続編8:祈り姫、プレゼンする。
王太子殿下はお疲れである。
だから「今日は昼から休む」と執務室を出ても、宰相も執務官も「はい、ごゆっくりお休みくださいませ」と快く見送った。
フローラ王女とのやり取りだけで気疲れしたのが見てとれた。
陛下が鍛錬だ、なんだのと国軍や騎士団に顔を出しているこの瞬間にも、国王が決済するべき書類があるのだ。それを丸投げされている王太子の心労を慮れば、彼に同情を禁じ得ない。急ぎのものは片付いているのだから文句はない。
早く自宮に帰ってクラリーサに癒されたい。そしてミィちゃんを撫でくりまわすのだ! 王太子は足早になる。
「クラリーサはどこだ?」
王太子宮に戻るや否やケーン・イドの開口一番がこれである。溺愛のうわさに拍車がかかるはずだ。
「庭園にて“祈り姫”様たちとお茶を楽しまれてます」
「ああ、遊びに来ているのか」
薔薇の甘い香りがする庭園に向かうと、クラリーサと妹、そして弟が楽しそうに笑っている。ジルはアイリスの背後、少し離れた場所に控えていた。同席しても咎める者はいないのに、真面目に執事兼守護騎士に徹している。
「あっ、兄上!」
真っ先に王太子に気がついたのはジェイドだった。
「あれっ兄様、ご公務は?」
「働きすぎで疲れたから休む事にした」
「まあ、そんなにお忙しいのに、私は呑気にお茶など……」
クラリーサが情けなく眉を下げるので王太子は慌てる。
「いやいや、弟妹と仲良くしてくれて私は嬉しいのだよ? 私も混ぜてもらっていいかな」
「ちょうど良かったですわ。兄様も召し上がってください」
クラリーサの隣に腰を落ち着けた王太子に、ティーカップが置かれる前にアイリスが、卓上のバスケットをすっと彼の目前に滑らせた。
見ればクッキーが入っている。これは……。王太子はひとつ摘み上げて呟く。
「ミィちゃん……」
それは猫の顔の形をして、ご丁寧に目はチョコチップが嵌められていた。
「そうですの! 生クリームを加えてミィちゃん色に仕上げてもらったんです!」
皆が見つめる中、王太子は手にしたクッキーを口に入れる。甘さも好みで「うん、美味いな」との言葉が零れた。
「良かった! それでですね、兄様! クラリーサ義姉様に相談してたのですけど、これをご成婚記念として売り出したらどうかと思っています!」
「また面白い事を思いついたね」
「王族の結婚式の姿絵はよく売れますよね。身に着けたアクセサリーやドレスも似たのが流行ります!」
アイリスの力説にクラリーサは、自分がそんな大役を担うのか?みたいな不安そうな顔をする。
「大丈夫だ。世界一美しい花嫁なんだから、こぞって皆が君の真似をしたくなる」
優しく婚約者を見つめながら宣う異母兄に、ジェイドが「ふへっ?」と変な声を出したのを、誰も咎められないだろう。アイリスの背後にいるジルも、きっと奇異の目で王太子を見ているに違いない。
王太子の惚気フォローは、余計クラリーサを怖気させる事態になったのに、王太子は全く気がついていない。
「……ケーン兄様は恋愛ポンコツだったのね……」
アイリスの悪口は、幸い誰にも拾われなかった。
「王太子成婚記念土産として、日持ちがして安価なクッキーは庶民にも手が出しやすいと、アイリス様からご提案があって………ケーン様はどう思われます?」
類似ドレスや類似装飾品の販売より余程良い__とクラリーサの思いが顔に出ている。残念ながら、それらの流行も避けては通れないけどな、とアイリスは慎ましい義姉に同情するのだった。
「そうだな、販売店の問題はどうする」
具体的な話となると、王太子は表情を引き締めた。
「城下で去年開店した菓子店があります。第一妃様の元スイーツ係で、解雇された方が店長を務めているところです。オーナーは王都のモアラーク商会ですわ」
解雇理由が、ワーグリィヤ公爵家の寄子の領地で採れた蜂蜜以外を使用したとかで、まあ花の種類で蜜は変わるが、解雇するほどではない。ほぼ難癖である。その菓子職人がまだ若い美人なので、第一妃がヤキモチを焼いたのでは?などとうわさされている。
「あながち間違いでもないんだよね、そのうわさ。その菓子職人が作ったパイやケーキを父上に差し入れたら気に入ったらしくてね。父上が職人に興味を持ったら困るから追い出したんだって」
「そうなのか? ジェイド、よく知ってるね。しかしあの人は本当に嫉妬深いな」
「だよね、父上はそこまで節操無しじゃないよ」
クラリーサがきょとんとしているので、アイリスは咳払いをした。王家の生々しい実情を今わざわざ彼女に聞かせなくていい。
「なるほど。第一妃が不当に解雇した職人を贔屓にする意図があるんだな。モアラーク商会の本拠点はハルマゴール帝国だから、王国の派閥も関係なくていい」
王太子が施政者の顔になる。
「ジルも賛成か?」
彼は最近こうして話を振られ、知らぬ間に側近にされそうな勢いである。
「概ねそうですね。それに加えて俺は商品に、“祈り姫”監修と銘打ってもいいと思うんですよ」
「そうですわ! ミィの毛色を再現した生クリームの配合とか、可愛い猫顔型クッキーとかアイリス様のアイディアですもの」
「“祈り姫”のレシピか……付加価値が付くな」
王太子も納得し、「よし、“王太子家愛猫ミィちゃんクッキー”を王都名物にしよう!」と意気込んだ。
何気に商品名も決まったのだった。
庭園を散歩していたのだろうミィが現れて、ぴょこんとクラリーサの膝の上に乗った。王太子は婚約者の膝の上にいるミィの背中を撫でながら、クッキーと見比べる。
「ミィちゃんの目はもう少し大きい」
そこにダメ出しがあるとは思わなかった!
「ごめんなさい兄様、今回はあくまで色と味の出来栄えの相談だから」
王太子宮をお暇した一同は、新婚家庭にお邪魔した気分を味わっていた。
ジェイドは「兄上の溺愛は奥さんだけでなく飼い猫にも向けられるね」と笑い、ジルは「“ミィちゃん”て……。王太子殿下、まさかクラリーサ様を“クラちゃん”とか呼んでたりしてないですよね」と冗談ともつかぬ事をほざく。
「さすがに“クラちゃん”は無いんじゃないかしら。猫は仕方ないわよ。ほら、“猫ちゃん”だし」
アイリスの言い分もよく分からないものだった。
◇◆◇◆
ジェイドは最近忙しい。王子としての教育に加え、神殿での仕事もある。せっかく多大な癒しの力があるのだからと、既に神官として在籍している。父王の願望に沿った将来像になっていきそうで、それに少しの反発もないと言えば嘘になる。なんせ思春期なので。
しかし視察巡礼で国内を回り、そこで国民に感謝される喜びを知ればそんな感情は些細な事だと思う。彼らは第三王子としても神官としても、ジェイドを慕ってくれるのだ。
アイリスにとっても、慈しんだ異母弟が真っ当に育っているのは存外の喜びだ。回帰前の横暴でやさぐれていた彼とは、最早別人である。
そんな彼が自室で寛いでいた時、いきなり扉が開けられた。
「ジェイド!!」
名前を叫ばれて一瞬身体を強張らせた第三王子は、乱入者の姿を認めると、冷ややかに目を細めた。
「これは第四妃様、私的にお会いするのはお久しぶりです。扉の前の騎士の制止を振り切って入るのは無作法ですよ」
「何を他人行儀な! 一大事よ! 私が離縁されそうなのよ!」
目の前にいる母は、ジェイドの異母姉フローラとあまり歳が変わらない。可愛らしいタイプだが、デビュー前の少女が着るような大きなリボンとフリルまみれのピンクのドレス姿は如何なものか。似合う似合わないの問題ではない。
「年甲斐もなく……みっともない格好で」
ぼそりと吐き捨てる息子の言葉が聞こえなかった第四妃は「ねえ、聞いてる!?」と詰め寄る。
「はあ、それで僕に何の用でしょうか」
「あなたの母が離縁の危機なのよ!」
「そうですか」
素っ気ない息子の態度に、第四妃は目を釣り上げた。
「しかも陛下自らじゃなく、王太子に言われたのよ! これは陰謀だわ!」
(何か陰謀に巻き込まれる価値が自分にあると思ってるのか?)
ジェイドは純粋に驚く。なので「何の陰謀ですかねえ」と、馬鹿にした口調で嗤った。
しかし息子に嫌味を言われるなんて、思いもしない彼女は気が付かない。
「なに呑気に構えてるのよ! あなたも困るでしょう!?」
「僕が? どうして?」
「どうしてって……母が居ないと立場が悪くなるじゃない!」
「いいえ、全く。あなたは僕を産んだだけの第四妃だ。[おまえは王家の子]だと幼い僕を突き放したのはあなたです。いえ、責めていませんよ? あなたは家のために泣く泣く恋人と別れて陛下の子を産んだ。さぞ辛かったでしょう。しかしもう役目は終えたのだから離縁すればいい。おおっぴらにあの愛人と一緒になれるじゃないですか」
「それは……」
第四妃は口ごもる。息子に言われるとは思わなかった言葉の数々だ。
「で、でも、離縁はきっと陛下の意思じゃないわ! 王太子殿下が邪魔な人間を排除しているのよ! フローラ王女も遠方の国に輿入れさせたし!」
「第四妃様、あまり愚かな事は言わないでください。王太子殿下は陛下の決定に従っているだけですよ? 正直に言いますと、僕があなたとの離縁を望んだから、陛下は決断してくださったのです」
「なんですって!?」
「だって、今のあなた、恥知らずの税金喰いじゃないですか」
「ひ、ひどい……」
「輿入れ支度金目当てに娘を陛下に売ったあなたの実家はひどいです。陛下は神官の家系の娘なら誰でも良かったのですから。あなたは僕一人を産んだだけで役目を終えて、見返りに十数年も贅沢な生活ができたのだから、いつまでも被害者でいないでください」
第四妃は悟る。息子に切り捨てられたのだ。因果応報。寂しそうに自分を見ていた幼子はもういない。自分と同じ緑の瞳には、肉親の情など欠片もなかった。
「思えば初めてですね。あなたとこんなに喋るのは。疲れただけでした」
「…………」
その通りである。第四妃は唇を噛む。情が移らないように極力息子に触れなかった。疎ましい存在でもあった。ほとんど会話をしなかった息子の思いを知ったのも、今回が初めてである。赤の他人より、余程よそよそしい関係なのだ。
息子から国王陛下に頼んでもらって、離縁を回避しようなんて浅はかだったのだ。ジェイドは[王家の子]だとして、王家に丸投げしたのは自分だ。好きに振る舞っても妃として尊重され、金に不自由のない今の快適な生活を手放したくない浅ましさを看破されている。今更母親面は通用しないのは当然だった。
「守護騎士に無理やり追い出される前に、退出なさってください。お元気で。母上殿」
母と呼ぶのはこれが最後だ。__ジェイドは口を真一文字に閉じ、それ以上言葉を発しなかった。