視線
教室が学生の声で満たされた頃、僕はその隅で教授にどう言い訳しようかと思索を巡らせていた。
体調が悪いと言って休ませてもらおうか、それともトイレに行くふりをしてそのまま抜け出すか。
でも落単しそうなこの講義を抜けるのは得策ではないのか。
話によると、この教授は厳しいことで有名らしい。
なんでも従わない学生には容赦がないのだとか。
一見温厚な人物に見えるが、ネット上の口コミでそう書かれていたので舐めてかかると大怪我するだろう。
この場を切り抜ける方法を一生懸命考えていると、ふとこちらに視線が向けられているような気がした。
その視線に気づいた瞬間、一気に緊張が押し寄せて体が硬直する。
教授に見つかったかもしれない。
そんな可能性が僕の心拍数を急速に上げた。
しかし、見つかってしまった以上もうどうしようもない。
深呼吸をして腹を括った僕は、覚悟を決めて恐る恐る視線の感じる方を見た。
――がしかし、そこには学生しか居らず、肝心の教授は、前で板書を続けていた。
「なんだ、気のせいか…」
一気に緊張が解け、肩の力が抜ける。良かった、まだ時間は残されていそうだ。
だが、安全圏とはほど遠いことに変わりはない。
言い訳を考えるため、僕は思案を続けた。
それから少し経ち、周囲の議論も活発になってきた頃。
僕はというと、そろそろデッドラインに突入しそうなのにも関わらず未だ解決策を出せないでいた。
しかしその理由は明白で、どうも先ほどからある不快感が拭えないのだ。
視線。
そう、さっき感じた視線がなぜかまだ続いている。
それはずっとこちらに向けられ、今も自分を捉え続けていた。
最初は気のせいかと思ったのだ。
教授はまだ教壇に立っているし、僕を知っている人にも心当たりはないのだから。
しかし、さすがにその感覚が長すぎた。
その時間の長さゆえに、僕は得体のしれないプレッシャーを感じ始め、それが確信へと繋がった。
このままでは埒が明かない。
そう思った僕は、もう一度振り返って視線の主を見つけにかかる。
そして、教室内をくまなく探したところでようやく見つけた。
僕と少し距離を空けたところに一人の女子が座っており、その子がこちらをじっと見つめていたのだ。
白と黒が交互に描かれたボーダー入りのシャツにジーパンというあまりおしゃれとは言えない格好。
髪は黒のセミロングで、肩の少し下まで伸びている。
綺麗な艶を放っており、日頃から手入れしていることが窺えた。
だが、全体的に毛量が多くて目元が少し前髪で隠れてしまっており、どこか陰気な空気を纏っている。
前髪の隙間から覗く目がくりんとしていることや、鼻筋がスーッと通っていることから整った顔立ちをしているのだろうということは推測できるのだが、その良さを暗い雰囲気が上塗りして全体的に地味な女子という印象を与えてしまっていた。
問い、なぜこの子に気づかなかったのか。答え、影が薄いから。そんな問答が即座に成り立ちそうなほどに、彼女は背景に埋もれていた。
そんな彼女に見つめられていた僕は――
(え…怖!?)
恐怖の感情に駆られた。見たことも話したこともない女子が僕を見つめているので、当然の感想だった。
えっ、何か僕に恨みでもあるのだろうか。
でもそんな反感を買うほど深く関わった人はいないし、ましてや相手は女子だ。絶対になにもしていないと断言できる。
だとすれば可能性は一つ。
彼女も僕と同じ状況に違いない。
ペアを探している者だと考えるのが妥当だった。
これはありがたい。
彼女さえ承諾してくれれば、僕はこの窮地から脱することができる。
同族のぼっちなので話しやすいことは間違いないだろうし。
だが、「あまり関わりたくない」という気持ちも同居していた。
じっとこちらを見てくる知らない人に、誰が警戒心を解かずにいられるだろうか。
2つの考えが天秤を左右に揺らす。本能が感じる危機感か、トラウマか。
究極の2択を迫られていた。
どちらにするべきか悩んだが、トラウマの比重が少々重かったらしい。
僕は話しかけることに決めた。