表装された先祖の懸想文
挿絵の画像を作成する際には「Ainova AI」を使用させて頂きました。
教科書の製造販売を明治の御世より生業としている我が小野寺家は、大阪の船場でも名家として認知されておりますわ。
小野寺教育出版の創業者一族として世間様に恥ずかしくないよう、屋敷の調度類にも相応に心を砕いておりましてよ。
それは床の間を飾る軸物につきましても例外ではなく、季節の変わり目に応じて定期的に入れ替えておりますわ。
心躍る春には梅花や桜花。
太陽の眩しい夏には山水や翡翠。
実り豊かな秋には柘榴や柿。
そして北風吹き抜ける冬には椿や南天。
そうした四季折々の風物が軸物として飾られる床の間は、言うなれば「日本の春夏秋冬が凝縮された空間」で御座いますわ。
−未だ小学二年生の小娘に過ぎないのに、分かった風な口を叩いている。
そのような誹りは御門違いでしてよ。
この小野寺真弓、社長令嬢に相応しい立派な淑女になるため、日々精進に励んでいるのですから!
ところが、「自分の睫毛は見えない」とはよく言った物。
我が小野寺家には、少し変わった風習が御座いましたの。
八畳間に設けられた床の間には、四季折々の花鳥風月を描いた掛け軸が飾られるのですが、十一月の中旬だけは、その限りでは御座いませんの。
この時期に限っては、筆文字だけで構成された書の掛け軸が飾られるのです。
−どうしてこの時期だけは、文字だけの掛け軸を飾るのかしら?
−そもそも、この掛け軸にはどのような由来があり、何と書いてあるのかしら?
物心ついた頃には、このような疑問が私の胸中に芽生えておりましたの。
とはいえ、そこは子供の浅はかさ。
両親や祖父母に尋ねようと決心しても、幼稚園や小学校での生活に忙殺されているうちに、気付けば掛け軸が別の物に掛け替えられていたのですね。
そしてその頃には、疑問に思っていた事さえ忘れてしまうのでした。
やがて季節が巡って件の掛け軸が飾られる時期になると改めて件の疑問を思い出し、「何時か尋ねてみよう」と心に留めながらも、また日々の忙しさから忘却してしまうのでした。
この掛け軸に関する疑問の喚起と忘却は、ある時期までは私の中で風物詩と化していたのです。
その不毛な繰り返しを断ち切って下さったのは、小野寺家の跡取り息子である基行御兄様でした。
「家の床の間だけど…毎年この時期になると、字しか書いてない掛け軸を飾っているよね?普段は絵の掛け軸なのに…真弓は不思議に思わないかい?」
「あの掛け軸…御兄様も気になっていらっしゃったの?!」
件の掛け軸に疑問を抱いていたのは、私だけではなかった。
私にとりまして、これ程心強い事は御座いませんわ。
「それで御兄様…この掛け軸には、果たして何と記されているのでしょう?」
「そうは言っても、崩し字で達筆過ぎるからね…僕じゃ読めないよ。」
基行御兄様も、未だ小学四年生で御座いますからね。
昔風の崩し字で記された毛筆の文章の解読は、酷な話なのかも知れませんわ。
「僕に分かるのは、この掛け軸の文章が別な二人の人間によって記された物だって事かな。右と左で筆跡が違うし、落款だって二つ押してあるよ。」
「勝満に法華…この方々は何方なのでしょうか?」
赤い落款印を見つめながら、私は只々首を傾げるばかりなのでした。
幾ら二人で知恵を絞り合っていても、子供の浅知恵では永遠に真実へ辿り着く事など出来はしない。
それに気付いた私と基行御兄様は、御父様に直接疑問をぶつける事を決心致しましたの。
「床の間に飾ってある掛け軸の事かね?あれの由来に興味を持って貰えるとは、私としても嬉しい限りだよ。」
書斎でパイプを燻らせていらした御父様は、心地良い憩いの一時を邪魔した私共兄妹の乱入を、快く迎え入れて下さいましたの。
「あの掛け軸は、明治時代に崩し字で記された物だからね。基行や真弓が読めないのも無理はないよ。」
そう仰ると御父様は、私共兄妹を件の掛け軸が飾られた八畳間へ行くよう促したのですわ。
京洛を茜に染めしもみじ葉と君の姿を夢寐にも忘れじ
勝満
臥龍池の水より澄みし君の目に我の姿を永久に写せよ
法華
御父様が万年筆で記されたメモ書きと照らし合わせますと、幼少時からの疑問が一気に氷解致しましたの。
私共兄妹を悩ませていた件の掛け軸は、和歌を記した物で御座いましたのね。
「この二首の和歌は、秋の京都を詠んだ愛の歌で御座いましたのね。それでは、この和歌を詠んだ勝満と法華とは…」
「その御二人は、明治の御世における小野寺家当主と当主夫人。つまり、基行や真弓の遠い御先祖様だね。これは若き日の御先祖様達が互いの愛情を伝える為に詠んだ懸想文。現代的に言えばラブレターだよ。」
御父様の話によりますと、私共の御先祖様である勝満様と法華様は、それは仲の睦まじい鴛鴦夫婦だったそうで御座いましたわ。
家同士が決めた婚姻ではあったものの、その相思相愛振りは今日の恋愛結婚に引けを取らず、新婚旅行で訪れた京都の町では、当時は高価だった写真を何枚も記念に撮影した程だそうで御座いますの。
「その新婚旅行の楽しさと喜びは、船場に帰郷してからも色褪せなかったみたいでね。紅葉に彩られた京都の寺社仏閣に佇む新妻の美しさと愛しさを、勝満様は和歌に詠まれたんだ。」
小野寺家へ輿入れされた法華様は教養ある士族の御息女で、三代集を始めとする和歌への造詣も深かったそうです。
そして当時の小野寺家当主である勝満様も、教育出版を生業としている関係上、ある程度は和歌を嗜んでいらっしゃった。
そこで三代集の時代の平安貴族に倣って、御互いへの愛情を和歌で表現されたのですね。
「そして勝満様の和歌の左側に記されているのが、法華様による返歌なのだよ。照れ臭そうな勝満様から受け取られた手紙に、法華様は即興で返歌を書き足された。貴方の澄んだ瞳に、私だけを写して欲しい。そんな新妻の直向きな愛の和歌に感銘を受けた勝満様は、この手紙を表装して残されたのだよ。」
そして新婚時代の勝満様と法華様が京都を訪れた時期こそ、この掛け軸を床の間に飾る十一月中旬なのだとか。
この掛け軸を飾る事で、勝満様と法華様は新婚時代の思い出を懐かしんでいらっしゃったのでしょう。
やがて世代が交代すると、この掛け軸は勝満様と法華様を偲ぶ意味合いで飾られるようになっていったのですね。
「この掛け軸に仕立てられた手紙には、御先祖様達の思いが込められているんだ…僕が小野寺家の家督を相続したら、十一月には必ず飾る事にするよ。そして僕の子供にも、行く行くは受け継いで貰いたいな。」
どうやら基行御兄様にも、小野寺家の跡取り息子としての自覚が芽生えつつあるようですわね。
私も基行御兄様に負けてはいられませんわ。
小野寺家の娘に相応しい立派な淑女になれますよう、日々精進に励まなくては!
そして将来的には、勝満様や法華様のように素敵な愛を育み、子孫に末永く語り継がれたいものですわね。