#2
これはついひと月程前の事。
その日はいつになく仕事が立て込んで、夜遅くまで残業してしまった。私は疲労困憊の状態だったがどうにか仕事を切り上げ、やっとこさ終電に間に合った所である。
終電に乗るのは嫌いじゃない。どちらかと言えば、早朝から満員電車の中でおしくらまんじゅうするより、誰もいない電車で人目を憚らずくつろぐ方がよっぽど快適だ。特に残業して疲れ果てている時は。でも私は、なるべく遅く帰る事はしないようにしていた。
生活リズムを保つって言うのもあるけど、それより――夜に帰るのが怖いのだ。
マンションに着きオートロックのドアを開けると、ロビーの奥に薄汚れたエレベーターが一基見える。一瞬身体が硬直する。ドアが閉まりそうになるのを慌てて止めて、私は躊躇いながらもエレベーターへ向かった。
恥ずかしい事だが、私は夜帰った時にあのエレベーターを使うのが怖い。あれがいわくつきとか言う訳ではないけど、夜になって蛍光灯に照らされると、何となく怖い雰囲気が醸し出されて私は苦手なのだ。
それにどうしてだろう――今日は何だか妙な胸騒ぎがする。
何というか、今日はいつになくエレベーターを使う気になれない。階段で上がろうかとも考えたが、この疲れを背負って8階まで上がるのも億劫だったので、仕方なく乗る事にした。
エレベーターに乗り「8」と「閉」のボタンを押すと、両側から扉がスーッと閉まる。外が見えなくなって私は少しひるむ。エレベーターが上へ昇っていく感覚がする。
やだなぁ、この時間。気付けば時刻は午前12時を回っている。ただでさえ一人で乗るのが怖いのに、今日はさっきから冷や汗が止まらない。早く8階まで昇って欲しい、と私は切に願う。
階数表示が「4」から「5」に変わった時の事。
ガシャガシャガシャーン‼︎
と、上から物凄く大きな音がした。エレベーターの中が揺れる。驚いて壁に掴まった瞬間、電灯が激しく点滅して消えた。
「え、え、え、何? 停電???」
口をついた言葉が震える。
エレベーターの中は真っ暗で何も見えない。手探りでバッグを掴み取り携帯を探すと、ライトをつけて辺りを照らした。
ボタンの電灯も階数表示の光も付いていない。非常時ボタンを押しても外部に繋がる気配がまるで無い。故障してしまったのか。
何でこんな時に限って故障なんかするんだ‼︎ これじゃ私、助けが来るまでここに閉じ込められたままじゃないか。
絶望感を覚えた時、私はふと妙な声を耳にした。初めは空耳かと思ったが、耳を澄ましてみると確かに声が聴こえてくるのが分かった。
「あ‥‥‥あ、あ゛ぁ‥‥‥ああ‥‥‥」
何、この声? 女の人の声だろうか、エレベーターの中に不審な声が聴こえてくる。やがてそれが上の方から聴こえてくるのに私は気付いた。
「ぁあ、あ、あ゛あぁ‥‥‥あっ、ああ」
「何、何、何何何何何何何何」
もう訳が分からない。一体何でこんな状況になった? どうしたらいいの?
「やめて、やめて、やめて」
私はパニックになりながら「開」のボタンを連打する。でも何も反応しない。何かしない訳にはいかないのでとにかくボタンを押し続ける。でも状況は何も変わらない。エレベーターの中だから電波も繋がらないし、助けも呼べない。
頭が焦りで押し潰されそうになる。耳の奥ではあの呻き声が耳鳴りのように聴こえてくる。
「あ‥‥‥あ゛あぁあ‥‥‥ああ‥‥‥」
「やめてやめてやめてやめてもう、お願いだから、お願いだからやめて‼︎」
いよいよ涙が溢れそうになったその時。
ピンポーン、とベルの音が鳴って、私は拍子抜けした。続いてエレベーターの中が明るくなり、目の前でドアが開いた。
故障が治った⁉︎
でも気を抜いている暇はなかった。私はバッグを引っ掴んで全速力でドアから脱出する。エレベーターは床から若干高いところで止まっていて、勢いよく飛び出した私は硬い床の上に着地した。
‥‥‥助かった。
床に強く打ったからか身体がヒリヒリと痛い。でも息苦しさは無くなった。私は起き上がってゼエゼエと息を整える。
今、水みたいなのが付かなかった?
ふと見たら、手元に赤い水滴が付いていた。頰を触ってみると、指から真っ赤な液体が滴り落ちる。
「へっ‥‥‥?」
ぞっとなって私は後ろを振り返る。
高いところで止まったエレベーター。そこに私ははっきり見えてしまった。上方から、真っ赤な液体がポタポタと垂れ落ちて来るのを。
「いやああああああああああああっ‼︎‼︎‼︎」
私は悲鳴を上げ、一目散に階段を上がって逃げた。
どれくらい経っただろう。何だか外が騒がしくなって私は目が覚めた。
あれからどうしたのか自分でよく覚えていない。気付いたら自宅の部屋で頭に毛布を被って寝ていた。服もスーツのままである。私はウンザリとした気持ちで起き上がり、大きく欠伸をしながら普段着に着替えた。
まるで悪夢のようだ。いや、悪夢で終わっていたらどれだけマシだったろう。グレーのスーツにはところどころ深紅のシミが付いていて、私は乱暴な手つきで洗濯機の中に放り込んだ。
家の外はまだ何やら騒がしい。理由は半分分かっていたが、疲れていて様子を見るどころではなく、そのまま毛布をくるんで二度寝しようとする。だがどうにも寝付けなくて、私は仕方なく外へ出てみる事にした。
騒がしいのは8階ではなく、一つ上の9階からだった。階段で上がると、真っ先にエレベーターのドアが開かれたまま黄色いテープで張られているのが見えた。周りには警察の人が何人か居て、その様子をまたマンションの住民達が不安そうに眺めている。何だか物々しい雰囲気だ。
あまり聞きにくかったが、一応近くにいた警察官に事情を聴いてみる。警察官は何やら神妙な表情をした。
「それが実は‥‥‥昨日の晩、あそこのエレベーターから女性が飛び降りた事件が起きまして」
「‥‥‥エレベーターから、飛び降り???」
「ええ、はい、まあ。まだあまり大きな声では言えないんですけど、飛び降りた女性はマンションのこの階の住人で、女性はあのエレベーターのドアをこじ開けて、下にある機体めがけて飛び降りたみたいです。自殺か他殺かはまだ分からないのですが」
「そうなんですか。それは大変ですね。お仕事中失礼しました」
「え、あ、はい?」
私は片言の挨拶を言い、そのままくるりと踵を返して逃げ出した。
それ以来、私はあのエレベーターが使えない。




