1:祈り姫、時間を遡る。
「姫様……時間稼ぎをします……私を捨て置いてください」
「駄目!! 一緒に逃げるのよ、ナルモンザ! 隠し通路まであと少しだから!」
アイリスは護衛騎士の手を握り、もつれる足を叱咤して走る。専属守護騎士のナルモンザは敵兵を散らしつつ、アイリスを庇いながら宮殿内を逃げていた。傷を負い血塗れでもう限界だと訴えるのに、王女は彼の手を離さない。
アイリスは目的の奥まった場所の扉を震える手で鍵を開け、中に飛び込むと素早く鍵を掛ける。
——王族専用の<祈りの間>
許された者しか入れない神聖な場所。
入り口の扉は守った事はあれど、ナルモンザが入るのは初めてである。
「この祭壇の裏の床に隠し通路があるの!」
アイリスは急いでその床の色の違う部分に手を翳す。王族の血筋に反応する魔法だ。
ゴゴゴと重たい音がして床が動く。
「姫様……おかしい、です。追手の気配が、しない」
「私はみそっかす王女ですもの。真剣には探さないんじゃないの」
現れた階段を指差し「行きましょう!」とアイリスが騎士を促した瞬間、激しい音を立てて<祈りの間>の扉が破壊された。
「なっ……!」
あの頑丈な扉を力づくで!? 驚いたアイリスは目を見開く。
しかし現れたのは屈強な兵士ではなく、オレンジ色の魔導服を着たスラリとした美しい青年だった。
「魔法で吹っ飛ばしたのか!?」
気力を振り絞ってナルモンザがアイリスを背に、剣を青年に向ける。
「あなたは……ジル・ベイチェック一級魔法士…」
アイリスはその菫色の瞳で魔法士を睨む。青年は瞠目したのち唇を歪めた。
「平民の俺を知ってくださっていたとは光栄です」
「一応、面識はあるでしょう?」
魔力は桁外れに高いらしいが彼は一介の平民魔法士だ。話した事は一度もない。アイリスがベイチェックを知っているのは、王族の居住棟の廊下で時々彼と遭遇していたからだ。姉である第二王女の部屋に出入りしている愛人の一人として認識していた。
「お姉様を裏切ったの!?」
アイリスは青年を睨む。
「……互いに心を寄せていたわけではないので、その言葉はしっくりきません」
魔法士は苦々しげに吐き捨てた。
「私たちを逃がしてくれる気はないのね?」
「……その通路の出口には兵士が待ち伏せています。どのみち逃げられない」
「この隠し通路も知られているの!?」
「もうご存知でしょうが、このクーデターの首謀者はウェビロ将軍ですから、調べていて当然です。……騎士、動くな!」
ベイチェックはナルモンザを恫喝した。ぴたりとナルモンザの動きが止まる。
「くっ! 足止めの魔法か!」
「アイリス王女には保護命令が出ています。<女王>にと望まれていますから無体はありません」
思惑を察したアイリスは嗤った。
「簒奪に正当性を持たせるのね!」
お飾りの女王に祭り上げる気なのだ。そして自分たちの都合のいい王配を宛てがうのだろう。
「姫様は、朝夕、この部屋で国の安寧を祈っていた尊き方だ。それを、結局貴様らも政治利用するのだな!」
「民衆は祈りなんかで救われない。国中が天災や疫病で疲弊している中、圧政で王族と高位貴族だけがのうのうと暮らしている。王城は腐敗の象徴だ。ここに祀られている建国の女神の加護など紛い物だ! 市井に姿を見せないなら“祈り姫”は居ないのも同然なんだ!!」
守護騎士の擁護を魔法士は荒い語気でバッサリと切った。
「貴様!!」
「やめてナルモンザ」
激昂する騎士をアイリスが制する。
「ベイチェック魔法士、その通りね。国を作るのは人だもの。私が世情に疎い王女だなんて言い訳にもならないわ」
「姫様……」
ナルモンザが唇を噛んで黙る。しかし魔法士を憎々しげに睨んだままだ。ベイチェックは彼から視線を逸らして俯いた。
「俺だって王族全てが憎いわけじゃない……。出来ればあなたに仕えたかった……」
独り言のようなベイチェックの言葉をアイリスの耳は捉えた。唐突に理解する。王族に共寝を求められたらそれは命令だ。
(ああ、この人は……姉を恨んでいたんだ)
「“祈り姫”、お願いですから、今は大人しく俺に捕まってください! 俺が絶対あなたを守ります!!」
真摯な声音。ベイチェックの不機嫌な顔しか知らないアイリスはびっくりして真顔の彼を凝視した。が、すぐにゆっくりと首を振る。
「お断りよ。世間知らずの王女でも矜持はあるの」
アイリスは懐から短剣を取り出し、自分の心臓に向ける。アイリスの意図に気がついたベイチェックが叫ぶ。
「止まれ!!」
慌てる魔法士にアイリスは微笑んでみせた。
「ここは王室の聖地。私にその程度の拘束魔法は効かないわ」
焦った魔法士がアイリスに向かって駆ける。
アイリスは顔を歪ませる男の目をしっかり見つめて、剣を握り直す。
「話した事もないあなたを信用しろって!? 馬鹿馬鹿しい! 自分の人生の幕引きは自分で決める!!」
「姫様!!」
「祈り姫!!」
ナルモンザの声に重なる絶叫。ベイチェックが必死の形相で手を伸ばす。
「将軍に死体の女王を贈るわ!!」
哄笑したアイリスは、躊躇せず自身の胸に思い切り剣を突き刺す。
青年の悲痛な叫びが部屋に響いた。
「あなたのために魔法士になったのに!!」
(え? 私、あなたと知り合ってないわよ……ね?)
ちらりとアイリスの頭を過ったが、その疑問はすぐに霧散した。
だって、痛くない。
……今、確かに刺したのに。痛みがない……?
______。
____死んではいけない……。
アイリス……未熟な少女よ……しかし貴女しかいない。この時代の是正をあなたに託します。
女性の声が頭の中に響いた。
(…………誰?)
ここはどこ? まるで身体が宙に浮いているみたい。心も体もふわふわしている。
何も見えない。あたりは真っ白なのか、真っ暗なのか。それさえ分からない。刹那なのか、悠久なのか。
◇◆◇◆
「!!!」
アイリスはカッと目を開いた。唐突に視覚が戻る。気がつけば椅子に座っており、鏡の中の少女と目が合った。
緩やかに波打つ淡い紫銀色の髪、そして丸い大きな菫色の瞳。
紛れもなく自分だ。……でも幼い。そして今、自分は鏡の前に座っており、髪を梳かれている。
「?? ……夢?」
小さく、口の中で呟く。ここは自室。いや、ここは九歳まで住んでいた古びた小さい離宮の部屋。今はいつなの!?
長い長い夢を見ていたのだろうか。
混乱のまま再度鏡の中の自分を見る。何度見ても、幼い。
「姫様、今日は可憐な感じでいきますね。王様の目を奪っちゃいましょう」
たった一人の専属侍女、ミランダがアイリスの銀髪に髪飾りを合わせながら声をかけてきた。
ミランダのこのセリフに覚えがある。
今日は父王に会う。いつぶりだろうか。用がないと呼ばない相手。……間違いない。今日は自分の十歳の誕生日。
そして、“祈り姫”となる日__。