言っている場合か!」


 声が廊下に響くほど大きかった。


 私は、指を一本立てた。


「一つ。結界維持の引き継ぎ書類は、追放当日にお渡ししようとしました。『不要だ』と仰ったのは、神殿長閣下ご自身です」


 使者の顔が強張った。


 指を二本に。


「二つ。結界管理規則では、術者の交代に三ヶ月前の届出と一ヶ月の移行期間が義務づけられています。いずれも履行されておりません」


 使者の喉が上下する。


 指を三本に。


「三つ。宰相府への事前通告も行われていないはずです。結界術師の罷免には宰相府への事前通告が必要と定められています。手続きを怠ったのは──神殿側です」


 使者の顔が、みるみる白くなっていった。おそらく──この人自身は、手続きの問題を何も知らされていないのだろう。「とにかく連れ戻せ」とだけ命じられて来たに違いない。


「で、ですが、結界が崩壊すれば国民が──」


「ええ」


 私は静かに、けれど視線だけは逸らさずに言った。


「ですから引き継ぎが必要だと申し上げたのです。──あの日、あの廊下で」


 使者が口を開き、閉じ、もう一度開いて──何も言えずに唇を噛んだ。


 隣で、ギルベルト閣下が微動だにせず座っている。腕を組み、灰色の瞳で使者を見つめている。何も言わない。言う必要がなかった。あの視線だけで、使者の声は完全に萎んでいた。


「……本件は、宰相閣下に直接お伝えする。今日のところはお引き取りを」


 ギルベルト閣下の低い声に、使者は何も言い返せないまま一礼し、退室した。


 足音が廊下を遠ざかっていく。玄関の扉が閉まる音が、小さく聞こえた。



 応接室に、二人だけが残った。


 窓の外で風が鳴っている。暖炉の火がぱちりと爆ぜた。


 私は──自分の手が震えていることに気づいた。


 冷静だったはずだ。感情的にならなかったはずだ。でも、指先が小さく揺れている。


 (七年間。あの人たちの下で守ってきたものを、「私のせいではない」と言い切ることが──こんなに苦しいなんて)


 ふわり、と。


 肩に重みが落ちてきた。


 ギルベルト閣下の外套だった。まだ体温が残っていて、温かい。かけてくれた手が、一瞬──私の髪に触れそうになって、止まった。


 大きな手。剣だこのある、無骨な手。


「……戻りたいなら、止めない」


 低い声が、すぐ近くから聞こえた。


 間。


「だが──戻らなくていい理由なら、俺がいくらでも作る」


 ──。


 心臓が、跳ねた。


 その低い声が、思った以上に柔らかく響いて──頬が、勝手に熱くなった。


 (……ずるい。そんな言い方、ずるい)


 でも口から出たのは、ありふれた言葉だけだった。


「……ありがとうございます」


「礼は要らない」


 ギルベルト閣下が、少しだけ顔を背けた。


 耳の先が、赤い。


 (……あ)


 見てはいけないものを見た気がして、慌てて目を逸らした。外套の襟を握りしめる。温かい。胸の奥も、さっきとは全然違う理由で、どくどくと脈打っている。





 追放から十日目。


 辺境伯領に、思いがけない来客があった。


 宰相ルシアン・ド・モンティニー公爵閣下。この国の実質的な最高権力者が、わざわざ北方辺境まで足を運んだのだ。


 応接室で向かい合うと、宰相閣下は感情の読めない目で私を見つめ、淡々と報告した。


「七年分の結界維持記録を調査させた。全ての術式署名がヴァレンヌ嬢──貴女のものだった。聖女フローレンスの署名は、一件もない」


 知っていた。


 けれど、それを公的に認める人が現れるとは──思っていなかった。


「神殿長ドラクロワは更迭。結界管理規則の違反、宰相府への通告懈怠、国防危機の惹起。三件の職務違反で、ドラクロワ伯爵家は神殿との関わりを制限される」


「聖女フローレンス様は……」


「結界維持能力なしと公式記録に記載。聖女としての権限を、癒しと浄化の儀式に限定した」


 淡々とした報告だった。まるで書類を読み上げるように。


「なお、聖女は結界術式の起動を試みたそうだが──全く起動しなかった。術式は聖女の加護とは別系統だと、ようやく理解したようだ」


 ……フローレンス様は、最後まで知らなかったのだ。自分の加護と結界が別物だということを。知ろうとしなかった、と言うべきか。


 因果応報、という言葉が頭をよぎった。けれど、胸がすくような気分にはならなかった。ただ──長い長いため息がひとつ、こぼれた。


 七年間の重さが、ため息と一緒に少しだけ軽くなった気がした。


「結界は王宮魔術師団が引き継ぎにあたっている。だが移行に時間がかかる」


 宰相閣下が、一瞬だけ間を置いた。


「ヴァレンヌ嬢。王都に戻れば、宮廷魔術師の地位を用意する。待遇は保証しよう」


 宮廷魔術師。


 七年前の私なら──飛びついていた。


 けれど今、私の目の前にあるのは、辺境の執務室の窓から見える白い景色だ。毎朝起きると温かい茶葉が棚にあって、結界管理の報告書を出せばその日のうちに「確認した」と一言だけ返事が来る。名前のない差し入れが時々届く。


 そういう場所。


「お申し出は光栄です」


 私は立ち上がり、深く一礼した。


「──ですが、私はここで必要とされていますので」


 宰相閣下が、ほんの一瞬、目を細めた。


「……アッシュフォード辺境伯は、人を見る目がある」


 それから私は、木箱の底に入れてあった引き継ぎ書類の控えを差し出した。


「こちらでよろしければ、お渡しします。辺境伯領からの"技術提供"という形で」


 対等な立場。もう「補佐官」ではない。もう「代わりがいくらでもいる」人間ではない。


 宰相閣下は書類を受け取り、ぱらぱらと目を通した。一ページ、二ページ。ページをめくる手が、途中で止まった。


「……七年分の維持手順が、全てここに」


「はい。北東区画は術式の薄い箇所ですので、重点的に魔力を注ぐ必要があります。それから、季節ごとの魔力配分の調整表も──」


「ヴァレンヌ嬢」


 宰相閣下が、私の言葉を遮った。


「私は感傷的な人間ではないが──七年間、貴女が果たした責務に対し、国として何の評価も行わなかったことは、遺憾に思う」


 遺憾。


 謝罪ではない。宰相閣下らしい、あくまで公的な言葉。けれど──七年間で初めて、国を代表する人間が私の仕事を認めた。


 目の奥が、じわりと熱くなった。泣かない。泣かないけれど。


「……もったいないお言葉です」


 宰相閣下は一度だけ頷いて──館を去った。



 執務室に戻ると、ギルベルト閣下が扉の横に背を預けて立っていた。


 腕を組んで、壁にもたれている。まるでずっとそこにいたみたいに。


「断ったのか」


「ええ」


「……そうか」


 短い沈黙。暖炉の火がぱちぱちと鳴っている。


 不意に、ギルベルト閣下が私の手を取った。


 大きな手。剣だこのある、温かい手。冷えた私の指を──両手で包むように、そっと。


「辺境は冬が長い」


 灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。少し感情が宿ると、途端に人間味が出てくる目だ。


「……寒さに弱いなら、対策を考える」


 (──それは)


 (ずっとここにいていいということですか)


 聞かなかった。聞かなくても、この手の温度で十分わかったから。


「……お願いします。私、本当に寒いのは苦手なので」


 ギルベルト閣下の口角が、ほんの少しだけ上がった。


 笑った顔を見るのは、初めてだった。



 窓の外では、辺境の結界が私の魔力で淡く光っている。


 七年間、誰にも気づかれなかった光と同じ色だ。けれど今は──それを見ている人がいる。

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― 新着の感想 ―
無能屑の神殿長は王都に与えた被害を鑑みれば、更迭だけでは無く犯罪者として処罰しないと駄目じゃね? 同じく無能な性女も、結界について学ぼうとせずに思い込みで被害を出した以上、全ての贅沢を取り上げ物置小…
>「……左様ですか」 >同じ言葉。六日前、追放を告げられた時と同じ言葉。 >けれど今、この三文字の意味は 別の作品でもあったのですが、三文字と直前の文章が一致してないのは何故なんでしょうか。
あらすじが……句読点無しでびびった。間違いだろうと思って本文読んだけど、あれは読み辛い。
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