笑っていて欲しいだけ
一方でセレーネは、カイロスを愛さないように自分を律するのが困難になっていた。カイロスがセレーネに対して出す声の甘さや、彼の瞳に宿る熱に気付かぬほど、セレーネは鈍感ではなかったが、愛を抱くなと言ったのはカイロスである。セレーネに対する試練なのか、カイロスが無自覚なのか、それともやっぱりセレーネの勘違いか。そんなことを考えながら、今ならまだ大丈夫だと、言い聞かせる毎日だった。
触れられるたびに顔は熱くなるし、キスをする度に胸が痛む。こんなに感情豊かだったのね、と自分に驚くほどで、セレーネは表情を出さない術をどうにか忘れないようにと記憶をたどる。
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめるようでいて、実はセレーネの身体に負担を掛けないようにと加減された力。
帰らない日が多かったと聞いているのに、毎日夕食までには帰ってくること。
宝石より花が好きだと知っているはずなのに、花と一緒に贈られる宝石やドレス。
休みの日には、話題の観劇や、新しくできた喫茶店、あのドレスに似合うはずのアクセサリー、と理由を付けて誘われるデート。
ふとした時に降ってくる口付け。
どうして、こんなことをするの。愛さずには、いられなくなる。とセレーネが思ってしまうのは仕方が無かった。
そもそもなぜ、カイロスは「愛さぬよう」などと言ったのか。
カイロスが第二王子だった頃、婚約者がいた。現王妃である。第一王子だったルーウェンの婚約者が、戦争になったバーン公国の姫だったため、開戦と共にその話は無くなり、第二王子の婚約者だった令嬢が繰り上がったのだ。その令嬢、現王妃とカイロスは八歳からの幼馴染でもあったが、婚約解消までの約十年間で、いよいよ恋も愛も育めなかったのである。
「次は、お相手を愛せればいいわね。お互いに。」
そう言われたのは婚約破棄の書類にサインをした時だ。その後騎士団長として参戦し、戦場を駆け抜けて5年。すっかり女っ気も無くなってしまい、令嬢たちからは戦闘狂として避けられるようになっていた。これでは一生独身か、と思っていた矢先にセレーネとの結婚が決まったのだ。どこぞの令嬢が自分に惚れるわけもないし、自分が誰かを愛するなんて想像もできない。互いに無謀な期待は最初からない方が良いだろう。そう、思ったのである。
蓋を開けてみればどうだったか。セレーネは媚びず、恐れず、自分に出来る事をと頑張る健気な女性で、触れれば壊れてしまいそうなのに懸命に自分の足で立っている。侯爵家での扱いは調べ上げ、貴族の令嬢とは思えぬ暮らしだったと知るが、結婚し笑顔を見せるようになった彼女に昔の話は不要だと思った。体格差のせいもあるが、見上げながら視線を合わせるセレーネは庇護欲をそそる。あの夜会ですら見惚れてしまったのだから、一緒に暮らして好意を抱かぬはずが無かったではないかと、今なら過去の自分を叱咤できるが、後悔とは先にはできなからこそ"後"悔なのだった。
ところで、カイロスはセレーネの生家での扱いを調べる中で思いもよらぬものを釣り上げた。
メテオ王国では重罪のもので、以前のカイロスならすぐにでも国王へ報告しただろうが、一度踏みとどまってしまった。なんとか更生させる術はないか、と考えたのは、セレーネの生家だったから。
カイロスの思いを踏みにじる様な出来事が起こったのは、それから二か月後の夜会だった。
仲睦まじい公爵夫妻だが、一向に懐妊の兆しが無い。結婚してもうすぐ二年のはずだが、もしかして仲は冷めきっているのでは。との噂が一部で出回っており、それがカイロスの耳に入った。
その夜会を、カイロスはすぐに後にした。帰りの馬車の中で、セレーネは何かあったのかとカイロスに尋ねた。
「‥‥‥君が心配することは何もない。」
そう言いわれて、向かいに座っていたはずなのにカイロスの膝の上に乗せられたセレーネは、困惑するだけだった。
セレーネが妊娠し辛いのは理由があった。成長期という身体が大人になる大事な時期に、十分な栄養を摂取できなかったため、月経不順になっていたのだ。健康的な肉付きに近づいた最近こそ、徐々に正常な周期に戻りつつあるが、まだしっかり月経が来ない月はある。
膝に乗せたセレーネの腰回りを確かめるように、カイロスは腕を回したが「まだ細い」と呟いて彼女の肩に額を擦りつけた。
「‥‥コルセットのせいですよ?」
「それを付けなくても、殆ど変わらないだろう」
「なにをおっしゃっているのですか。着けなければ、倍はあります。」
「君こそなんの冗談だ、セレーネ。殆ど毎晩一糸まとわぬ君を見ている俺が言うんだ。間違うはずがない。」
「な‥‥‥」
言葉が出ず顔を染めながらパクパクと口を動かすセレーネに、カイロスが愛おし気に笑みを漏らしたので、セレーネは耐え切れず顔を手で覆った。
カイロスから見れば、ただでさえ小さな身体を更に縮こまらせて耳まで赤くしているセレーネは、抱きしめてくれと言っているようなもので、カイロスは己の心に従ってセレーネを抱きしめるのだった。
なぜ馬車の中でこんなことになっているのかを理解できないセレーネは、カイロスの腕の中で息を潜めるのが最善だと信じて疑わなかったが、更に小動物と化したために一層カイロスの腕の力が強まるだけである。
カイロスは、噂の目的は分かっていた。数か月前から頻繁に来るようになったアイゼン侯爵からの手紙と同じである。色々と理由を付けてはいるが、内容は「セレーネを帰省させるように。」ということ。セレーネを疎んでいた侯爵家が彼女を呼び戻そうとする理由が、良いことであるはずない。
偶然釣り上げて"しまった"悪事の証拠は掴んでおり、きっとこれをセレーネに擦り付けようとでもしているのだろうと予想できた。夜会での噂も明らかに悪意のこもったものだ。カイロスは「もう容赦をする必要はないということだな」と行動することを決めた。
セレーネと血の繋がりがあるのは侯爵のみで、帝国の姫はセレーネの母方の祖母。ということは、今の侯爵家に帝国との繋がりは無い。
翌日、カイロスは久しぶりに兄であるルーウェン王へ謁見した。
「ということですが、よろしいでしょうか。」
「もしかして質問のつもりか、公爵。決定事項のように聞こえるが?」
ルーウェンは苦笑してそう言った。カイロスの話の通りなら、侯爵家は取り潰しとなるか、家名のみを全く別の者に渡すことになるだろう。出された証拠に目を通しながら、智将と呼ばれたルーウェンは今後の段取りを複数並行して考察する。カイロスが出した証拠は、この国では重罪となる人身売買に手を出したものだった。しかし、ルーウェンが驚いたのは、書類の日付が二か月前のものまであることだった。これを隠そうとしないところは、カイロスらしいが、そもそもすぐに報告するのがルーウェンの知るカイロスという男だった。
「カイロス、私が言いたいことはわかるな?」
「はい、陛下。私の私情にて、報告が遅れたのでございます。」
「私情か。我が弟からそのような言葉を聞く日が来るとは。王妃も驚くだろうよ。」
「‥‥兄上」
「ああすまない。遅い春が来たらしい弟を揶揄いたくなっただけだ。」
口元に笑みを浮かべるルーウェンは、カイロスの反応を楽しんでいるだけである。そんな会話をしながらも、頭の回転を緩めないのがルーウェンという人物であることを、カイロスは知っていたので、ため息をついて次の言葉を待った。
「ふむ。アイゼン侯爵夫妻とその娘は牢屋行きの片道切符を手にしたようだが、この報告を遅れながらも持って来たラズワルド公爵の願いを聞こう。叶えられるかは聞いてからだが?」
「温情に感謝いたします。本件に関しては可能な限り迅速にご対応を願いたく。」
「ほう‥その心を聞こうか」
「できるだけ我が妻の耳には入れたくないのです。」
はははとルーウェンの笑い声が響いた。防音の施された部屋とはいえ、扉の前で待機している衛兵2人には聞こえたようで、無言で目配せし合っていたとか。
「なるほど、いやあ柄にもなく安心してしまったよ。我が命にての婚姻だったからな。兄としては幾何かは心配していたのだ。無論、王妃もな。」
「それは‥‥」
「戦争から帰還した後に、一度だけ飲み交わしただろう。あの時に「誰かを愛せる自信が無い」と吐露していたカイロスをな、その、まあ、なんだ。血を分けた兄弟としては、心配していたんだよ。」
「兄上‥‥というか、俺はそんなことを言っていたのですか。」
「おいおい、記憶がないか?確かに、しこたま飲ませたからなぁ。戦場に行って更に大柄になって帰ってきた弟を潰すのが思いの外楽しくてな。」
「はぁ‥。」
兄の性格はよく理解している弟である。カイロスは片手を額に当て、大袈裟にため息をついた。一頻り笑ったルーウェンは、もう一度国王としての顔でカイロスの願いを聞き入れることを約束した。
一か月後には、アイゼン侯爵を名乗っていた男とその妻、その娘は牢屋へ入った。家名はアルバ侯爵と改め領地と共に戦争で功績を上げたカイロスの部下に授与されることになったのだった。
その一ヶ月間、セレーネはカイロスの意図の元に領地の屋敷へ行っており、呼び戻された頃には全て終わっていて、結果のみを簡潔に聞いたという。