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軌跡  作者: 坂本梧朗
4/4

その4 

 祖母が再び吉彦の家に姿を現したのは、引越して一週間経った時であった。商売をしてきた、そして商売の好きな、外交的な祖母は、すべてにこぢんまりとした枠のある、サラリーマンの家庭は窮屈であった。息子を中においた正子叔母との折り合いにもやはり気骨が折れた。外出好きの祖母が行き交う知人もそこには居なかった。野中の一軒家である叔父の家には、祖母が気晴らしに、気軽に買物をする場所もなかった。といって家の中で、祖父と一つ部屋で落ち着いている事はできなかった。家事は嫁がするので、祖母は手を出しにくく、所在がなかった。こうして祖母は吉彦の家にちょくちょく来る様になった。此がその最初であった。


 祖母が現われた時から吉彦の生活はたちまち乱れた。新しい気持で生活を始めようとしていた吉彦は、たちまち以前の悪夢に捉えられた。一度それから離脱できた思っていただけに、深い絶望感と危機意識、そして暗い怒りが吉彦を捉えた。祖母は祖父と、祖父のもたらすあの暗鬱な雰囲気と生活と結びついていた。吉彦の前に現われた祖母は、吉彦にとっては再びそれが始まるという予兆であった。入試は三ヵ月後に迫っていた。


 祖母は二晩続けて吉彦の家に泊った。淋しいということで、祖母は吉彦の父母の寝間に、父母と共に寝た。吉彦には祖母の行為が利己的で身勝手に思えた。特に夫婦の部屋に二晩も泊った事はその気持を強めた。実子でもない父の気持を思った。祖母はなぜこの家に執着するのかと思った。祖父、祖母など、自分を苦しめるものが、なぜいつまでも自分につきまとうのかと思った。吉彦は日記に、新しい未来に向かおうとする自分と、その足を引っ張ろうとする悪魔の絵を、暗い憤りをこめて描いた。祖母は明日も泊るのかと思った。勉強が手につかなくなっていた。自分の青春に春はいつ訪れるのかと吉彦は日記に書いた。


 吉彦が祖母に、自分でもどう言っていいかわからない混乱を感じながら、とにかく勉強ができないから叔父の家に帰って欲しいと言ったのは、その翌日の夕方、祖母がその日も泊りそうな事がわかった時であった。傍らには誰も居なかった。祖母は何も言わず、驚いた眼を見開いて吉彦を見ていた。吉彦は自分の言葉が祖母に深い打撃を与えた事をはっきりと知った。逃げるように吉彦はすぐ二階の自分の部屋に引き籠った。電気炬燵に座ると、奈落の底へごろごろと落ちていく感じの中で、縋るように日記帳を開いた。俺は正直に言ったんだと思った。俺は安らぎが欲しかったんだと思った。祖母が受けた打撃を思うと祖母ではなかったという気がした。祖父に言うことを祖母に言ったという気がした。何か取り返しのつかない、恐ろしい世界にまっすぐ自分が落ち込んでいくのを感じながら、吉彦は涙を流して、俺は平安が欲しかった、人間らしい憩い、充実感が欲しかったと日記に書きつけていた。


 暫くして母親が部屋に入ってきた。祖母が泣きながら告げたという。いずれ誰かが来ることは予期していた。吉彦は泣きながら自分の苦悩を母親に訴えていた。罪を犯したという落ちつかなさを感じながらも、それは塞ぎ止められていた水が出口を見出した様であった。母親はそういう吉彦をじっと見つめていた……。


 祖母はそれから来なくなった。正月に来るかと思ったが来なかった。吉彦は正月もなく朝から晩まで勉強した。祖父母のことは吉彦の念頭から追い払われた。「ストイシズム」と「緊張」が吉彦の標語になった。大学に合格すれば新しい自由な生活が始まる様に思われた。生活はそれなりに澄んでいた。家族、特に母親は吉彦にひどく気を遣う様になった。

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 吉彦は二月に私立、三月に国立の大学を受け、それぞれ合格した。


 祖母は二月の下旬頃から再びちょくちょく立ち寄る様になっていたが、泊る事は無かった。吉彦が大学に合格してからは再び泊る様になった。


 吉彦は、自分と祖母との間が、以前の孫と祖母との自然な関係ではなくなっている事を、自分の気持と祖母の態度から感じていた。祖母は吉彦を恐れる様になり、その分だけ冷たくなった。


 祖母は訪れると、叔父の家の暮らし難い事を、吉彦の母に愚痴るのだった。


 ――親孝行を気にかけている母は祖母の願いを叶えるだろう。祖母が移ってくれば祖父もこの家に来るだろう。父はその様な事に口出しをしない人だ。以前の生活が再び始まるだろう――。吉彦はそんな事を頭の隅で考えながら、大学のあるK市へ四月の上旬旅立っていった。



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― 新着の感想 ―
[一言] 大学受験を控えた吉彦の葛藤と、祖父母との関係性の複雑さ、それに対する陰鬱さが読んでいる側にひしひしと伝わってきました。 自分の力で如何ともできない環境変化に対して、人は憤りを覚えるものですよ…
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